失恋食堂
うちのねーちゃんがこんな感じでした
この世に生を受けて二十と余年、かつて無いほどに泣いた。
大きな大きな涙の粒を、幾筋も走らせて。まるで身体中の水分が、全て出尽くしてしまうのではと思うほど泣いた。
それは初めての失恋。突然訪れた、予想だにもしない結末。一年半の恋愛の末路。
今思えば夜中というのに、結構大声を出して泣いていたっけ。恐らくは家族の皆が、非常に迷惑した事だろう。
泣き疲れていつの間にやら眠っていたのか、気が付けば隣の部屋からうっすら聞こえる、お昼の定番番組の歌。きっと妹のミユキが、隣の自室で駄菓子をパクパクと頬張りながら、ご贔屓のお笑い芸人を浮かれた眼差しで見ているのだ。
とりあえず身を起こしてみる。身体がとてつもなく重く、頭はくらくらとふらふらと。おまけにひどい頭痛が私を苦しめる。
ふと目の端に映った鏡の中に、見知らぬ女性を見つけ出し、はっと息を呑む。ぼさぼさの長い黒髪、そして目は真っ赤に腫れ上がり、果てしなく陰鬱な表情。彼女はまるで幽霊だ。そう、それは私。信じる者に裏切られ、一晩中泣き晴らした私の変わり果てた姿。
『この姿であいつの元に化けて出てやりたいな』
内心そう思い、小さく笑みを零す。すると鏡の中の私は、より一層おっかなさを増した。
まるで二日酔いの様なたどたどしい足取りで、隣の部屋へと化けて出る。
「みぃ〜ゆ〜きぃ〜」
「ひいぃっ!」
私の姿を見て妹が固まった。その仕草が滑稽で、それでいて可愛くて。
「あはは、ごめんミユキ。びっくりした?」
普通にしゃべったつもりが、泣き疲れの酷い嗄れ声が不気味に響き、私自身もびっくりした。幾度か咳払いをし、「あーっあーっ」と発声練習を試みるが、喉の調子は遺憾ともし難い様子。
「もぅ! お姉ちゃん大丈夫? とりあえずシャワー浴びてきなよ。あとお腹空いてない? その間になんか作るよ」
色々と気を使ってくれる妹。私より三つ年下だが、彼女の方がまるで年上のようだ。
「ごめん、心配かけたね。もう大丈夫だよ」
私は無理やりにも笑顔を作り、感謝を述べる。が、先程の鏡に映った自らの顔を思い出し、くるりと背を向けた。これ以上、妹を恐怖のどん底に落としちゃ可愛そうだから。
「シャワー浴びてくるね」
そういい残すと妹の部屋を出て、溜息を一つ。
大丈夫なんかじゃない。今も気を抜けば、心の雨雲が大量の雨を降らせそうなのだ。
ちょっと年季の入った我が家のバスルームに、勢いよく水の爆ぜる音が響く。
湯気が室内を程よく曇らせ、私の身体を包み隠す。あいつに幾度となく愛された身体を。
肌はまだ水だって弾くし、張りだってある。なのに……十八の小娘に乗り換えられるなんて口惜しいったらありゃしないなどと無理にでも怒りのバロメータを適度に上げておかないと、今にも泣き崩れてしまいそうで怖い自分がいる。
ともあれ、丁度いいお湯加減の飛沫が心地よい。
体中のこわばった筋肉が解けて行くのが判るようだ。何となく気分が和らいでいく。
程なくしてシャワーを止め、ふぅっと一息。水の滴る音と、下水管が勢い良く水を飲み干すゴボゴボという声。それに混じって、何やら炒め物をする音が、台所の方から微かに聞こえてくる。きっと何か作ってくれているのだろう、実に出来た妹だこと。
熱いシャワーで幾分身体も軽くなり、頭も冴えて来た。全くおかしなもので、そうなるとお腹の虫も騒ぎ立ててくる。
失恋などと言う大きな失意を味わった私にとって、食欲なんてものは出る幕すらないと思っていたのに。
『ぐぅ……』
それは一晩泣きはらして、絶望やら悲しみやらをそこいらじゅうに投げ捨てて、何もかもが空っぽになってすっきりした心が、私にこう尋ねているように聞こえた。
『今、貴女にとって空腹と彼との別れ、どっちが大事?』
勿論私は元気よく答えた。
『どっちも大事!』
こうなったらとことん落ち込んでやる。落ち込んで落ち込んで、底まで行って、後は這い上がるだけだもの。
そして泣き喚くにも体力が必要、まず腹ごしらえだ。
台所から漂うお醤油の焦げる匂いが私の鼻を擽り、もう一度お腹の虫を刺激する。
入り口の玉暖簾をくぐる音に、ミユキが気付く。そして精一杯の笑顔で振り向き、自慢げにテーブルを指差し私に言った。
「ようこそ! ミユキの失恋レストランへ! 本日のメニューはミユキシェフ特製気まぐれチャーハンでーす」
「またミユキの『まぐれ』チャーハン? あんた料理のレパートリー増やしたほうがいいよ」
「そゆこといわないの!」
ぷりぷりと怒る仕草で私を睨みつけるミユキがちょっと可愛い
「はいはい、にしてもこりゃ失恋レストランと言うより、失恋食堂だね」
生活臭漂う台所兼食事場を見渡し、溜息混じりに言う。
私は素直に微笑が零れた。妹も「それ言えてる」と笑った。
改めてミユキご自慢の一品と向き合う。くんくんと匂いを嗅ぐと、胡麻油と焦がし醤油の香ばしい香り。立ち上る湯気の合間から見え隠れする、艶やかに油を纏ったご飯。その合間を埋める、色とりどりの具材と黄金色の卵たち。
なかなかどうして、彼女のレパートリーは少ないが、これはこれで結構なものだ。
「どう? 美味しい?」
「うん、美味しいよ……美味しいよ……」
妹の優しさがたくさん詰まったチャーハン。身体の内側から温かくなって、何かが満たされていく。
私は一筋涙を零しながら、無心になって食べた。
「お姉ちゃん、また泣いちゃって……」
だがこの涙はさっきまでの涙と全く違う、嬉しい涙。気持ちのいい涙。私はいい妹を持ったと、心からの感謝の気持ちを素直に口にした。
「ありがとうね、ミユキ」
少しはにかんで笑う妹。
「でもアレだね、冷蔵庫の中でしおしおになってたニンジンも、意外と何とかなるもんだね」
「なっ! そんなモンまでいれたのか! このバカチン!」
二人してゲラゲラと屈託無く笑う。
この時点から、また普段通りの姉妹に戻るという合図かのように。
お米の一粒まで綺麗に平らげ、ご馳走様の合唱をしてお皿を下げる。さぞお腹の虫たちも満足した事だろう。
さぁて、これから気合を入れてまた泣こう。そう思ったけれど、何故だか私の中の悲しみタンクはすっかり空になっていた。
それはこの失恋食堂の特別メニューお陰なのか、それとも……
『まだ未練がある?』
自分の心に尋ねてみる。
『ううん、今は無いよ』
私の心は迷い無く答えた。
きっとアイツへの思いも、失恋という悲しみも、所詮その程度の出来事だったのかもしれない。
けれど私は、この不思議な失恋食堂が、傷ついた心を癒してくれたのだと信じたい。