08 お説教でしょうか
最上階へと上がり、伯爵とサナイさんの先導に従ってしばらく。
予想通り、貴賓室が並ぶ一角へと伯爵は向かっていた。
質実を主とする警吏隊本部の中でも、内装や調度品が華美になりすぎない程度に整えられたその一角は、主に貴族や官僚格のお偉方用の応接室として使用されている。
平隊員の私としてはミーファの一件を除いて以来、足を踏み入れた事がない。
一つ一つの扉まで複雑な彫刻が施され、手が込んでいるなぁと物珍しげに感心しながら歩いていたその時。
「ハインド伯爵」
後ろから聞き覚えのある声に呼びかけられて、足を止めた。
あれ? この低くもよく通る声って。
先導していた伯爵とサナイさんも立ち止まる。
サナイさんは無反応だけど、伯爵は一瞬、意外そうに首を傾げて、ゆるりと相手に向かい合った。
「おや、こんな時分に殿下にお会いするとは。何かお急ぎの用でもございましたか」
あれ?
ハインド伯爵が言葉遣いを丁寧なものにあらためている?
二人の間を邪魔しないように壁際に身を寄せつつ、こちらに悠然と歩み寄ってくる人物を観察してみる。
いつもとちょっと雰囲気が違うような気もするけれど、どうみても東イーラウ地区警吏隊のウェイ隊長その人だ。
もしかしてウェイ隊長も貴族なんだろうか。しかも、それなりに地位のある。
以前の査問会でもふてぶてしいくらい堂々と立ち振る舞っていたし、そうなのかもしれない。
そういえば最近、警吏隊本部内ではあまり姿を見かけていなかった人だ。
監査官が東イーラウ地区に滞在している事もあって、ウェイ隊長がその対応に追われているとは噂で耳にしていたけど。
「いえ、偶然、伯爵のお姿を目にしましたので宵の挨拶をと思っただけですよ」
…え。
誰だ、この人…!
ウェイ隊長の着ぐるみを着込んだ別人かと目を疑う私の前で、滑るように近づいてきたウェイ隊長が伯爵に向かって一礼をしてみせる。
一連の動作が嫌味なくらい様になる。本当に見た目だけなら物語の主役だって張れそうなくらいの人だ。うん、見た目だけは。
「伯爵は今宵のシザーランド卿の夜会にはお出にならないのですか。何でも、南のペシャウルから天を泣させるほどの美しい楽を奏でる楽団を呼び寄せたとか」
「ふふ、シザーランド卿自身、稀有な奏者でいらっしゃいますから、きっと素晴らしい一夜が約束されている事でしょうね。
あいにくと私事がありまして、私は出席できませんが」
「それは残念ですね。シザーランド卿は貴公にこそ、かの楽団を引き合わせたいと考えていらっしゃるでしょうに。
貴公が認めた奏者は皆、都でも音高く評価されていますから」
「光栄ですね」
聞いているだけで背中が痒くなってくる。
上品な微笑を浮かべた貴族然としたウェイ隊長に違和感しか感じない。むしろ、これは寒気かもしれない。
「ところで、殿下、お一人でいらっしゃいますか」
僅かに眉をひそめた伯爵が咎める声を出す。
「えぇ、そうですが」
悪びれもなく、ウェイ隊長が肯定した。
伯爵はあからさまに溜息をついた。
「ご無礼を承知で申し上げますが、あまりご自身を過信なさらぬようにお願いいたします。
殿下のお立場は盤石のものとは言い切れませぬゆえ。まして、この地では万難を排す事はできかねます」
「はは、はっきりと言われてしまいましたね。ご忠告はありがたく、肝に銘じておきますよ」
伯爵はウェイ隊長の身を案じているらしい。
確かに、どちらかと言えば、味方より敵が多そうな人だものなぁ。まぁ、滅多な相手に打ち負かされるような人でもないと思うけど。
会話が一段落したウェイ隊長がそこで初めて気づいたかのように私を見た。
「そこにいるのはカズミか。何故、ここにいる」
さっきまでの物柔らかな物腰は変わらないのに、空気にひやりとする冷気が混じる。
な、なんで?
「今日までに課せられた隊務は終えたのか」
爽やかな笑顔で凄まれる。こ、これは、下手に怒られるより恐いぞ。
首を竦めて弁明するよりも先にウェイ隊長は伯爵に向き直った。
「申し訳ありません、伯爵。彼には明日までに果たすべき責がありまして。不躾ではありますが退出をお許し願えますか」
「えぇ、構いませんよ。こちらはまた日を改めましょう」
「ありがとうございます。それでは失礼いたします」
私を置き去りにして二人の間で話がまとまる。
…ええと?
戸惑っていると、また冷ややかな視線が突き刺さってきて慌てる。いえっさー! ついて来いって事ですよね! わかります!
ハインド伯爵と黙って控えるサナイさんに向かって一礼すると、背を向けて踵を返したウェイ隊長の後を追った。
一体、何が起こったんだろうと内心幾つもはてなを浮かべながら。
貴賓室の一角から抜け出て何処へ行くかと思えば、どうやらシゼル隊長の執務室方面に向かっている。
大人しく後ろを歩きながらも、ハインド伯爵の意図の読めない申し出や別人のようなウェイ隊長の一面、残してきた罰則の全館掃除も気になるしで、注意が散漫になっていた私。
伯爵たちが影も形も見えなくなったところで思い切り前の背中に顔から激突した。
…なんでこの人は前触れもなく立ち止まるんだ!
「何をやっているんだ、お前は」
鼻を押さえて涙目になった私を、さっきの好青年ぶりは錯覚かと疑うくらいいつも通りなウェイ隊長が呆れた顔で見下ろしてくる。
「突然、止まりゃないでくだひゃいよ!」
もごもごと抗議するも我が道を行くこの人が反省するわけがない。
「それくらい避けろ」
一刀両断。
この上から目線な物言い、やっぱりウェイ隊長に間違いない。
さっきはユークとサイドのように双子の兄弟がいるのかと思ったけれど、ちゃんとご本人様だ。
真正面に立ったウェイ隊長は軽く腕を組んで言った。
「お前なぁ、少しは警戒心というものを持て」
へ?
何の話…?
前置きも無く始まった説教に唖然とする。
「ハインドのみならず貴族には注意しろ。誰もがシゼルのように酔狂なわけじゃないんだ。それくらいお前の安い頭でもわかるだろうが」
…何だか色々と物申したい言葉が散りばめられているけれど、あえてそこは無視して。
「あの、断れるものなら断りたかったんですよ? ですが、どう断れば良いかわからなくてですね」
不興を買わずに拒否できるなら無論、そうしたかった。私だって面倒事の気配くらいは嗅ぎ分けられる。
「そういう時はシゼルか俺の名前を出せ。たいていの貴族はそれで引き下がる」
そうなんだ。なるほど、一つ勉強になった。
それにしても。
この口ぶりからして、ウェイ隊長は心配して声をかけてくれたんだろうか。
途中のまま放り出してきた罰則の全館掃除を完遂させるために連れ戻しに来た、とも考えられるけれど。
「丁度、ウェイ隊長が来てくれて助かりました。ありがとうございます」
お礼がまだだったと頭を下げて伝えれば、何故か、ウェイ隊長が思い切り深い溜息をついた。感謝したのにどうしてそこで溜息なんだ?
そういや、せっかくウェイ隊長が目の前にいるんだし、伯爵について聞いてみよう。
あの不気味な申し出について説明すると、「あぁ、そっちな」とすぐにウェイ隊長が納得の顔をした。
え、そっちってどっちですか。
「あの男は名の知れた研究者でな、主に医学関係の。人血の採取もその研究に関わるものらしい」
意外にもホラーな内容ではなく穏当な説明が返ってきてびっくりする。
伯爵は貴族でありながら革新的な治療法を幾つも世に発表している医学者なのだという。
ただし、国王も含めて世間的にはまだ認められていない突飛な発想だそうだが。
私に声をかけたのも他国の人間と思われたからだろうと言われた。ようするに様々な民族の血液サンプルを集めているって事みたい。
研究のためなら採血くらい応じても良かったかな。
そう思い直していると、「やめておけ」との呆れた声が降ってきた。
え、私、声に出して何も言ってませんけれど。
「お前の考えくらい顔を見れば読める。軽々しく貴族との取引に応じるな。ハインドはあれでもまだマシな部類だが、奴の考えは俺にも読めない時がある。
ただでさえ騒動の中心のくせに自ら藪に飛び込むような事はするなよ」
は!?
「何ですか、その言い方は…!?」
「当たっているだろうが。事件と名のつくものにはほとんどお前の署名付きだ」
失礼な!
こちらだって好き好んで巻き込まれているわけじゃないのに!
昨日だって…!
…。
伯爵の件ですっかり忘れていられたって言うのに、どうしてわざわざ思い出すかな、私は…。
階段に差し掛かった所でウェイ隊長はさっさと何処かへ行ってしまった。
全館掃除はやはり私を連れ出すための口実だったらしい。何はともあれ、胡散臭い話に巻き込まれるのは回避できたし、ウェイ隊長には感謝だ。
ウェイ隊長の忠告に大人しく従って、伯爵にはなるべく近づかないようにしよう!




