早暁の輝き
*
ことり、ことりと刻む心音に安堵する。
大きく暖かな中に包まれて穏やかな気持ちが満ちてくる。
これはいつかの陽射しの中、暖かく柔らかな時の中にある。懐かしい記憶。
手には小さな花が握られていた。
その花を大事そうに手渡してくれた小さな手が、自分の小さな手に重なる。
「これが母子草なの?」
自分が告げた。ひどく幼い声だ。
「うん。これを集めて母様に贈ろうね」
重ねられた小さな手の持ち主も、幼い声で優しく告げた。
さらりと鳴るのは衣擦れの音。上質の絹が陽射しに照らされて光沢を放つ。しゅるりしゅるりと自分が動く度に衣擦れが響く。
くすくすと笑い合う子供の声。手を握り合いながら走っている。後ろから女の人が何かを叫んでいる。多分、危ないだとかそんな言葉だろう。
とても、とても満ち足りている。他に何一つ欲しいものなどない。
手と手を握り合えば、そこに全ての幸福がある。いつでも側にいて、いつでも笑い合い、いつでも一緒に眠って――
(これは……誰だ?)
*
急速に柔らかく暖かな陽射しが消えていく。
ふいに目が覚めた。
「ここは……」
朔夜は自分がどこにいるのか分からなかった。薄暗い中で小さな灯りが揺れている。
「部屋、か?」
起き上ろうとして、ぎょっとした。志岐が自分を抱きしめて隣で寝ていたからだ。
「なっ……」
なにがどうなって、こんな状況なのか朔夜には皆目見当がつかなかったが、朔夜の身動ぎする気配に志岐がもぞりと動いて、ゆっくりと目を開いた。
志岐の眠そうな目が優しく笑む。
「目え覚めたか? 熱は、どうだ?」
「熱?」
「ああ……」
答えながら志岐が朔夜を包み込んでいた腕をほどいて起き上り、枕元の竹筒を手渡す。
志岐の温もりを失ったひやりとした空気にほんの僅か胸に風を感じた。
首を振りつつ朔夜も起き上ろうとして、左肩に激しい痛みを感じて思わず呻いた。
「無理すんな。起きなくてもいいから、ほら水だけは飲んでおけ。昨晩はひどい熱だったから、喉乾いてんだろ。痛み止めの薬も一緒に飲んでおけ」
そう言われれば酷く喉が渇いていた。ゆっくりと起き上り、渡された竹筒の中の水を一気に飲み干した。記憶が戻ってくる。
「そうか……昨日は高時の部屋で……」
着物を剥がれた時から朔夜はほとんど覚えていない。だが肩に残る痛みが高時の処断の結果なのだと悟った。
遠くで鳥の声がする。間もなく夜が明けるのだろう。
「傷の薬を塗り直すから、ちょっと肩をはだけるぞ」
肩の状態がどうなっているのか朔夜には分からない。ただかなり引き攣れて内側から熱を持ったように痛む。志岐が肩の晒しを剥がすのにも痛みが走る。
現れた傷に少しだけ志岐は眉根を寄せたが、無言で薬を塗り直してさらしを綺麗に巻き直した。
「しばらくは痛むだろうが、この垂水一族秘伝の火傷の薬があれば、すぐに治るぞ」
二カッと笑う志岐が濁った茶色の薬を見せた。薬草の匂いがきつい。
肩の傷は火傷なのだろうか。高時はあの時自分を斬ろうと刀を持ちだした。だが結局は火傷だったのか。なぜ火傷なのか。
「知りたいか?」
考え込んでいる朔夜の顔を覗きこんで志岐が尋ねる。考えている事がお見通しなのかと目を上げたが、すぐに軽く頷く。
「俺もお前の叫び声を聞いてから駆け付けたから、詳しい成り行きは分からないが、その傷は焼き鏝を押された火傷だ」
「焼き鏝?」
「ああ、そうだ。高時様の足元に焼き鏝が落ちていた。多分、通商用の焼印の物だろう。部屋には刀も転がっていたし、どんな経緯があってお前に焼印を押したのかは分からないが……」
そこで言い淀んだ志岐を朔夜は強い目で見つめ、先を促す。
「ただ……お前にこんな酷い仕打ちをしていながら、高時様は深く傷ついた顔をしていた。何故こんなことになっているのかさえ分からない。そんな呆然とした顔だった。俺は文句の一つも言ってやろうと思ってたのに、結局何も言えなかった。あんな途方に暮れた子供のような顔をされては、何も言えなかった……」
「志岐……」
朔夜がふいに微笑んだ。それは今まで志岐が見たことのない笑顔だった。
柔らかくて穏やかで、悲しい程に華やかな、優しい微笑みだった。
息を飲み込んだ志岐に朔夜が穏やかに告げる。
「志岐、分かった。有難う。俺は本当にお前に助けられてばかりだな」
よろりと立ち上がると、手早く着物を整えて、痛む左肩に少し不自由しながら髪をいつものように簡単に結い上げる。少し迷って脇差だけを腰に収めると痛む肩をそっと押さえた。
朝の鳥が忙しく鳴き始め、早暁の光が部屋にも流れ込んでくる。その光を浴びるようにガラリと襖を開けると、夜具を片付けている志岐を振り返って
「後のこと、頼む」と告げて部屋を出て行こうとする。慌てて引き留める志岐の声が焦っていた。
「おい、どこに行くんだよ、朔夜!」
背を向けていた朔夜は、振り返って何の迷いも無いように言った。
「高時のところだ。今日、美濃へ行く供をする」
「おまっ、そんな火傷負ってんのに行くつもりかよ!」
仰天して止めようとする志岐に、軽く手を上げて制止する。
「分かってる。だが今、俺が倒れていては高時はもっと辛い思いをするだろう。俺が動かなければあいつは深く傷つく。そうだろう、志岐」
「朔夜……」
朔夜の気持ちが分からなくはなかったが、こんな状態で馬に乗り美濃まで行くのは到底無理だろう。
だが志岐は深くため息をつくと、懐から包みを取り出して何かを選んで朔夜の手に乗せた。
「この丸薬はさっき飲んだやつだ。熱や痛みが酷い時に飲め。これは肩につける火傷の薬だ。それから、霧雨の鞘はお前が戻るまでに頼んでおいてやる。あれの封印が解けないようにお前の巻いた帯から絶対に出さないようにしておくから、心配せずに行ってこい」
重ねられた志岐の大きな手を見つめた。
手を握り合う暖かさ。夢の中で見た小さな手。かけがえのない大切な手。
いつかの記憶なのか、それとも単なる夢なのか。
判然とはしないが、心の奥底に暖かい灯りをともしてくれた。目が覚めても、大事な思いを残している。
志岐の手も、かけがえない大切なものだ。
人が人と繋がりを持ち、信頼しあえることを絆と呼ぶのなら、俺はその絆の為に全てをなげうっても惜しくはない。その絆の為に、俺は高時の元へ行かなければならない。壊れない絆を紡ぐために。
朝日の中を歩く朔夜には一遍の陰りも迷いも無かった。まるで身の内から放たれる光のようにさえ見える。
滲み出る隠しようのない輝きに、志岐は眩しそうに目を細めて見送った。




