第7話:「今のままでいい」という、最も無責任な言葉 ――御殿にて、忘却が管理にすり替わる――
その日。
彼女は いつもより少し早く御殿へ入りました。
人影の 少ない フロアには、
仕事の気配よりも、
掃除の音だけが 空虚に 響いております。
そこに、 課長がおりました。
偶然、 二人きりになる。
この御殿では、それだけで
「話してもいい空気」という、
密やかな 特権が生まれるので ございます。
「そんなに 早く来なくて いいのよ。
八時半 ぎりぎりで 十分」
柔らかい声。
気遣いの形を した言葉。
彼女は思いました。
――この人は、 人を 責めない言い方だけは、本当にうまいのだ、と。
彼女は、回りくどさを 捨てて 単刀直入に 問いました。
「課長、こちらの仕事を 皆さんは、
一度の説明で 覚えていらっしゃるのですか?」
課長は 少し驚いた顔をしたあと、
すぐに首を振りました。
「そんなことないわよ」
即答に ございました。
「みんな 最初は 分からないものだし。
この仕事量で、 一度で覚えられるわけ ないじゃない」
――ああ、やはり。
彼女の胸が、 少しだけ緩みました。
課長はさらに 続けます。
「三年いる人だって、 いまだに 確認しながら やってるわよ。
別に、 特別に 優秀な人たちって わけでもないし」
なるほど。三年 経っても、まだ 聞いている。
特別にできるわけでもない。
それを、管理する側の 課長自身が、
事もなげに認めているので ございます。
「みんな最初は全然できなかったのに、
その頃のことを 忘れて、
新人に強いこと言っちゃうのよね」
課長は、 花の蕾でも 愛でるように、
軽やかに 笑いました。
「――困った人たち」
そして、あの方は凄まじい圧を放ちながら、こう続けるのです。
「彼女は、最初にきちんと覚えなかったから、
今でも私に何回も聞いてくるの。
きちんと理解しないまま三年が過ぎてしまうのは、もったいないことなのよ」
「だからあなたは 気にしなくていいわ」
「慌てないでゆっくり理解してほしい」
理屈はわかるのでございます。
なれどその言葉は、 穴の開いた傘を貸しながら
「雨なんて気にしなくていいのよ」と囁くようなもの。
濡れるのは私、微笑むのはあなた。
まことに不公平な相合傘でございます。
それでも 彼女は
一瞬、 確かに救われた心地がいたしました。
――そうか、 誰だって 最初は できなかったのだ、と。
そう 思えたので ございます。
だが、 その直後。
彼女の中に、 冷たい 疑問が 音もなく 立ち上がりました。
ではなぜ、 私は今、
「一度で覚えろ」 という 凄まじい圧を
浴びせられているのか。
現場は、 こうなっております。
先輩たちは、「自分たちは 最初から できていた」という 傲慢な前提で 語る。
説明は 一度きり。
質問すれば「昨日 言ったよね」
と 突き放される。
「新人なのだから 仕方ない」
という 慈悲は、 どこにも ございません。
自分たちも かつては できなかった――
その 都合の悪い事実は、
御殿の霧の中に 綺麗に 忘れ去られて いる。
課長は、 それを知っております。
知っていながら、その歪んだ状態を正そうとする 様子は、
どこにも ございませんでした。
その日、 彼女が 覚えた 微かな安心。
それは、 状況が改善された 喜びではございませんでした。
「仕方のない現実」を、
毒を抜いた言葉で 飲み込まされただけに 過ぎません。
この御殿では、声を 荒らげる者より、圧を かける者より。
「大丈夫よ」と 微笑みながら、その実、 何もしない者が、
一番多くの新人を 静かに 壊していくのでございます。
その冷徹な真理を、彼女はまだ、
この朝には 完全には 悟りきっては おりませんでした。
清少納言、 ここに 記す。
「忘るるを 許し、 改めぬを 管理と 呼ぶは、 世の常なり。
微笑みの裏に潜むるは、 人を 信じぬ 冷たき心。
『気に病むな』 との囁きこそ、魂を 腐らせる 甘き毒ならん」
次回予告
「――次回、
御殿に 響くは、 理不尽な 怒号と 幼き 駄々。
正しき顔で圧を 放っていた女の正体が、
ただの『幼稚な怪物』 であったと 暴かれる時、
彼女の心に 冷徹な 決別が 宿ります」




