第十六回
どこまで東京の事を書いたっけ?祐介はコフコフと咳をする。
ああ、ついに自分は煙草を辞めたのだ。そうすると何か不思議な安心感に包まれて、書斎の涼しい空気が嬉しかった。
そうか、蒲田のざわざわとした雑踏の中に消えていったところまで書いた。
そうして実際の音響の授業の所だ。これは、要は講師との相性だった。意欲的なものは、前の席に座る。祐介、彼は真ん中位。後ろの席にはラッパーを目指している東京のマイルドヤンキーが陣取っていた。
しかし、祐介の勝負は講義がはじまる前、それか後の数分。講師と個人的にコミュニケーションをとる事を、彼は疎かにしかなかった。
皆はあまり興味が無かった風に見えたが、その、ノイズ、について、深く研究している講師に対しては、彼は敬意を抱いていた。
「人間からノイズをとりのぞく事なんてできないんです。それは、ほら、心臓の音。勝手に、ドクン、ドクンと鳴っているでしょう」
長い白髪を後ろにまとめた講師であった。そんなに講義では必要ないのに、いつも鞄いっぱいに、資料を詰め込んでいた。
その講師は祐介にジャズは面白い、と話してくれたので、ロックンロールから、メタルに向かい、そうして彼の嗜好はマイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーンに向かった。
「想像してみて下さい。ジャズというのは音量的にはロックに対抗できないのですが、その演奏における熱量というものを考えるとね、
私は考える。ジャズに現代の音響技術、アンプやPAシステムがあったなら、どんな事になっていたのだろうかと」
「先生、マイルスの、オン・ザ・コーナーを聞きましたよ」
「いいねぇ、ファンク、マイルス!あれは拍子が興味深い音楽なんだ。毎日聞くといい」
それから彼はマイルス・デイヴィスのオン・ザ・コーナーを毎日聞くようになった。
(何か、体調管理のようだな)
と思った。
彼は講義を終えると、まっすぐ寮に帰った。
そうして蒲田のブックオフに行く。CDを買う。そうしてコレクションを増やしていった。
教科書以外何も無いデスク。ベッド。網戸の破れた窓には薄いレースのカーテンがあって、後はCDMDプレイヤーのみが置かれ、日々、熱心に音楽に耳を傾ける、というのは彼にとって贅沢であったが、どこか修行僧めいてもいた。
彼は寮の三階の部屋に住んでいたが、同じ階の隣の部屋の寮生はテレヴィを持ち込んでいたので、彼は見せて貰う事が多かった。
大柄な体形であったが、テレヴィをつけつつ、いつも漫画雑誌の「サンデー」を読んでいた。
その部屋にコウとヤスが来る事が度々あった。コウはマールボロライトを喫う時、その部屋の住人に、構わないか、と毎回聞いていた。決まって彼の答えは
「いいよ」
だった。
何か、彼には皆、なんでも許されていたような気がしたが、祐介の印象として、昔、怒りをぶちまけた経験がある人のようだなぁ、と思った。その怒りの反省として、今、なんでも許してしまうんだろうなぁ、と思った。
彼はこの部屋にテレヴィを観にくるのはもう辞めよう、と思った。なんでもかんでも許されてしまうだろう。それは良くない、と考えた。
大柄の男にその旨を伝えると、彼は隠しておいたジャック・ダニエルの小瓶を祐介にくれた。
「おっ、ありがとう」
「眠る前に飲むといい。でも寮長に見つからないようにね」
祐介は隣の部屋に帰ると、棚にしまってあったアコースティック・ギターを出してきて、
凄く小さな音で、ブルースのフレーズを弾いた。ジャック・ダニエルの小瓶を開けた。
隣の部屋からテレヴィの音、 コウやヤスの笑い声が聞こえてきた。
破れた網戸から月がのぞいた。
彼は立ち上がると、シャッとカーテンを閉めた。
ジャック・ダニエル、ブルースのCDジャケット(確か、ライトニン・ホプキンスだった)アコースティック・ギター。それ以外は殆ど、何も無い部屋。これが彼の精神世界だった。
彼はその晩、夢を観た。この寮全体が家事で燃えているのであるが、なぜか、この部屋は大丈夫なのであった。しかし、火の手は迫って、遂にこの部屋も火に包まれる。彼はここで瞬間移動して、炎の中を一瞬で抜けて、助かる、という夢であった。
朝起きると、彼は二日酔いであった。それでも専門学校に通学しなければならぬ。
食堂に出るとケンがいた。ケンはギターに興味を持っていた。しかし、ケンは歌ものではなく、ギター二本を使用したインストゥルメンタルをやりたいらしかった。
なぜって、朝の音楽番組でそういうユニットを観た、という単純な理由だったし、ケン自身、歌に興味が無い事もあった。
ともかく、祐介とケンは、アコースティック・ギターを持って、祐介の部屋で合う、約束を交わして、朝食を終えると、専門学校に向かったのであった。




