市居丹下
翌朝、駿河の本拠へ向けて出発した高時に思わぬ報せが届いた。
将軍、充治が大和の市居丹下によって追い落とされ、将軍職を奪わんと天皇に強訴しているとの急報だった。
それを聞いた高時は全軍京への引き返しを指示し、信じられぬ程の速度で駆けだした。
馬は皆全速力、遅れながらも徒歩の者も全速力で駆ける。
京を起ってから三日。その行程を一日で駆けた。
都にたむろしていた市居の兵は急襲を受けて散り散りになる。蓮台寺に居を構えていた市居丹下は度肝を抜かれた。
「嘘だ! 龍堂の軍は今はまだ鈴鹿を越えているはずだ。どこの軍かを調べよ!」
「いえ、まことに龍堂の軍勢にございます! すでにこの寺へ向かっ来ておりますれば、早くお逃げ下され!」
「まだ……まだ将軍の宣司を賜っておらぬ!」
「しかしながら今は逃げるしか……」
その時、外から喚く声が響き、驚いた家臣が何事かと外を見て腰を抜かした。
「うぬが市居丹下公か!」
寺の庭に一人の若い男が立ってこちらを睨み付けていた。
ここは自分の手の内だとも忘れるくらいに堂々と威圧感を漂わせて睨み付けている。
「お、おぬしは何者ぞ!」
怯えを隠しながら市居が誰何の声を上げると、その声に反応したように、立っている男の脇から少年が刃を構えながらその男を庇うように前へと立ちはだかった。
「我が名は龍堂高時! この高時が将軍充治様の仇を討ちに参った!」
「なっ……!」
朗々と大音声で告げた名を聞いて、市居丹下と家臣は目を剥いた。
一体我が軍は何をしているのか。何故敵の大将がここまで入り込んでいるのか。寺を守っている者たちはどうなっているのか。なぜ誰も駆けて来ないのか!
何から考えれば良いのかさえ分からずに、市居は混乱したまま刀を掴むや乱暴に鞘を振り払った。
その様を睨みながら高時が威圧的に告げた。
「市居殿、混乱しておられるようだな。何故俺がここにいるのか分からぬと顔に書いておられる。教えてさしあげましょうか」
「なにっ?」
刃を向けられても泰然として怯えもしなければ、逆にこちらを睥睨するような視線で威圧する。その存在感に汗が浮かぶ。
「寺の内にいる兵は皆すでに捕えております。先に放った者により宣司の使いが来るのでその際は抵抗なきようにと市居殿の名で触れを出させていただきました。それゆえここまで数名と小競り合いだけで、ほぼ無抵抗で通していただいた」
「なんと! 兵をたばかったか! なんと卑怯な!」
「卑怯? あなたの口から卑怯と言われる覚えはない。この高時、将軍を援護するとの約条を交わした。それを果たしに参った俺を卑怯呼ばわりする資格、おぬしには一切ござらぬ!」
良く響く大声で一喝された市居丹下は、思わず膝の力が抜けそうになった。
目の前の男は誰だ? ただの成り上がりの若造だろう?
わしが怯える? そんなはずはない。
市居はぐっと力を込めて刀を握り直すと、そこから力が湧くようでまなじりとキリリと引き上げた。
「たわけた事を申すな! お前のような若造にやられるほどこの市居丹下、落ちぶれてはおらぬ!」
「武将としてここで腹を召されよ。もう勝ち目はござりませぬ」
「ふん、わしはこう見えても腕には自信ありじゃ。おぬしら若造を倒すことなど造作ない」
「聞いておられなんだか市居殿。抵抗をしたあなたの部下を倒して参ったのですぞ。あなたお一人で勝てるとお思いか?」
「問答は無用じゃ。和田、おぬしは援護せよ」
側にいた家臣へと命じると、自ら裸足のまま庭に飛び降りる。すでに六十をいくらか過ぎているのに血気盛んなことである。
じりじりと間合いを詰める。援護しろと言われた家臣が市居を庇うように前へと飛び出した。
その刹那、少年の刃が唸った。
身を低くしたままで薙ぎ払った少年の刃が膝の下をスッパリと斬り裂いて、和田と呼ばれた男は夥しい血を噴き上がらせながら苦悶して倒れた。
「殺しはしていないが、もう歩けはしない」
刃の血を振り払った少年が何の感情も込めぬまま告げて、倒れた家臣を見下ろした。その目はぞっとするほど煌めいている。
血に飢えた獣のように、じっと見下ろしていた。
「この者の剣は神速で、その強さたるや夜叉か鬼神とよばれておりまする。さあ市居殿、お命、頂戴してよろしいかな」
「ば、馬鹿を申すな。わしはこのような所で倒れたりはせぬ! もうすぐじゃ、もうすぐ将軍の宣旨をもらうのだ」
口角泡を飛ばし額に青筋を立てて喚く市居を高時は冷たく見る。その目は冷えていた。
「これにて、おさらば」
高時の感情を含まない平坦な声に素早く朔夜が動いて市居丹下の体に霧雨が吸い込まれた。
振りあげた刀を下ろす暇さえないまま市居は前のめりに倒れる。
声一つたてることもなかった。