07 カズミ、捕獲さる
人の出入りの激しい西イーラウは人一人くらい簡単に隠してしまう。
闇雲に探しても無意味だという結論に、方向転換して本部に戻った私たちはもう一人の関係者から話を聞き出す事にした。
が。
「す、すみません…! 何も憶えていないんです」
本部の医務室に運ばれていた商店の配達員だという彼は、大きな身体を小さくして、気まずそうにそう言った。
荷の配達を終えて店に戻る途中、前を歩いていた例の小男が近道に入っていったので、同じように通り抜けようとしたところ、途中で衝撃に見舞われ意識を失ったという。
何が起こったかわからないという顔でしきりと頭を掻いていた。
つまり、この人は偶然巻き込まれただけで、あの男とは無関係だったみたいだ。
まさか、あの通り魔め、無差別に人を襲っているんじゃなかろうな。
だけど、困った。
なんてこった、あの男に繋がる手がかりの糸はぷつりと切れてしまった―――。
一晩明けて、その翌日は拍子抜けするくらい何事もなく過ぎていき、私には再び罰掃除の時間がやって来た。
本部は三階建てで学校の校舎くらいの広さがある。厩舎や地下の練習場も含めれば、その広大さに眩暈がする心地になるのだが、マグノリアさんもそこまで鬼じゃなかった。
私に申し渡されたのは、モップと雑巾を武器に一階から三階まで本部全館の通路を磨き上げる作業だ。
定期的に業者が清掃に入っている筈だけど、人の出入りが絶えないからか、通路はすぐに土埃で白くなってしまう。
それはまだ良いんだけど、男所帯ゆえか目立たない箇所にこびりついた汚れの放置具合が酷かった。
異臭を発しているのに何故放っておくんだ!と怒り半分、しつこい汚れと激闘していたら、気づいた時にはほとんど空が夕闇に染まっていた。
冬だからか、やっぱり日が暮れるのが二割増し早くなっているなぁ。遠い目。
…。
さ、さーて、次は何処かなーっと!
まだ終わっていない場所を探して、普段使われていない会議室や物置部屋が並ぶ区画に入れば、この時間はまだ本部に残っている人も多いのに、嘘のように静まり返っていた。
微かに人の声や物音も届くけれど、思ったより響かない。静寂ばかりがやけに耳につく。
灯りは持ち込んだカンテラ一つきり。薄闇の中で足元に置いたカンテラの光だけが浮かび上がっている。
濃い影だまりが落ちた廊下の突き当たりは折れ曲がり―――深い闇の中へと。
…。
がしっとモップの柄を握り直した。
うん、余計な事は考えないようにしよう!
隅から隅まで水拭きした後、乾いたモップで二度拭きする。そうしたら、今日のノルマは達成だ!
さっさと終わらせようと一心不乱に集中していたその時。
「やぁ、頑張ってるねぇ」
「!」
し、心臓が口から飛び出るかと思った!
誰もいないと思っていた背後を振り返れば、予想もしていなかった人の姿があって、再度、固まる。気配に全然、気づかなかったよ!
ええと、何とか伯爵と護衛騎士のサナイさんじゃないか。
初対面の時と違って、鮮やかな刺繍が施された白の礼装をまとった伯爵が何故かカンテラを手にし、騎士服姿のサナイさんが付き添っている。
こんな時間まで仕事をしていたんだろうか。有能な官吏ってアインが評していた人だったし。
このまま床磨きを続ける事も出来ず、掃除道具を通り道から壁に寄せて、姿勢を正した。
敬礼をとり、顔を伏せる。貴族と平民では、貴族から話しかけられない限り、沈黙でやり過ごせと助言をくれたのはアイヴァンさんだ。
「君は二番隊に所属しているのだったね。名前は?」
「…カズミと言います」
うん、モノクルが珍しいからこの顔は憶えている。だけど、名前が出てこない。
それにしても、監査官の伯爵がどうしてこんな本部の外れにいるんだろう。
この通路には灯も入れられていないから、誰も使用する予定はないと判断していたんだけど。
はて?と思いつつ目線を合わせると、伯爵その人の笑みが深くなった。
「実は君に頼みたい事があってねぇ」
…は?
「私にですか?」
思ってもみない展開に目がまるくなる。
まさか、伯爵が一隊員である自分に頼み事をしてくるなんて誰が思うんだ。
仕事の依頼だろうか。にしても、上官を通さず直接、私に頼みに来たところが若干引っかかるような。
「なに、そんなに難しい事じゃないのだよ」
と、伯爵はにこやかに立てた指を振った。
「少々、君の血液をもらいたくてねぇ」
と。
…。
…。
…。
…聞き間違い?
頭の中の呟きを聞き取ったかのように、もう一度、伯爵がはっきりと繰り返す。
「君の血液をもらい受けたいと言ったんだよ」
…何ですと?
ちょっと待て! 私の血が欲しいって言ったのか、この人!?
「ミゼル様、その言葉の選びようでは誤解を招くかと存じます」
クールビューティなサナイさんが初めて口を開いた。
第一印象と同じくらい冷静で凛とした声に、今はちょっと救われる思いがする。
「ふふ、ここまであからさまに顔に出す子も珍しいねぇ。ほら、全身毛を逆立てているのが目に見えるようだ。あはは」
いや、この反応は至って正常だと思います!
血が欲しいと言われて驚かない人がいたら逆にびっくりだ。
喉にこもる笑い声を立てた伯爵がモノクルの奥の目を細める。その目つきは何か企んでいるようにしかみえません。
まさか、本当に伯爵の正体が吸血鬼というオチじゃなかろうな。いや、あれは架空の作り話だった筈だ。
思い切り動転して硬直していると、肩を竦めた伯爵が苦笑した。
「ちゃんと説明はするから、そこまで怯えないでくれるかな。誤解をしているようだけど、私は別に血に飢えてこんな頼みを口にしているわけではないのでね」
…へ?
「あぁ、図星って顔をしているね。この分では私の前評判は彼の耳に入っていなかったようだ」
やけに楽しそうに笑われる。
「君の身の安全は保障するよ。だから、ついて来てくれるね?」
確認のかたちをした問い掛けであっても拒否を許す気はなさそうだ。
…嫌な事は早く終わらせるに限る。
気が進まないながらも覚悟を決めて頷くと、伯爵が嬉しそうに口許をほころばせた。
「では、私の部屋で話すよ。案内しよう」
本部内で伯爵にあてがわれた貴賓室の事だろう。
仕方なく、手早く掃除道具を物置部屋の一つに片付けると、私は二人の後を追って歩き始めた。