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亜人にされた少女  作者: 尾崎世奈
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00-02 響いたのは絶望の音

 ピチャピチャと頬に当たる生暖かい感触に、ありさは意識を取り戻した。ペロペロと繰り返し己の顔に触れる何かがくすぐったくて、ありさは眉間に皺を寄せて、よく分からない感触から逃れようと首を振る。


「んっ……」


 瞼を開けると生暖かい感触は離れていき、ぼんやりとした視界が徐々にしっかりとした像を作る。そこでありさはようやく、目の前にいる存在をハッキリと視界に捉えて、思わず体を強ばらせた。


「ひぃっ!」


 恐ろしさに思わず声が溢れる。

 ありさの頬を舐めていたのは、白銀の毛並みを持つ狼だった。

 犬の祖先と呼ばれる狼は、昔日本にいたものは絶滅したと聞く、しかし目の前にいるのは野犬とは思えぬ獰猛な風格を持ち、犬に近いとは言え、とても犬には見えなかった。

 外来種が野生化したのだろうか。そんな話聞いたこともなかったが、何よりも今は自分の身だ。野生の動物相手に、ありさが戦って勝てる可能性は皆無だ。

 いつの間にか自分が木の上から降りていることにも気付かず、ありさは混乱した頭で周りをぐるりと見渡す。

 己を扇状に囲む狼の数は、全部で七匹。ありさの後ろには彼女の背を隠すほどの太い幹の大木がある。何とも逃げにくい状況だった。


「あっ……」


 おまけに言えば、驚きのあまりありさは腰が抜けて動けない。

 一匹の狼がありさの元にゆっくりと歩み寄り、ありさはこれ以上行き場がないのを知りながらも、体を後ろへ下げて、木の幹に背中を張り付けた。

 ゆったりとした足並みでありさの前に歩み寄った一匹の狼は、彼女の顔に鼻を近づけて二、三度クンクンと嗅ぐと、そのままありさの腰辺りに顔を近付けて、鼻をグリグリ押し付ける。

 恐怖に震えながらもありさが僅かに身を捩れば、まだ縄に縛られたままの腕が狼の目に映り、その狼はありさの腕に向かって牙を立てた。


「ひいい!」


 恐怖にありさが声を上げるが、何故か狼が噛み付いている腕からはちっとも痛みを感じず、フーフーと狼の息を吐く音が聞こえたかと思うと、程なくして腕の拘束が解かれた。


「あっ、嘘……縄が……」


 まるで縄を狙って噛みちぎったかのように、狼はありさの縄が解けると、直ぐに身を引きありさからフイッと顔を背けた。そのまま去っていく狼の背を、ありさは唖然と見つめる。

 一匹の狼が離れていくにしたがって、彼女を見つめていた残りの狼たちも途端にありさへ背を向けて、ゆっくりと歩みを進めて彼女から離れていった。


「えっ?」


 森の奥へと戻っていく狼たちを見て、ありさはあれと首を傾げる。

 てっきり食べられるかと思ったが、何故か助けてもらった。気紛れなのか、ありさがあまり美味しそうに感じなかったのか、理由は何であれ助かったことには変わりない。


「……良かった。助かった」


 力の抜けてしまった下半身は、動くのにはまだ時間がかかりそうだったので、ありさは一先ずぼんやりと周囲を見渡した。


「どこ、ここ?」


 ありさの周りには何もない。いや、草木以外は、何もないと言うのが正しいだろう。

 緑と茶色の二色の世界は、上から差し込む日のおかげで明るさはあったが、どこまでも淡々とした同じ景色が続いているように見えた。

 誘拐犯がありさを売り飛ばす気でいたならば、樹海ではないだろうが、サバイバル経験なんてまるでないありさが、この森から無事に出られるかどうかは全く分からなかった。


「っ、行かなきゃ……」


 ありさは気だるい体に鞭打って、立ち上がった。

 とにかく、進まなければ何の解決にもならない。助けがくるかどうかも分からないなら、自分自身で動くしかないのだ。

 深く息を吐き出して落ち着きを取り戻し、ありさはゆっくりと一歩歩みを進めた。



*****



 どれほど歩いただろうか。

 歩いた時間も距離も分からないまま進み、気付けば辺りは光が薄らぎ、夜へと変わろうとしていた。

 足はダルい。お腹も空いた。喉も渇いていたが、周りは先程からずっと緑しか目に入らない。

 それでもありさは歩き続けた。

 一度立ち止まれば、そこから立ち上がれなくなりそうで、せめて何か場所を特定出来るものが見つかるまでは、とひたすら歩いた。

 何もない森の中は、風の音や動物たちの音がよく聞こえる。

 狼に逢って以来、他の野生動物には遭遇いないのが、せめてもの救いだ。熊にでも逢ってしまった日には、今のありさには逃げる気力が一切ないし、運は先程狼達が見逃してくれた分で使い果たしてしまった気がする。

 だからこそ、助かるには自分でどうにかしなければいけなかった。


「あっ、お、と。みず?」


 静寂な森の中、ありさはようやく今まで聞こえなかった微かな音を耳にして、辺りを見渡す。

 実に数時間ぶりに声を出したが、自分でも驚くほどに声が掠れていた。

 風の音が止み、辺りが静かになったと同時に立ち止まり、耳を澄ます。

 遠くの方から川のような水の流れる音が聞こえ、ありさは音を頼りに再び歩き始めた。

 日が暮れて、視界が一気に悪くなったが構わなかった。川があれば、その流れに沿って歩けば、人のいるところに出られる。川や水があるところに人がいるのは、昔何かの授業で習ったのだ。

 走る体力はなかったが、ありさは川を目指してなるべく急ぎ足で歩いた。それでもなかなか川にはたどり着かず、不安を覚えたが、ありさは真っ直ぐ歩き続けた。他に頼るものなんてないのだから。


「あっ、た。良かった……」


 ようやく音の根元までたどり着くと、ありさは緑以外のものを久々に目にしてホッとした。

 川はそれなりに大きく、反対側に横断するのは難しそうだったが、ありさの目的は川に沿って歩くことなので、特に問題ない。

 流れる水の下流へ向かって、ありさは心弾ませながら歩みを進めた。

 もしかしたら、徹夜で歩けば夜明けには人のいるところにたどり着けるかもしれない。

 そんな希望を川はありさに抱かせた。



 しばらく歩いていると、完全に日が暮れて夜になり、緑色の森は黒一色に染まった。


「っ、痛い」


 数年ぶりに長時間歩いた足は、ふくらはぎがパンパンで、靴を履いているのすら辛い。

 薄暗い森の中、ありさは周囲の見えにくい視野で、どうにか川の脇を歩いてはいたが、まだ明けることのない夜は、彼女の不安を煽り、希望を削っていく。そんな時だ。

 ありさが歩いていた川の脇が僅かに広まっており、ありさはそれに気付かずに、足を踏み出してしまった。


「きゃあっ!」



――――ドボンッ。


 ズルリと足を踏み出してしまったありさは、そのまま川の中へと落ちていく。


「ぐあっ!」


 川は流れこそそれほどでもないが、疲労しきったありさは上手く泳ぐことが出来ず、流されるままになってしまう。

 何度か水の中に沈み込み、その度に溺れたくないと、ありさは水の中から浮上する。

 それでも、流れに、流され、ありさはしばらくしてからようやく手の届く範囲にあった岩にしがみつき、体をそこに止まらせることが出来た。


「はぁっ、はあっ、はっ、かはっ、はあっ……」


 残された力を振り絞って、ありさは川から這い上がると、そこで力を使い果たして地面に仰向けに転がった。


「はあはあっ……」


 乱れる呼吸を、森から少しだけ見える星空を見つめながら整える。


「うっ、つ……くっ、ふぅ、っ……」


 ジワリと瞳に涙が浮かび、ありさは思わず泣いた。

 溺れたぐらいで泣くなんて、情けない話かもしれないが、それでも弾けた感情は止まることなく溢れ出し、ありさは静かに声をあげて泣いた。

 自分が何故こんな目に遭わなければいけないのか、誰にもぶつけることが出来ない心の苛立ちを、ありさは泣くことで解消するしかなく、泣いて、泣いて、涙が止まる頃には、ありさは気を失うように意識を飛ばして眠りについた。



 夜が明け、自然と目を覚ましたありさは、体全体がずっしりと重たくなっているのを感じた。喉は渇き痛みを訴え、昨日と同じくズキズキと頭が痛む。


「ゴホッ、ゴホッ、っ……はあ、はあっ……」


 風邪を引いたのだと直ぐに分かった。

 それもそうだ。びしょ濡れのまま、何もせずに眠ってしまったのだから、風邪を引くのも、熱を出すのもごく自然なことだ。


「み、ずっ……」


 だるくて動かしたくない体を無理矢理動かして、ありさは川にソッと近付く。喉が乾いて仕方がなかった。

 消毒されていない生水を飲むのは抵抗を感じたが、今は贅沢を言える状況じゃない。

 またうっかり川に落ちないように、やや朦朧とした意識の中でも警戒しながら、ありさは水面に顔を近付けた。

 ピチャッ、ピチャッと、流れる水に舌を伸ばして、僅かに舌の上に乗った水を掬い上げ、口に含む。

 美味しいとは、とても言えなかった。

 それでも、ヒリヒリとした熱を持つ喉奥に、冷たい水が触れるのは心地よくて、ありさは夢中で水を飲んだ。

 不意に、頭から流れ落ちてきた髪の毛の一房が、ありさの頬に当たり水面に触れる。

 まだ水を飲もうと思ったありさは、その髪の毛が邪魔くさくて、髪を手で梳き、己の耳にかけようとした。


「あれ?」


 しかし、髪は耳にかかる事なくありさの指から抜け出していき、再び水面にぶつかる。


「へっ、えっえっ……」


 ありさは混乱し、慌てて両手で己の顔の横に触れた。


「……う、そ」


 頬の直ぐ横。首の直ぐ上。髪の生え際近くにあった筈のものが、ない。


「何で、何で? 嘘っ、だよね?」


 何度も何度も、ありさは自分の顔に手を当てるが、その感触には触れることが出来なかった。感じるのは頬と首と頭皮の延長にある平らな皮膚だけ。


「耳が……」



――――耳が、ない。


 最後まで言葉を紡ぐ事が出来ず、混乱しながらもありさは風穴すら残っていない己の耳があった場所に触れ、酷く狼狽した。何故今、自分が音を聞くことが出来るのか不思議で堪らなかった。

 耳はない。けれど、ありさは川の流れる音も、風がそよぐ音も、己の声もキチンと聞こえるのだ。

 熱で寝ぼけているのかと、思いながら視線をふと目の前の川に向けた時だ。ありさは今度は己の目を疑った。


「……な、なっ」


 流れる川の波打つ水面ではやや見にくいが、ありさは己の頭の上にちょこんと存在するそれを見て、言葉を失う。

 日本人特有の真っ黒い髪の毛。普段はボブカットでキューティクルがある艶やかな髪なのだが、今はそれも見るも無惨に乱れている。

 しかし、問題は髪の乱れなんかじゃない。その髪の間から覗く、どう見ても人間の耳とは思えない黒い毛並みの耳の方が、大問題だった。

 巷によくあるファンシーグッズのネコミミカチューシャなんて甘いものじゃない。頭に直生え、おまけにピクピクとありさの意志で動き、何よりも音がその耳から聞こえてくるのだ。

 それも鮮明に。


「なっ、うっ、えっ、やっ!」


 思わず手を伸ばし、耳を掴んで取ろうとすれば、頭のてっぺん。つまり、頭皮の部分が一緒に引っ張られ、痛みを感じてありさは直ぐに耳を引っ張るのを止めた。


「いたいっ! なんで、こんなっ……」


 頭を抱えた状態で、こんなことになってしまった経緯を推理すれば、元凶はありさを誘拐した犯人ぐらいしか浮かばない。

 しかし、どこの国の人間か知らないが、人の耳をちょんぎり、犬の耳を縫いつけるなんて正気の沙汰じゃない。

 おまけに、何故か知らないが神経まで繋がっている。そのお陰でありさはこうして聴覚を失わずに済んでいるのだが、そんな医療方法聞いたことも見たこともない。

 間違いなく違法行為だが、今のありさには彼らを訴えたくても、逃げるのに必死で証拠もなく、顔も分からないのだからどうにもならない。

 無事に生きて帰れても、この先の人生に多大な影響を与えるであろう犬耳を見て、ありさはただただ絶望するばかりだ。


「一生笑い者、その前に病院送りか……」


 手術でどうにかならないものか。なくなった耳は戻らないが、不要なものを取り除くぐらいは出来るだろう。専門家に意見を聞いてみなければ分からないが。

 誘拐事件の他に、増える問題。

 ガンガンと頭痛が更に酷くなり、ありさは片手で額を抑えながら、地面に反対側の手を付き、ふらつきそうになる体を支えた。


「えっ?」


 手に、何かが触れた。

 柔らかい触り心地の良いものだった。揉み込むと、幾分か癒しの効果を感じたが、その反面体にゾクゾクとした感覚が足先から頭の頂きまで迸った。

 嫌な予感を感じつつも、ありさは恐る恐る手の中のものを見つめる。

 黒くて細長い、毛むくじゃらのそれを見て、ありさは嫌な予感が止まらなかった。

 長くしなやかな物体は自身の背後まで伸びていて、その黒く細いものに触れながらありさが体を捩ると、それはお尻の直ぐ上。腰よりもやや下の位置に繋がっていた。

 繋がっているのは言うまでもなく、ありさの皮膚だ。


「ははっ、何これ。すごーい。耳だけじゃなくて尻尾まで? うわーうわー」


 乾いた笑いを零しながら、ぐいぐいと尻尾を引っ張れば、やはり腰辺りに痛みを感じた。

 全く取れる気配のない尻尾は、ありさが掴む手を緩めると、間違いなく彼女の意志で上下に揺れる。

 バシバシと地面を叩く尻尾の感触。水面に映るピクピクと動く耳。

 心の中でせき止めていた何かが崩れ落ち、ありさは堪えきれずに叫んだ。


「いやぁぁあああああ!」


 バサバサと、数羽の鳥がありさの悲鳴に驚き飛び立った。



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