楽園の始まり
最初の部屋は、特に変哲もない十五畳ほどの部屋。部屋の隅には机や椅子が重なって置いてある。
確かに、不思議と床は埃っぽくはなかった
収納スペースのような場所も梶田くんが開けてみるが、特になにもなかった。
「御札でも入ってればおもしろかったのに」
そう梶田くんは笑っていた。
左奥の通路からその部屋を出ると、二人くらいが並んで歩ける廊下で、正面と左に部屋がある。左は同じような造りの部屋で、奥の部屋は本を置いてあった部屋なのか、大きな本棚が二つあるだけだった。
右には正面玄関へと続くだろう十五段程の上り階段があり、赤いカーペットが敷かれている。
建物全体に言えることだが、蜘蛛の巣もなく、鼠などが生息している気配もない。言葉はおかしいが、綺麗な廃墟だ。
「普通だね」
つまらなさそうに、梶田君が呟く。
「しかし、なんで手入れされてるんだろうな。このカーペットだって、多分そうだぜ」
佐々木君がカーペットをなぞる。ゴミは付着していない。
部室の畳より綺麗だ、とジョークを混ぜる。まあ、笑いは起こらなかったが。
「避難所とかに指定されてるんじゃないの?」
「いや、それは小学校あるし」
階段を上った先は左折になる。また暫く廊下があり、左手には幾つかの部屋、通路の奥にはトイレ。途中で右に曲がれば体育館らしきスペース。そこから正面入り口に繋がって、終わりである。
「正面入ったら、直ぐに体育館なんだね」
「幼稚園で体育館って言い方はおかしくない?」
「じゃあ何ていうの?」
「さぁ、それはわからないけど」
愛咲もだいぶ慣れてしまったようだ。口ぶりにも余裕がある。
廊下の左には、先ほどと同じような何もない部屋と、職員室らしき大きな部屋。入ってみると、中には片付けられたデスク、そして椅子が放置されている。
皆で中に入り、周囲を見渡す。
「この部屋、外から丸見えだな。ライト消そう」
ライトを消しても、月明かりが部屋を照らしていた。弱々しい光だが、薄い影が六人分伸びる。
「しかし、思った以上に何も無いな」
机の引き出しなどを容赦なく漁りながら、俊明が笑う。
廃墟といえど、あるのは机や棚だけで、他のものは一切撤去されていた。まあ、当然といえば当然だが。
「後は体育館だけだしね」
そうして、梶田くんが園長先生のと思わしき席の椅子に腰掛けた、そのときだった。
水の流れる音が、あたりに響く。
聞き覚えのない音ではない。水洗のトイレの、水が流れるような音。
それはまさに、この先にあるトイレから発せられていた。
「……なんで?」
佐々木くんが引き攣った笑みを浮かべる。
「水はまだ流れるって、話だったけど……。だ、誰かがトイレを借りに、先に入ったとか?」
その現実味のなさは、言葉の震えが証明していた。
「……シっ!」
愛咲が皆に沈黙を強要する。そして、次の瞬間。
部屋の前の廊下を、歩く足音が響く。絨毯なのでそこまで大きな音はしないが。
トト、トトト……。
皆、息を呑み、言葉を失う。
足音は下のほうへと去っていった。
視線を合わせる皆、冷や汗を浮かべ、引きつった顔をしていた。
「何今の……」
声を潜める。何かに見つからないように。
「足音、じゃね」
状況を把握して尚且無意味な回答をする俊明に、イラついた声を愛咲は出す。
「そんなのわかってるわよ」
それがなぜ苛つくのかというと、その足音は大人ではありえないほど小さかった。
そう、まるで子どもが駆けるような。
廃園になった幼稚園で、子どもの足音。誰だって、子どもが侵入しているとは思わない。
「と、とにかく、出よう」
佐々木君が提案し、皆それに応じる。
「ここから外に出るか?靴は外から回収しておけばいいだろ」
「でも、そしたらここの鍵はどうするの?」
「そんなの、管理人のミスってことになるだろ。とりあえず、出よう」
そうして、窓ガラスをあけようと試みるのだが。
「……開かない」
「なんで!?」
紗子が声を張り、皆に視線でとがめられる。
「……後から溶接されてる。此処、見ろよ」
窓ガラスは動かないように固定されていた。手の込んだことだ、と言いたいが、普通の廃墟にはない現実に、焦りが襲う。
「割っちまうか?」
「いや、流石にそれはやばいだろ?」
「大丈夫だって。俺らが割ったなんて証拠はないし」
「携帯は?」
「……圏外!?嘘だろ?民家もあるんだぞ!?」
男子のああでもない、こうでもないという切羽詰った議論を聞き流しつつ、皆の様子を伺う。ちなみに、私の携帯は電源すら入らなくなっていた。
愛咲は予想外に冷静だが、紗子の様子はどうもおかしい。
「どうしてこんなことに!そもそも、俊明君がここに行こうなんて言うから!」
男子たちの会議を遮るような、ヒステリックな叫び声がした。愛咲もそう言いたかったのだろうが、状況が状況だけに声を潜めていた。
怖がりの方が、実際恐怖と対面した時に冷静を保てるのかもしれない。
「ちょ、大声出すなって!」
声を潜めようともしない紗子に、俊明が人差し指を口に当てながら注意する。
「だって――!」
その言い訳は、最悪とも言える反応によって掻き消えた。
――先生?
閉じたドアの向こうから、華奢な声がした。
私たちはまた閉口して、気配を消す。
扉の向こう側に、何かがいる。皆、それを理解していた。が、その次の瞬間。
大勢が押し寄せる足音と共に。
――先生?先生だ。先生が来た。
左から右へ。
先ほどとは比較にならないほどの足音と、明確に聞こえる声。それは明らかに人間のものではない。
高かったり低かったり、ハウリングしていたりそうでなかったり。ガラスと扉が揺れる。
「鍵は!?」
声を潜めて、佐々木くんが指示を出す。
「かけてる訳ないじゃん!」
私も声を小さくして返す。今から鍵をかけるにも、扉に近づくことは恐怖でできない。
そうこうしているうちに、廊下にいる彼らの行動は苛烈さを増していく。
――トン。トントン。バンッ!
扉をノックする音から、扉を叩く音へ。
ポルターガイストとでも言うのだろうか。机が揺れ、壁が揺れ、ガラスが揺れる。
――先生、いるんでしょう?遊ぼう?遊ぼうよ。退屈だよ。何してるの?ねえ。ねえ。
「やめてっ!」
男女なのかどうなのかもわからないその声に、紗子が反応してしまう。
その言葉通り、声も、扉を叩く声もぴたりと止まる。
沈黙が、恐ろしい。私たち五人は、紗子を危険物のような瞳で見ていた。
――先生だ。先生だ。先生だ。先生だね。
無数の声が紗子を確認する。嬉しそうにはしゃぐ気配に、悪寒が走る。扉の向こうでは何が起こっているのか。考えるに恐ろしい。
――遊ぼう。遊ぼうよ。何する?鬼ごっこ?縄跳び?それともかけっこ?
ドタドタと騒ぐ気配がする。こちらの気配が知れた以上、紗子に何かしらいい答えを返してその場を凌いで欲しい。のだが。
「もう、何なの!?あっち行ってよ!私は先生でもないし、遊びたくなんてない!」
そう叫ぶように紗子が言い放つと、怒号のような声が響く。
――遊んでよ!遊んでよ!どうして遊んでくれないの!嫌だ嫌だ!
そして、最悪の言葉が飛び出す。
――遊んでくれない先生なんて。
要らない、要らない、要らない、いらない、いらない、いらない、いらない――。
まるで子どもが癇癪を起こしたような、しかし不気味で恐ろしい声。
「やばいぞ、紗子!」
「五月蝿い!あっち行って!」
紗子は全てを拒絶するかのように、私たちの言葉さえ拒絶する。
「あ、あー。隠れんぼ、隠れんぼしよう!せ、先生が鬼な?」
総言葉にしたのは梶田くんだった。
一瞬の静寂。
――隠れんぼ。隠れんぼ。先生が鬼。
嬉しそうな声が響く。
「ナイス梶田!」
俊明が親指を立てる。
「じゃ、じゃあ、二百数えるから、その間に隠れるんだぞー?」
震える声を押して、梶田くんが言葉にする。
そうして、梶田くんが数を数えだす。
「悪霊、って訳じゃないのか?」
「知るかよそんなの!とにかく、これで出られるんじゃないか?」
佐々木くんも、梶田くんのアイディアに乗る。
「梶田、できるだけゆっくり数えろよ」
この状況で一人声を張り上げる梶田くんは、負担も大きいだろう。しかし、梶田くんは頷き、できるだけゆっくりと数を数え始める。
「そもそも、紗子ちゃんが声を上げるから!」
「何よ!ここに連れてきたのは俊明君じゃない!」
身も蓋もない議論にすり変わりそうなのを、私と愛咲が止める。
「今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
「そうだよ。なんとか逃げなきゃ」
そう言うと、皆一旦静まる。梶田くんが数える数字は二十になった。
「あの部屋まで行けば、出られる」
俊明の言葉を、皆すがるように信じる。
「それも無理そうなら、ガラスを割って一目散だ。土下座してもいいから隣の民家に駆け込もう」
「私としてはもうガラスブチ割りたい気分なんだけど」
「ま、まあ、穏便に済ますことができる手段ができたことだし。でも、もしかしたら、今なら普通に出られるんじゃ――」
私がそう言った、言ってしまったとき、皆、気付いた。
――梶田くんが数を数えている間は、彼らは出てこないのではないか?
しかしそれは、ここに梶田くんを置いていくということでもあり。
梶田くんの表情が、怯えに変わる。
「何言ってんだよ、数え終わってからのが確実だろ?なんせかくれんぼなんだ――」
そう俊明が言うにも拘らず、動き出す陰。
「紗子っ!?」
紗子は一目散に駆け出し、扉を開けて廊下に出て行った。
梶田君のカウントは三十。全力で走ればあの部屋まで十数秒。気配を消しもせず、浴衣が乱れるのも気にせず、紗子は、逃げた。
「紗子っ!」
私が廊下を覗き込むと、またあの声がする。
――先生だ。女の先生だ。一緒に隠れよう。隠れよう?鬼が来るよ?鬼が、鬼が――。
私は瞬間、扉を閉めていた。
「雨深!紗子は?」
私は全力で顔を横に振る。その刹那、紗子のものと思われる悲鳴が、小さく響き、そして消えた。
「……マジか」
佐々木君の顔から、はりぼての笑顔さえ消える。
沈痛な時間が流れるが、梶田くんのカウントは進む。皆、それに押されるように意識を持ち直した。
「何があったのかは知らないけど、気絶してるだけでしょ。あの部屋に行くわけだし、回収していけばいいよ」
愛咲のその意見に、しかし佐々木君が反論する。
「そんな簡単によく言えるな!こんな訳分からない状況で!」
「静かにしろよ!お前も『先生』になりたいのか!」
「机も、六個あるしね」
私の言葉に、皆静まる。
よく見ると、職員室の机は園長先生のものを入れて丁度六つ。偶然なのだろうが、それに気付いて俊明が顔を蒼くする。
「――とにかく!カウントが終わったら、外に探しに行く体で外に出る!そこからはダッシュで敷地外に!紗子もいるだろうから、佐々木、頼む」
私は気丈に振舞っている愛咲の元へと。
「全く、だからガラス割って外に出ればいいのに」
声は震えているが、理性は失っていないようだった。
「でも、こんなことになってるってことはさ、ガラスとかさ、破ったら駄目なんじゃない?」
「どういうことよ?」
私は推測で話す。残りのカウントは百。なんとも長い二百秒だ。
「あれってさ、子どもだよね?」
「……まあ、そうでしょうね」
「ガラスとか割る姿を見たらさ。あの子たち、そういうことを覚えるよ。そして、ここから出ていくんじゃない?」
「出て行くって、どこに……?」
「そりゃあ……、知ってる人たちのところに」
寂しさを埋める為か、それとも冒険心か。無邪気に、そして悪意無く。
だが、決してそれが私たちに害を為さないと決まっているわけではない。
そう、私たちと彼らはもう、違う存在なのだから。
「あの子達は、職員室に入ってこなかった。つまりは、ここは少なくとも、今は安全で。そして、彼らは真面目な『良い子』」
しかし、いくら呼んでも出てこないのならば、彼らもここに入ってくるだろう。私たちだってそうするから。
「私たちは先生。先生がガラスを割って逃げたのなら、きっと彼らも真似をするよ」
子は親の背を見て育つ、という言葉もある。少なくとも、彼らの前で不当な行為をすることは、自分たちの生存すら危うくさせるような気がした。
ここを取り壊しもせず、隔離しているのには、それ相応の理由がある。やはり、ここに立ち入るべきではなかった。少なくとも、私たちのように遊び気分でこういうところに入る『悪い子』は。
「知ってる人って、私たちも含まれるわけ?」
「見られちゃったら、そうじゃないかな?」
『先生』になってしまった紗子や、梶田くんは、二度と此処に近づかないほうがいいだろう。出きれば、の話だが。
「っていうか、雨深、余裕あるわね」
「いや、怖いって言えば怖いけどさ。まだ、皆居るから」
正直に言って、滅茶苦茶怖い。紗子の悲鳴がしたときは、脚から力が抜けそうになった。
俊明は馬鹿だけど、此処に来た責任を取ろうと奮闘している。佐々木君もそうだ。梶田くんも、震える声でカウントを決してやめない。紗子は、まあ、今日一日強がって、疲れていたんだろう。そう思うことにする。
「人がいいわね」
「よく言われます」
こんな状況でも、小さくても笑えることが救いだった。
「つまり、ここのガラスやら何やらを壊さないほうが後々の為じゃない、って事」
私が考えたことを、皆に愛咲が伝える。そちらのほうが説得力がありそうだったからだ。リーダーシップという奴だ。悲しいかな、私は統率力に欠けている。
「まあ、確かにここから出れても、憑いてこられたら意味無いもんな」
佐々木君も同意する。
ここに確かに存在する『彼ら』を、『良い子』にしたまま、私たちは外に出なければならない。
とどのつまり、良い子であれば私たちに害を為す存在ではない、ともいえる。そう考えると、紗子のことにも希望が持てる。隠されているかもしれないけれど、この廃墟には隠れるところは少なく、相手はこの世のものではないが子どもだ。隠れんぼだろうが、異次元とかにいなければ見つかるだろう。
それが『悪い子』になればその定かではない。だから、ガラスを割るような真似はするべきではない。人間でさえ恐ろしい不良に、霊がなるのだ。その恐ろしさは想像ついたものではない。
私の意見は、多少なりとも皆に希望を与えたようだ。少なくとも、下手な行動をしなければ呪いたたられることは無い。憶測だが、希望がないよりマシだ。
「に、二百……」
梶田君のカウントが終わる。数秒の沈黙。安全な時の終わり。