プロローグ
昔、ある国境の奥深い森の中に一人の魔法使いがいました。 魔法使いは数多の人々の一生分の時間を幾度となく生きた、齢を重ねた力の強い魔法使いでしたが、その手元には子供がおりませんでした。
彼は思う所があり、森を挟んだ片方の国に出かけていきました。彼が足を運んだのは国の外周、最貧困層の民が住まう地区でした。
自らの服をぼろに変え周囲に溶け込んだ彼は、腕に清潔な綿の布きれを持って、窓も付いていない粗末な掘立小屋に入っていきましたが、誰も魔法使いを気に留める者はいませんでした。
そこには一人の老婆と男が床に座り込み、その前には一人の腹の膨れた女が、床に敷かれた粗末な茣蓙の上で呻いていました。
「あんたは何だ?」
男は驚いて魔法使いを振り向きました。
「人買いだ」
魔法使いは返事をしました。
「何だって?……」
男は魔法使いの頭からつま先までさっと見た後、厄介そうな顔をしました。
「どこかに行っちまえ、こっちはそれどころじゃないんだ」
「大丈夫だ。今お前に出来る事は何もない」
魔法使いはそう言って懐から布袋を取り出すと、産婆に差し出しました。
「そのままでは命が危ない。飲ませてやってくれ」
産婆が魔法使いを怪訝そうに睨みます。
「何言ってるんだい、あんた」
「おい、ふざけるんじゃないぞ…物狂いの相手なんてしてらんねえんだよ。出ていけ、今すぐにだ」
立ち上がり魔法使いの肩を掴んだ男は、途端に眩暈を感じ、立っていられなくなりました。
「…!?こりゃ…どうなって…やがる」
魔法使いは倒れこんだ男を受け止め寝かせてやると、産婆から袋を取り上げました。
「…何なんだい?ここで何をするつもりだい」
魔法使いは袋の中に入っていた丸薬を一粒口に含み噛み砕いてから、再び産婆に渡しました。
「味は不快だが、害は無い。一粒だけ妊婦に噛ませてやってくれ、幾段か楽になるだろう」
「おい…やめろ」
力の入らない手で産婆を止めようとする男の腕を、産婆は押し下げた。
「どの道絶望的なんだ…あたしもこの薬を飲むよ、それであいこだ」
言って産婆は、小袋から取り出した二粒の丸薬を自分と、妊婦の口に入れました。
「ほら、頑張って!噛むんだよ」
青息吐息で意識も朦朧とした妊婦に何とか丸薬を噛んで嚥下させると共に、産婆も丸薬を間で飲み込みます。
妊婦の微弱だった呼吸がだんだんと深くなり、頬には赤みが戻り、体は再び汗を吹き出すと共に、 産婆も体にみなぎってくる力を感じ、今度こそ驚いて、展開を見守っている魔法使いを見上げて、言いました。
「こんなのは今まで知らなかったよ、変な薬じゃないだろうね」
「その活力は本物だ。あなたの感覚を騙してはいないしどこも損なってはいない」
二人のやり取りを見ていた男が何か言おうとしたとき、妊婦の唸りが三人の耳に飛び込んできました。
身体に力が戻り、再び赤ん坊が押し出され始めた苦しみによるものでした。
やがて取り上げられた血塗れの赤ん坊は、体に力の戻った男が用意した産湯で洗われましたが、そこにさっと魔法使いが自身の持ってきた布を差し出したので、それが赤ん坊の産着になりました。
「…人買いに来たといったな」
男はばつが悪そうに魔法使いに言いました。
「そうだ。…どの選択が理にかなっているか、分かるだろう」
魔法使いはそう言って、産婆の腕の中の赤ん坊を細く長い指で示しました。
「あなた……!」
床から声を絞り出す妻を、男は制止しました。
「待っていてくれ。…だけど、どうしてこの子なんだ?」
警戒した様子で尋ねる男に頷き、魔法使いは言います。
「何も食べはしない。かつて私を最も知っていたのは私の師だった。私もまた彼を深く知り、彼は去った。今また私は、後継者を求めている。あなた達はどうする?」
「お前はその代りに何をくれる?」
「それを管理する器の無い者にとって過ぎたる富は毒だ。私はその子の代わりに、あなた達が富裕な一般市民として暮らしていける富と、それを維持していけるだけの生活の下地を用意しようと思う。どうかな」
男は産婆を見た。
「こんなのまるで夢みたいだけど、あんたたちの状況じゃ、本当の話なら一番現実的ではあるだろうね。…育てもしないあたしに聞かないどくれ」
夫婦は産婆に対するろくな報酬さえ用意できませんでしたが、人の命のこと、誰かがやらなくてはならないという義務感から産婆は引き受けたのでした。
「おまえ、良く考えてくれ、この意味を」
妻が何か言いかける前に、男は臥せっている妻の片手を握りこめました。
「あんなに苦しんだ後だ、きっとまだ頭がよく回らないだろう。だが、少なくとも彼に預ければあの子の命は保たれる」
「預ける」
魔法使いは言いました。
「それは誤りだな。私はただ育てるだけで自分のものにはしないが、あなた達には子供を失ったと考えてもらわねば困る」
男は口を噤み、妻は息をのんで、魔法使いを見上げました。
「―…彼女にとって」
魔法使いは乳母の腕の中の赤ん坊を指さしました。
「私が与えられるものは、いわばその損失の、喪失の対価なのだ。だが依然として彼女の魂はその肉体の内にあり、命も損なわれはしない。…心とて命を繋げねば育つことすらない、そうだろう?」
用事が済んだので魔法使いは自分の森に帰りましたが、その腕の中には小さな包みがありました。
やがて時は流れ、赤ん坊は無事に成長し、今では魔法使いの弟子として、大人の女性になっていました。彼女が師匠の許で修業していた間、師匠は彼女を知り、そして彼女も、感情が沈み込んだような師についてのことを知りました。
「師匠!」
予期されていた別れでした。ふたりは、師匠を連れ去っていく悪魔を退けるこの日の為に、出来る限り備えていました。ですが、師匠はどこか諦めたように、弟子に言ったのでした。
「お前は、私と一緒に悪魔に立ち向かっていると思うか?私は奴の、ただの手先だよ」
と。それを聞いて彼女は「師匠らしくもない、なんて意気地のない言葉だろう」と憤る反面、拭えない不安を感じずにはおれませんでした。
…師匠だけが、彼らの許に代々訪れる悪魔に勝った魔法使いの弟子は居なかったことを知っていたのでした。そして彼女がその事実を悪魔の口から聞いたのは、彼女と悪魔のささやかな賭け勝負に決着がついた時でした。彼女は、悪魔の腕の中瞳を閉じている師匠に手を伸ばします。
「やめて、お願いだから…連れて行かないで」
「これで気が済んだろう。さて…私は約束のものを貰っていくよ。定めてお前の苦しみも良くなるだろう、空ろになってな」
悪魔は魔法使いと、その弟子の魔法使いの心の多くを奪っていきました。そして彼女は、今まで以上に師匠を、身を以て深く知りました…かつて己の師を救えなかった師匠の、その奪い取られ損なわれた心がどのようなものなのかを。
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