03 日常バトル
今日も通常業務の一つ、街の見回りに精を出す。
―――が、それとは別に。
「っ!」
…来ーたーなー!
人通りの無い道に入ったとたん、背後から投じられたナイフが頬すれすれで通り過ぎた。
何度も同じ目に遭い、慣れてきたと言えば慣れてきたと思う。
が。
当たったらどうするんだと何度言えばわかるんだろう、こいつはー!
「ウィドウ・アグア・トーア(水よ、ここに集え)」
表面上は平静を装いつつ、こっそりと胸の前で神に捧げる誓印を切る。
誓句を小声で唱え終わると、ばっと振り返った。
最後の手順として、素早く二本の指で標的を指し示せば、宙に舞い踊った水がくるりと円を形どり、みるみるうちに球体に変じ―――。
予想以上に大きくなった水の塊が勢い良く正面の相手に襲いかかった。
…ありゃ、加減を間違ったかも。
「げっ!」
さすがにその相手―――ルイの顔が引き攣った。
何せ、道の幅いっぱいに巨大化した水の球が突進してくるのだから、どう頑張っても逃げられない。
「!」
背を向けて逃げようとしていた標的に体当たりして水がばしゃんと砕ける。
盛大に水飛沫が弾けて、辺りはあっという間に水浸しとなった。
「…ええと、ルイ、大丈夫?」
わざとじゃないよ?
いつもの如く、魔学の術のコントロールを誤っただけでして。大雑把を地で行く私は微調整が下手なのだ。
「…」
水圧に押しつぶされ、濡れた地面に座り込んだルイが恐い顔で睨んでくる。
細い光の束のような金髪も水を含んで額に張り付き、十代そこそこの幼い雰囲気になっているのが笑えてしまう。
「ごめんってー。でも、元はと言えばルイが悪いんだからね」
人に刃物を投げつけて、きっかけを作ったのはあなたです。
「当ててないだろうが!」
「当たったら困るよ!」
怪我をするじゃないか! 傷を作ったら、またマグノリアさんに怒られる!
じゃなくて、当てる気が無くとも、嫌がらせとして人に向かってナイフを投げてくる行動が問題なんだ!
不服そうな顔でルイが起き上がる。警吏隊の制服がぐっしょりと濡れて重たそうだ。
さらに言えば、今は木枯らしも吹く冬真っ盛り。このままじゃ風邪を引くんじゃなかろうか。
「あのさ、ルイ」
「…ぁあ?」
「私って火の魔学も使えるんだけど」
魔学という、私が以前トラベラーした世界で学んだ魔法は、主に土と風、水と火の要素を中心として成り立っている。
だけど、私はほとんど火の魔学を使った事が無い。
理由は言わずもがな。
「火と風を掛け合わせれば、多分、あっという間に全身乾くと思うんだけどね」
「なら、やれ」
「いいの?」
目に入りそうになった一房の髪を持ち上げて、ルイが怪訝そうな顔になった。
「いやさ、やってもいいんだけど、もしかしたらこの辺り一帯火の海になる可能性も…」
「やるな!」
最後まで告げる前にルイが即座に怒鳴った。
…ははは、止めておいた方が無難だよね。
火の魔学を使わない理由はもう一つある。火の術は攻撃性が凄まじく高い。簡単に人を傷つける事ができる。
だから、私は滅多な事では火の魔学を使わないのだった。
乾いた笑い声を上げると、ルイに風邪を引かせるのも可哀相なので、今日は巡廻を早めに切り上げて警吏隊本部へ戻る事にした。
少し前のとある事件で、敵の片棒を担いだルイは、その罰として今、警吏隊で強制労働を強いられている。
丸一年は警吏隊で働くよう申し渡されているらしい。といっても、この措置は甘過ぎるとウェイ隊長がぼやいていた。この処遇を決定したのはシゼル隊長だ。
その際、他ならぬ私がルイを警吏隊に引き戻す事を望んだ手前もあり、現在の隊の仕事では、ルイと二人ないしアインを入れて三人で組む事が多くなっている。
それは別に良い。
問題無いんだけど。
アインがいない時、ルイはこうやって私に喧嘩を仕掛けてくる。
というより嫌がらせ? 他の隊員には以前の態度そのまま話しかける事すらしないのに、何が気に入らないのか私ばかり楽しげに攻撃してくる。
ナイフ投げもその一つで、本人曰く当てる気はなく、紙一重の場所に投げているらしいが、こちらとしては心臓に悪い事この上ない。
身体には当たらずとも、制服は別。おかげで針と糸で闘う裁縫の腕が急上昇しているこの頃。
やられっぱなしは性に合わないので、反撃はしている。魔学を使って。
向こうも刃物を持ち出してきているんだから、遠慮する事はない。壁を生み出して防いだり、お返しに水をかけたり、土の手で足止めしたり。
だいたい数度のやり取りで相手も諦めるので、こちらも魔学の練習とばかりに手加減してお相手するのだが、時々、やり過ぎたりもする…。
それでもまだ仕掛けてくるんだよねぇ。
余程、私の事が目障りなようだ。
まぁ、全然、気にしませんが! 私は私のしたいようにやらせていただきます! ルイの意志なんて無視だ無視!
ちなみに私はあの事件においてのルイの詳しい事情を知らない。
密偵だったとは聞いているけれど、何の組織に属していて警吏隊に潜り込んでいたのかも、ついにはシゼル隊長の暗殺未遂にまで加担した理由も。
あの牢屋で会った死んだような目をしたルイと、目の前でずぶ濡れになって悪態をつくルイは別人のようにも思える。
不本意ながらも、私を攻撃してくるルイって、活き活きとしているんだもんなぁ。おのれ。
ひとまず、最寄りの詰所で予備の制服に着替えさせたけれど、隣を黙って歩くルイの唇は紫色だ。見るからに、痛々しいほど寒そうだけれど。
「寒い?」
と尋ねても、無言で睨みつけられる。
意地っ張りめー!
…仕方ないなぁ、もう!
手を伸ばしてルイの片手を握ると、驚いて身を引こうとするのを両手で捕まえた。
「体温高いからあったかいでしょ?」
冷え症とは無縁のほかほかな手のひらで冷たい骨ばった手を包み込んだ。
いわゆる、人間カイロだ。こうすれば少しは寒さも和らぐ。昔はよくじいちゃんにしてもらったなぁ。
じっと黙って手を握り続ける事しばらく。
って、あれ?
あまりにも反応がない。
怪訝に思って顔を覗き込もうとした瞬間、ルイに思い切り手を振り払われた。
…まぁ、ある意味、予想通りと言いますか、何というか。
そのまま、さっさと一人で歩き出す後ろ姿に溜息が出てくる。
世話が焼ける弟がいたらこんな感じかな?
そんな感想を抱きつつ、私も後に続くのだった。
「よし、この階は終わりっと」
廊下の端から端まで濡れたモップで磨き上げた私は、汗ばんだ額を拭った。
隊務が終わった後、遅刻の罰則である全館掃除をしていたのだった。
掃除って意外と考え事に向いている作業だ。機械的に手を動かしている間に、色々な事柄について考え始めてしまった。
―――次のお迎えは何時だろうか、とか。
手にしたモップの柄に顎を乗せて、隣の窓を見る。
ノエと呼ばれる星が夜空に浮かび、月のように薄青い光を放っている。
人にも生活にも随分と馴染んだけれど、空に月が無いように、この世界は私が本来住んでいる世界じゃない。
いずれ元の世界へと連れ戻される日がやって来る。
最初に訪れた世界でも、二番目の魔学を学んだ世界でも、三番目の塩探しの旅に出た世界でも、時期はまちまちだが、元の世界に戻る事ができた。
この四番目の世界でも既に一度、経験済みだ。とんでもないタイミングだったけど。
だから、帰還できないという事は無い筈だ。
―――今、できる事をしておかなくちゃ。
何の因果か采配か知らないが、私には奥の手として、この世界には存在しない術、魔学が使える。
自分の常識が通用しないこの異世界では、鬼に金棒の武器だ。
小さな事でも、私には私にしかできない事がきっとある。
いつ還る事になっても後悔しないように。
―――とりあえず全館掃除、頑張ろう!