第8話:圧は、人を守らぬ ――幼稚さは、権力を持つと凶器になる――
さて、 その日。
彼女は 朝から、 言葉にしづらい 違和感を抱えて おりました。
圧凄――
あの、声が大きく、
常に正しげな 顔で 他人を 急かす女の様子が、
どうにも落ち着かないのでございます。
声は荒れ、 動きは 雑。
足音までもが、 隠しきれぬ 負の感情を 引きずっております。
――ああ、 今日は 機嫌が悪い。
この御殿に おいて、
それは 十分すぎるほどの 警報にございました。
理由は、すぐに 知れました。
圧凄はその日、
自分でも 理解しきれていない 難しき内容を、
客に説明せねばならぬ 役を引き受けていたのです。
この奥において、
これほど危険な 役回りはございません。
分からぬことを 分からぬまま、
分かった顔をして話さねばならぬ。
その歪みが、 彼女を 苛立たせていたので しょう。
電話は 長引きました。
三十分を 超えてもなお、
終わりが見えません。
説明は 堂々、声は 自信満々。
なれど 話は 一向に 噛み合わず、
同じ場所をぐるぐると 虚しく回るばかり。
やがて、受話器の向こうから
激しい 苛立ちが 滲み出し――
そして、怒鳴り声が 響きました。
「お前が 金を 払え!」
客の声が隣にいる彼女にもはっきり聞こえた。
「なんで私が払うんですか?」
圧凄も負けておりません。
その時です。
……ぷつり、と。
一方的に電話は切られました。
圧凄の 荒い息遣いだけが、
静まり返った御殿中に響き渡ります。
そのすべてを彼女は、書類を 前にしながら、
耳にしておりました。
――あのような物言いをすれば、
相手が 怒らぬはずも なし。
なれど、 誰も 何も申しません。
ここは、 過ちを注意する場所ではなく、
「見なかったことにする」 ことで己を守る 場所なので ございます。
電話を 切った瞬間、
圧凄は 吐き捨てました。
「もう 嫌だ。
今日は 帰りたい。」
…ほう
それ以降、 圧凄は 電話にも出ず、
窓口にも立ちません。
ここはいつから保育園になったのでございましょうか。
還暦過ぎの新人を「距離が近い」と叱り飛ばした威厳はどこへやら。
今や、おもちゃを取り上げられた幼児が、
「世界が私に謝るまで動かないもん!」
と 頬を膨らませているのと、何ら変わりはございません。
周囲の者たちは 誰も 咎めず、
何も言わず、
ただ 腫れ物に 触れるように
そっと しておきます。
奥とは、そのような 場所なのです。
課長だけが、申し訳程度に小さく 声をかけました。
「……大丈夫ですか?」
圧凄は答えません。
手をふり、あっちへいけと言わんばかり。
その不遜な沈黙は、もはや「神秘」ではなく、
単なる「中途半端な反抗期」に ございました。
感情を 爆発させた者が、
その「勢い」 ゆえに免責される。
そんな 歪な構造が、
ここではまかり通って いるのです。
彼女は、 その光景を 眺めながら静かに思いました。
――ああ、 これは「怖い人」ではない。
単に「幼稚な人」 なのだ、と。
自分が 分からぬときは、
声を 荒らげる。
自分が 責められる立場に なれば、
仕事を 放り出す。
そして、 その未熟ゆえの不安を、
新人に向けて「圧」として 放つ。
己を棚に上げるその動作に、
一点の 躊躇も ございません。
一瞬、 彼女は 考えました。
相手が 幼いのなら、 私が大人になって、
うまく転がしてやればよいのではないか、と。
なれど、 即座にそれを 打ち消しました。
六十を 越えて、
他人の感情の 後始末などという 汚れ役を
引き受ける 義理は ございません。
成長を 期待できぬ相手に 配慮を 重ねるのは、
ただの 無益な 消耗戦。
――私にとって、 得は何一つとして ない。
帰り際、 圧凄は 思い出したように、
恩着せがましく 言いました。
「私、いつも きつい言い方しているけれど、悪気は ないのよ」
――ついに 出ました。
この御殿で、『悪気がないから、私は無罪』。
その論理が通るなら、この世に牢屋は不要でございます。
悪気なく人を刺す者が一番厄介であるという道理を、
この女の親は教え忘れたのでございましょう。
彼女の 胸に 浮かんだのは、
怒りでも憐れみでもございません。
確固たる 「確信」でございました。
――この人は、死ぬまで 変わることはない。
その瞬間、 彼女の心は、
微妙な位置で 揺れ動きました。
早く去るべきか、 もう少し 様子を 見るべきか。
どちらにも、もっともな 理由が ございます。
なれど、 一つだけ 確かなことが ありました。
この場所で、この人を軸に 働き続けることは、
残りの人生において、
確実に「損」であるという ことでございます。
清少納言、ここに 記す。
「道理の通ぜぬ者を 相手にするは、 沼を歩むが 如し。
早々に足を 抜くことこそ、真の 知恵と 言えん」
次回予告
「――次回、
誰も 笑わぬ 御殿で出会ったのは、
心身を 削りながら『ここしかない』と 縋り付く、
慣れ果てた者たちの 末路。
その鏡に 映る 数年後の己の姿に、
彼女は 戦慄き、
最後の一線を 見定めます」




