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逃走


 夜気が今夜は生温い。

 せめて凛と冷えていれば少しは身も清められる気がしたのに、気味悪いほど淀んで蒸した気で覆われていた。


 目が霞んでくるが、こんなところで悠長に倒れている場合ではない。いつ朔夜が逃げ出した事に気がついて追ってくるか分からない。

 足にも腰にも鉛が入っているかのように自由が利かない。白い着物一枚でフラフラと歩く自分はさぞかし幽鬼のようだろう。誰にも出会わずに城まで帰り着きたいが、ここがどこなのか分からない。とにかく今は遠くへ遠くへと逃げるだけだ。


 朔夜は薄く口元に笑みを浮かべた。

「あの日と……同じだ」

 盗賊の抗争に乗じて逃げ出した昔を思い出した。


 朔夜にとっては何が起きたのかは分からなかったが、頭が殺されただのマムシの反乱だなどと喚く男たちの隙を見て逃げ出した。

 遠くへ、とにかく遠くへと。


 幼く小さな自分は追われているのか誰も追って来ないのか、それを確認するために振り返る余裕もなくただひたすらに走った。喉から血を吐きそうになっても走った。

 藪を抜け、谷を下り、河原で大きな岩の陰に隠れてしばらく様子を窺いながら獣のように水を貪り、それからまた走った。

 遠くへ、遠くへと。

 助けてくれる者などいなかった。

 走って走って、行きついた先でまた人から物を盗んで生きた。それが卑しい事だとか悪い事だとかは知らなかった。それしか生きる術を持たなかった。


「また落ちるのか……」

 逃げているとまるであの日に逆戻りしたようだ。


 今までの数年は、本当は夢だったのかもしれない。本当の自分は実はあのまま盗賊として人を殺め、奪い生きているのかもしれない。これは夢なのかもしれない。

 膝から力が抜けそうになり、霧雨を杖代わりにして歩く。

 このままでは追いつかれる。気持ちが焦り足がもつれて斜面を転げ落ちた。


 あちらこちらを擦りむいて血が滲むが、流れる程の血は出ていない。逃げるのに血の跡を付けるのは致命傷だ。ほっと息を吐いた。

 川沿いに下ればどこか村にでも出られるだろう。

 耳を澄ませて川を探しながら雑木林の間をゆらゆらと歩く。水さえ飲んでいない体はもう限界に近いが、気力だけで前へ前へと足を進める。

 敏感な朔夜の耳が僅かな川音を捕らえた。

 薄い雲に覆われた月の明かりだけを頼りに川を目指して歩いた。せせらぎが確実に近づいている。水さえ飲めばまだ歩けるはずだ。

 木の根にけつまずいて倒れた。


(こんなに、体は重いものだったのか……)


 夜が明ける前にどこかの村にでも辿り着きたい。

 夜陰に紛れて逃げる方が断然有利だ。だが力尽きてしまいそうだ。


 このまま倒れ伏して目を閉じていられれば楽なのに。


 起き上がる気力が湧いて来ない。

 失った血はそんなに多量ではないはずだが、かなり頭痛がする。ごろりと仰向けに転がると、木々の隙間から薄い膜を張ったような新円に近い月がこちらを見下ろしていた。

 この月のように、今の高時は気高く美しい魂に薄い膜を張ってしまっている。本来ならばもっと燦然と人を平伏させてしまう光を放つはずだ。


(……帰らなければ)

 これ以上、高時の心をくもらせぬように。それだけが朔夜を支えた。


 霧雨を握る手に力を込めると、それを支えに立ち上がった。白い着物ももう泥まみれで顔も髪も酷い有様だ。

 川へ、川へと一歩一歩前へ進む。

 やがて目の前に速い流れの川が現れた。


 ふらりふらりと近寄ると、そのまま顔を水中に沈めて水を貪るように飲んだ。

 川の中の石はまだ荒削りだが丸みがある。山の中腹辺りまで降りてきているのが分かった。冷たい水が切れた口端の傷に沁みたが、気にせず水を飲み続けた。

 川原の岩に身を預けた途端、意識が遠のいていく。

 今、意識を手放す訳にはいかない。こんな月夜に川原で座っていては、すぐに見つかってしまう。

 もう一度水で顔を洗って目を覚まそうと、岩から背を離した途端、背後に気配を感じて朔夜は息を止めた。

 そばに倒したままの霧雨に手を伸ばそうとした瞬間、背後の気配が素早く動いて朔夜の目の前に移動した。


 ゆっくりと視線を上げる。

 男の足が見える。

 そこから見下ろしてくる視線が痛い。


 目の前の男が低く小さな声を上げた。


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