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忍ぶる者



 真っ赤に焼けた夕日が落ちる。

 空は赤から群青、深紫へと移ろい、やがて深い漆黒へと塗り替えられた。


 石垣は難なく登れた。

 素早く鈎縄かぎなわを掛けるとするすると志岐が器用に高い壁を越える。続く朔夜も身軽だ。二人は思った以上に簡単に城内に侵入した。


 いわゆる回遊式庭園だ。木々が茂り真ん中に広い池がある。その先に邸が見える。

 あかりの灯る部屋と暗い部屋。多分、奥向きだ。

 二人は木々に身を潜めながら暗い部屋を覗き込む。

 誰もいない。確認して部屋へと忍び込んだ。


 暗くて周囲は見えないが仄かに甘い香の残り香が漂う。奥方か、側室か誰かおなごの部屋なのだろうか。

「今から小火ぼや騒ぎを起こす。常套手段だな。普通ならその間に侵入だ。だが今回は宝山公の居場所を知る為に隠れて様子を見る」

「なるほど。この警戒中に起きた不審火か。確かに必ず宝山に報告が回るだろう」

「そう言うことだ。どこにいるかを突き止めるなら、この方法が手っ取り早い。探索も入るし今回は脱出もしなくちゃならねえから危険性はぐっと上がるがな」

「そうだな。だが弓や襲撃のように確実に敵が侵入したと断定できるわけではない。普通の小火騒ぎかもしれないと思わせる隙間もある。なかなか良い手だな」

「だろう? んじゃ、早速仕掛けてくる。人の動きが見渡せる床下に移動するぞ」


 無人の部屋から出ると中庭側の暗い床下に身を潜める。

 志岐は部屋を出る際に火皿を入口に倒しておく。そして床下に移動してから素早く火をおこして懐の紙に燃え移し、えんに身を乗り出して先程まで二人がいた暗い部屋の障子に投げつけた。


 いくらも経たないうちに火は障子紙に燃え移り大きくなる。

 火のはぜる音が大きくなり煙が昇り始めると、隣の部屋から女が飛び出して騒ぎ出した。

 ドタバタと駆け回る足音が響く。

 逃げろ、水だ、早く消せ、怒号と女の悲鳴が飛び交う。

 頭上を駆け回る足音を聞きながら志岐が舌を出した。

「ちょっと火が大きくなりすぎたか」

 このまま広がると小火ぼやでは済まない。本格的な火事になっては自分達も危うい。

 だが幸いにも消火が早く、無事に火は部屋の入口付近を焼いただけで収まった。


 ここは誰もおりませんでした、すわ不審火か、御屋形様にご報告を、異な者が入り込んでおらぬか調べよ、農民も兵も皆部屋におるか確認させよ、と騒ぎながらバタバタと駆け回る。

 一つの足音が廊下を駆けて奥へと行く。他の多くは反対へと駆けていく。


 注意深く身を闇に隠しながら奥へと駆ける足音を床下で追う。

 足音は渡り廊下を越えて更に奥へと向かう。

 さすがに忍び衆だ。志岐は一切の音も気配もさせずに床下を移動する。付き添う朔夜も身のこなしは盗賊仕込み。素早く猫のように忍びやかに動く。


 遂に一つの部屋の前で足音が止まる。膝をついたのかシュッと衣擦れの小さな音が響いた。

「御屋形様……」

「いかがした」

 間違いない、伊藤宝山の声だ。さすがに二人とも緊張する。

 部屋に入って報告をしているのだろう。廊下の方の床下には声は届かないが、今はじっと動かない方が良いと二人は息を潜める。

 すぐに男の声がした。

「では調べが終わりましたら後ほどご報告に参ります」

 しゅるりと襖を引く音がして男の足音が遠ざかる。


 中に宝山がいる。

 城内にいる農民兵たちの確認が終わればすぐに男が戻ってくるだろう。この辺りも調べに来るだろう。


 ――今しかない


 志岐と朔夜が頷き合う。

 背中に負った霧雨を下ろしてするりと帯で作った袋から取り出す。


 久しぶりの手応えに朔夜の心が震えた。快感にも似た満足感のような、不思議な感覚だった。


 霧雨を握る手に、志岐の大きな手が被さり、隣に並ぶ志岐が息の掛かるほど耳に唇を寄せて囁いた。

「俺が宝山公を殺す。見張りを頼む」

 驚いて朔夜はいな、の意を込めて首を横に振った。だが志岐はまた小さく囁く。

「暗殺は垂水のお家芸だ。首を落とすのは任せる」

 確かに暗殺をいくつもこなしてきた志岐ならば、声も上げさせず一瞬で殺すことが出来るだろう。そして見張りを朔夜が引き受ける方が効率はいい。数人なら朔夜は一瞬で黙らせることが出来る。

 だが朔夜の心はそれを良しとしない。

 潜入の手引きをして貰う為に志岐を連れてきた。人をあやめさせるつもりはない。そんな事は自分の仕事だ。


 闇の中で志岐の瞳を覗く。

 暗がりに慣れた目にははっきりとその瞳の中の意志が見えた。


 ――俺に任せろ。一人で何でもするなよ。


 無言の意志が見える。

 握り込まれている右手を見る。大きな手だ。

 間近にある志岐の目をもう一度見て、それからゆっくりと頷くと、ふっと志岐が微笑んだ気配を感じた。

 次の瞬間には音もなく志岐は縁に上がっていた。

 朔夜も縁の下から外に出て庭木の影に潜む。不審火の調べに奔走しているのか誰も来る様子がない。堂々と志岐が襖を開けて中に入った。


「なっ!」

 一言、宝山の声がしたが、それっきり物音一つしない。開けっ放しの部屋からはものの動く気配もしない。すぐに志岐が顔を出し軽く頷いた。

 音を殺して朔夜が縁に上がると、入れ替わりに志岐が部屋から出て見張りをする。

 

 白い夜具の上で宝山は驚いた目をしたまま息切れていた。

 見事な早業だ。

 心の臓を綺麗に一突き。

 獣の眼差しを細め、一瞬だけ瞑目する。

 それから髪を掴んで宝山の頭を持ち上げると、躊躇なく霧雨を振り下ろした。



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