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 ――いつか願ったのは自分だ。これ以上こいつを傷つけないでくれと、そう神に願ったのは自分だ。もう苦しみを与えないでくれと……


 何も持たなかった朔夜が、一度は手にした人としての温もりと生きる術の全てを失うことが、どれほどの痛みを伴い、一生の悔いになるかを、同じような境遇を生きた志岐なら痛いほど分かる。

 高時を始め友三郎も佐和姫も、朔夜へと温もりを与えていた全て、それを切り捨てて一人で凍える道を歩くなど、どれほどの覚悟だろう。


 志岐には出来ない。

 垂水を離れて一人で生きるなど、もう志岐には出来ない。

 悔いることを分かっていながら、それでも行かせるしかないのかと、志岐は心の中で己に問いかける。


 近くの邸から一足早く見事に咲いた桜の花びらが夕暮れの風に散らされて二人の周りを踊りながら舞い落ちる。ハラハラと音もなく舞い踊る。


「桜か……」


 顔を上げた朔夜の目が夕日を受けて煌めく。

 痛みを奥に秘めながらも穏やかな光を湛える瞳に志岐は言葉を失う。


 何よりも美しいこの瞳。

 これを失いたくないと、それは自分の気持ちでしかない。

 生涯悔いることになろうとも、朔夜はもう決心してしまっているのだ。


 そっと体を離した朔夜が舞い散る花びらを振り仰ぎながら、ぽつりと呟いた。


「花びらは花のむくろだ。美しい骸だ。花はなんと美しい葬送を行うことか」


 志岐、と間近にその目を真っ直ぐに見据える。

「お前には感謝し尽くせぬほどの恩を受けた。何度も命を助けられた。俺はお前が好きだ。いつも笑うお前の大らかさが好きだ。どうか……死なないでくれ」

 力の抜けた志岐の腕の中からするりと猫のように身を滑らせて抜け出すと、血の薄く残る唇に笑みを乗せた。


「俺は行く。ここでお別れだ」


 薄紅色した花の骸の舞い散る中を、ゆっくりと背を向けて歩き始めた。


「……お前も……お前も死ぬな! 朔夜っ! 死ぬなよ――! さくやぁ!」

 声を背に受けながら軽く左手を挙げた朔夜はもう振り返らない。


 小さくなる背中をいつまでも見送る志岐は胸の奥底から突き上げる渦巻く感情に翻弄されていた。


 ……死ぬな。頼む……。


 最後は祈りにも似た呟きを桜吹雪の中に零す。気がつけば見開いた瞳から一粒涙が零れ落ちていた。

「え?」

 自分で何が起きたのか分からなかった。

 頬を乱暴に拭い、それからそれが涙だったのだとようやく気がついた。


 ――涙など……俺に残っていたのか。


 物心ついた時から泣いた覚えはない。

 特に拾い親が死んでからは何一つ感じないように生きた。だから涙がこんなに温かく、そして冷たいものだとは知らなかった。


「だから恨んでやるって言っただろうが……。こんなもん、俺に残して行きやがって」

 こんなに痛い思いも、深い悲しみも、寂しい思いも……

 全部、朔夜が刻み込んだ「じょう」だ。

 ばかやろう、と小さく呟いて、暮れゆく空を仰ぎ見ると溢れる涙を感情のままに任せて流した。


 暮れ始めた春の京は、別れを包み込んで穏やかな風を緩やかに巻き起こしているだけだった。



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