落とせない汚れ
志岐の笑顔を見た朔夜は、ぼんやりといつかの出来事を思い出した。
以前、友三郎が朔夜を守ろうとして丹羽小次郎を刺してしまい動揺して怯えていた時のことだ。
怯える友三郎に自分が言った言葉。
――お前は殺していない。俺が斬った、気に病むな
そう告げた。
確かにあの時、丹羽はまだ生きていた。だがそう告げた自分と同じ気持ちを、今志岐が抱いてくれているのが分かる。
ーー怯えるな。怖くない。お前は大丈夫だ。手を汚すのは俺だ。
志岐の目が笑んでいる。腕を上げようとして霧雨をまだ握りしめたままであったことにようやく気が付いた。
「霧雨……」
完次の手が伸ばされた途端、霧雨の意思が己の意識を凌駕した。
気が付けば完次が血を迸らせながら朔夜へと倒れこんできた。その体を抱きとめた途端に、もう自我は完全に失われた。
うつろな目で認めたのは、そこにいた全ての男が血の海に倒れ伏し、霧雨は足元の源太を突き刺している情景だった。
何が起きていたのか。
今は分かる。
霧雨の衝動のままに殺戮を行ってしまったのだ。
確かに、完次は殺さなければならないと思った。
このままではいつまでも自分は過去に捕らわれたままで、もし逃げても高時達に害が及ぶだろう。だからここで完次を殺そうと思った。
だがこんな酷い惨状は望まなかった。完次だけを、あいつだけを始末しようとしていたのに。
「朔夜……」
呼びかけられて朔夜の目が志岐を捕える。闇の中で轟々(ごうごう)と燃え盛る紅蓮の炎を横顔に浴びるその姿に目を細めた。
志岐の放った炎。その中で燃えるのは己の罪。
「そのままの姿では帰れないな。川へ下りるから、少し歩くぞ」
先日、逃げ出した朔夜が志岐と会った川の上流だろう。それほど深くはないが流れの速い川の側で志岐は薪を集めて火を熾し、朔夜の着ている物を剥ぎ取ると、冷たい川でザブザブと大雑把に洗い始める。
濡らした手拭いで拭っても、全身に付いた乾いた血はなかなか落とせない。夜の黒い流れの川へ近付くと、朔夜は躊躇せずに中へ入った。
身を切るような冷たさ。流れに押し流されそうになる。
それでも頭まで水をかぶる。
冷たい水がこびりついた血を洗い流すだろう。乾いて固くなった髪の血も流してまた柔らかい髪に戻すだろう。
だがこの身に染みついた穢れは流せない。
どんなに荒い急流だとしても、罪と穢れ、苦痛と醜さ、それらは魂に刻まれて決して流すことはできない。
いつまでも冷たい川に浸る朔夜を志岐が無理に上がらせる。
「冷え切ってんじゃねえか。もう綺麗になってるから早く火の傍で温めろ」
自分の着物を脱いで朔夜の肩に掛けてくれる。
焚き火で顔が火照るが、背中は冷たい。だから志岐の大きな着物がやたら暖かく感じた。
「また、助けられてしまったな」
呟く声を、笑いながら軽く流す。
「しまったとか言うなよ。俺は今お前の下に付いて働いてんだ。上を守るのも俺の仕事だ。そう重く考えんなよ」
洗い終えた着物を岩に掛けて干しながら志岐が笑う。濡れた手を伸ばして朔夜の冷え切った髪を乱暴にかき混ぜた。
「冷てえ髪して。風邪引くなよ」
言った途端にくしゃみをしたのは志岐の方だった。
「やべ、俺の方が風邪引いたら話しにもなんねえな」
朔夜の瞳が柔らかくなる。
怖くない。志岐の手なら伸ばされても怖くない。
志岐は何も言わずとも朔夜の心情を読み取ったのか、無理に城へ帰ろうとは言わなかった。
こんなに冷え切った中で濡れ鼠だ。本当ならば城へ帰り、湯に浸かり早く寝た方がいいだろう。
だが志岐は無人の今にも崩れそうな家を見つけて、そこで一晩明かせるように細々と働いている。
何もなくても朔夜は大丈夫だった。
幼いころから盗賊の一味として大した衣食も与えられず、寒くても菰を巻いて野外で寝る事も度々であった。
空腹と寒さと痛み。そんなものには慣れていた。
だからどんなに荒れた家でも屋根があるだけで十分であった。それ故かいがいしく動き回る志岐の姿に思わず苦笑した。
「もういい、俺は何もなくても平気だ」
「いいんだよ。俺がやってやりたいだけだからさ」
菰や藁を積んで寝床を用意しながら振り返りもしない。
小さな囲炉裏にくべられた火のおかげで寒くない。
こうしていると昔のように何も持たない生き方も悪くないとさえ思える。 だが人は一人では生きられないのだ。
人の物を奪い、人を傷つけて獣のように生きていても、きっといつも思い返してしまうだろう。
志岐のおおらかさや友三郎の笑顔、そして高時の光を。
もう何も持たない頃には戻れないことを朔夜は知っていた。
一人では、きっと心に穴が開いてしまうだろう。
その夜、朔夜は初めて人と並んで眠った。
狭い藁の布団の上で志岐と並んで眠った。




