夕立の前
「御苦労、朔夜」
血を拭い鞘に霧雨を仕舞った朔夜が振り返り高時を真っ直ぐに見据える。 倒れている男の呻き声だけが二人の間にあるだけで、互いに沈黙を落としている。
高時が訝しげにスッと目を細めた。
その途端に目を逸らした朔夜が屈みこんで男の切れた膝の上を縛りながら告げた。
「ああ言ったが、そんなに深くは斬れてはいない。手当てをきっちりと受ければ大丈夫だ。助けを呼ぶから今しばらくここで待て」
しばし呆けた顔になった男が、その言葉を咀嚼し終えたのか慌ててがくがくと頷いた。
立ち上がった朔夜を見て高時が出るように促す。
息切れて倒れている市居を振り返って朔夜が問うた。
「大将首は?」
「それは垂水の頭領に呉れてやれ。今度の奇襲は垂水の案だ。褒賞第一だ」
「そうか」
瞬時、朔夜の声が優しくなったような気がして、高時はふと足を止めて振り返った。朔夜も足を止めて高時の顔を見つめ返した。
光を受けた朔夜の瞳が薄茶色に煌めく。緩い風がサラリと柔らかそうな髪を揺らす。
思わず手を伸ばしたくなる。
それは誰にも決して懐かない猫の柔らかく上質な毛並みを撫でたい欲求に似ている。
手を伸ばせばしなやかに身をかわして逃げてしまう。誰にも触れさせない孤高の猫。
その猫に触れた男がいた。
「……近頃のお前は少し馴染めない」
朔夜がため息と一緒に呟く。
僅かに顔をしかめただけで何も言わない高時から視線を外して続けた。
「お前は既に多くの者を支配する立場にある。だから時には威圧と強制を持って接する必要もある。だが違う、お前が装う強さは違う。失っていくな。お前の中の大切なものを」
「……何が言いたい?」
「上手くは言えない。だが、お前の中の人を信じる力、命を大事にしようとする思い。それを失っていくな」
「それを俺が失ったと言いたいのか?」
「失わないで欲しいと……俺は思う」
高時には朔夜の言わんとすることが理解できなかった。
自分は変わっていないと思う。
確かに裏切りを味わい、人の全てを受け入れる難しさは知った。だが今でも出来うる限り敵も味方も命を落とすのは最小限にするよう常に考えている。生死の戦いを回避できるのであれば、そのためには策略も謀略も厭わない。
それを朔夜は理解してくれていないのか。
常に共に戦場を駆けて、そばにいるのに理解してくれていなかったのか。
失望で目の前が暗くなった。
胸に言い知れぬ重りが沈んでいく。深く深く沈みこんで歩けなくなる。
それを気力で振り払い、無言のまま足早に寺から出るや、朔夜を置いたまま馬を走らせた。
*
去ってしまった高時を見送った朔夜は空を仰いだ。
夏の日差しが遠慮なく降り注ぐ。蒼天に真っ白な雲が存在を主張するように湧き上がる。
夕立が来そうだ。
それまでに高時は帰って来られるだろうか。
外にいる者に怪我人がいる事を伝えて戸板で運ぶように手配させた。
あの男の傷は深くないが、放っておけば本当に歩けなくなるかもしれない。こちらが動かなければ、高時はあの男をどうするつもりだったのだろうか。
敵方の男だ、呻き声を上げていても気にも留めなかったのだろうか。
多分、そうだろう。
朔夜も以前はそうだった。
自分を脅かすもの、金を持つ者。目的の物を奪った後はその命が繋がろうが失われようが、全く気にもならなかった。そんなもの自分に関わりなかった。
だが今は見過ごせない。
そうさせたのは高時だった。高時の真っ直ぐな人を信じる力が朔夜を変えた。
――だから、お前は気高く美しい心を失わないでくれ……
朔夜は抜けるような青空に向けて瞳を閉じた。