06 遭遇、その糸の先
独特の浮遊感が過ぎ去って、顔を上げた私は思考を固まらせた。
「―――れ?」
目に飛び込んできた景色が予想と違う。
あ、あれ?
床に座り込むかたちになったのでいつもより目線が低い。
それでも見慣れてしまったこの部屋の間取りは見間違えようがなくて、そろっと顔を向ければ、執務机に向かい、いつも通り事務処理に追われていたらしい人と目が合った。
や、やっぱり。
普段の表情とそう変わっていないけれど、どうやらシゼル隊長も驚いているらしい雰囲気が伝わってきた。そりゃ突然、何もない所から人が現れれば誰だって驚くよね。
ペンを手にしたままの隊長の片眉が持ち上がり、眉間がぐっとしかめられる。
一つ溜息をついて椅子から立ち上がった隊長はそのまま近づいてきて、私の目の前で膝を折った。
「何があった」
シゼル隊長だ。
ほんものの。
―――帰ってきた。
ひそめられた灰色の眼差しが手を差し伸べられそうなほど近くにあって、盛大なお叱りを覚悟して思わず首を竦めた。
私、問題児だよなぁ…。
「…すいません」
思わず口にした謝罪に、隊長が怪訝の色を濃くした。
「謝罪が必要なのか?」
「ふ、不可抗力だと思いたいんですけど、でも、隊長にはいつもご迷惑をかけっぱなしなので」
無我夢中で転移の摩学を発動させたから、もっととんでもない場所に跳ばされるかと思ったけど、まさか、シゼル隊長の執務室とは。
床にぺたんと座り込んだまま、握りしめた手に視線を向ければ、そばには例の男の人が横たわっていた。
よ、良かった。逸れずに、無事にお持ち帰りできたみたい。
「あ、あのですね! シゼル隊長、さっき」
報告しようと口に出した途端、様々な断片が生々しく押し寄せ、息が詰まった。
引きずられた足。
手に握られたナイフ。
瞬きをしない小さな目。
…目に見えない、狂気。
それから。
―――直前まで誰と一緒だったか今更ながらに思い出す。
私…あんな見境なく人を襲う危険な犯人がいるすぐ近くに、病人のルイを置いてきちゃった…!?
「カズミ?」
目の前が真っ暗になって、シゼル隊長の呼びかける声も耳に入らない。
どうして忘れてたんだろう!?
もし、具合の悪いルイがあの男に見つかったりしたら…そんなの!
「どうした。何があった?」
不意に肩をつかまれて、ハッと顔を上げれば、気遣わしげな表情のシゼル隊長がすぐそこに。
「たいちょ、」
情けない泣き声が出て、思わず口を手で塞ぐ。
いかん。こんな時こそ踏ん張らないと駄目じゃないか。
ぎゅっと目を閉じて、心の中で羊の数を数える。眠れない夜にそうするように。落ち着け、落ち着け、落ち着け。
その時、そっと労わるように大きな手が頭に乗せられて、じんわりと温もりが伝わってきた。
「何があったか、話せるな?」
しばらくして目と目を合わせて問い掛けられ、大きく頷く。
そうだ。ちゃんと自分が動かないと助けられるものも助けられないんだから。
―――隊長がいてくれる。
危険な通り魔に襲われた事、その近くにルイがいる事を簡潔に伝えると、一気にシゼル隊長の表情が険しくなった。
「場所はメルロー通りの近くです。なので、今から転移の術で戻ります!」
人が消えたり現れたりする瞬間を目撃されれば厄介な事この上ないので、緊急時以外、転移術は極力使わないようにしていたのだけど、そうも言っていられない。
できる限り詳しく場所を説明すると、私は隊長から離れて術の準備に入った。
「待て。私も行こう」
え?
意表を突かれて、口を開けてしまう。
隊長はそんな私に構わず、専用の置場に立てかけられていた剣をつかみ取ると、「ヨルファ」と例の隠し扉に向かって呼びかける。
隊長の執務室には隠し部屋に繋がるカラクリがある。普段は仮眠用に使っているらしいけれど、いやまさかと思う私の目の前で、呼ばれた当人が現れた。
えええ、そこで何をしているんですか、ヨルファさん!?
「この男を頼む」
そうだ、この人の手当てをお願いしておかなければ。
さすが、隊長!
そうして、シゼル隊長は再び私の前に立った。
「どうすればいい?」
「えっ、あ…じゃ、じゃあ、手を貸してください」
誓印を描くのと別の手で、差し出された隊長の手を握ると、一刻も早く戻らなくちゃいけないのに、なんだかものすごく、この場から逃げ出したい気分になった。
あの不気味な小男と再び対するのは確かに恐ろしい。でも、不安の原因はそれだけじゃないような…? いやいや、我ながら意味不明だ、私!
それにしても、一度経験しただけの転移術を当たり前のように受け入れている隊長が不思議すぎる。
当人である私でさえ胡散臭いレベルを突き抜けていると思ったりするのに。
…それだけ信用してもらっていると思っておこう。
深呼吸してから、誓印を描き終えた。
「テアド・ウェンテル(風よ、運べ)」
ルイを置いてきた裏通りを目指して転移すれば、さっきと何も変わらない様子の景色がそこに広がっていた。
相変わらずゴミが散らばっている他に人は見当たらない。
ルイは!?
探そうとした時、背後から驚愕の声が上がった。
「お前、何処から出てきた!?」
あれ、ルイの目の前で転移術を使うの初めてだっけ?
って、それよりも!
「ルイ!」
無事だった!
思わず立ち竦んでいる姿に飛びつけば、ぎょっとしたルイが大きく目を見開いた。
良かった、あの男に見つからなかったんだ!
安堵に力が抜けて、ルイの両腕をつかんだまま、へたり込みそうになっていると、瞬間、思い切り振り払われて転びそうになった。危ないじゃないか!
文句を言おうと顔を上げたら、何故か怒っているらしいルイに眦を吊り上げて睨まれた。
ちょっと触ったくらいで怒るなんて、心が狭すぎるぞ!
「カズミ」
呼ばれて振り返れば、周囲を確認していたらしいシゼル隊長が一つの方角を指し示し、すぐに気を引き締めて頷く。
シゼル隊長が鞘から剣を引き抜くのを見て、ルイも何か異変が起きた事に気づいたらしい。
説明しなかったけど、私たち二人が先へ進むのに、黙って後ろからついてくる。
大通りとは逆の方向、あの男と遭遇した路地の先へと曲がり―――息を呑んだ。
「誰もいない…!」
私が本部に戻ってからそう時間も経っていないのに、何事もなかったかのように、辺りはしんとしていた。
「でも私、確かに見たのに…!」
痕跡が残っていないかと何度見回しても、石畳の上には木くずくらいしか落ちていない。
予想外の光景を前に茫然と立ち尽くしていると、奥まで確かめてきたシゼル隊長が戻ってきて、私の肩を叩いた。
「っあの! 嘘じゃないんです! 本当に私、ここで襲われて…!」
焦って訴えれば、隊長は生真面目な顔つきで頷いてくれた。
「わかっている。疑ってなどいない」
…。
「君が嘘をついたとは思っていない。私たちが来る前に立ち去ったのだろう」
冷静な声がすとんと耳に入ってきて、頭が冷える。そうか、そうだよね、逃げたんだ。
きっと私が応援を呼ぶとわかって身を隠したんだろう。正直なところ、再会が引き延ばされて、ほっとしたのは否めなかった。
その時、張り詰めた低い声で名前を呼ばれ、振り返ろうとしたところを腕をつかまれて、押しとどめられた。
へ? 何ですか?
「怪我は?」
「え?」
「隊服の背が切り裂かれている」
えええ?
シゼル隊長の思わぬ指摘にびっくりする。
そうか、襲われた時に…!
「ええっ、また縫わなきゃ…!」
って、そうじゃなくて!
条件反射に針と糸を思い浮かべた私は重症だ。
後ろから深い溜息の音が聞こえましたよ!
この後に続けられる言葉も何となく想像できた。
「無事ならいいが、隊服の心配より自分の身を優先してくれ」
ごもっとも過ぎて何も言い返せません。すいません。