第2話:初出勤とは、頭を下げ続ける儀式なり ――御殿の門は、静かに人を屈ませる――
その日が、ついにやって参りました。
一日中研修と 聞いていたため、体力についての不安は、
正直なところ ほとんどございませんでした。
けれど、 真の問題は 別の場所に 潜んでいたのです。
彼女はこの日、
朝から夕方まで、必要以上に 頭を下げ続けて おりました。
初日。新人。六十二歳。
条件が、あまりにも 整いすぎていたのでしょう。
最初から、 こちらが「低くあるべき存在」
として配置されているのが 分かってしまう。
誰かに声をかけるたび、
「よろしくお願いします」
「ありがとうございます」
「すみません」。
その三語を、丁寧に、慎重に、
まるで献上品のように差し出す。
それは会話では ございませんでした。
服従の確認作業に ございます。
頭を下げる角度、声の大きさ、 間の取り方。
どれも 間違えてはならない。
何度も下げたせいで、もはや彼女の首は、
バネの壊れた首振り人形のようになってしまったのでございます。
そんな中で、ひとつだけ救いがあったのは、
同期という名の救命具の存在でございます。
同じ日に入った 五十七歳の男性。
研修は 終始一緒で、
分からぬところを小声で確認し合える。
「これ、どういう意味でしょうか」
その一言を、 過剰に怯えずに 口にできる相手がいる。
それだけで、場の圧は、 驚くほど 軽くなりました。
この御殿では、 味方が 一人いるかどうかで、
空気の密度が変わる。
孤立は、 最初から 仕組まれた 罠なので ございましょう。
研修内容は、初日から容赦がございませんでした。
個人情報の 取り扱い。
しかも、 形だけではない 本気の 選別。
専門用語が、 説明も 補足もなく、 雨あられのように 降ってくる。
彼女は うなずきながら、 理解できない部分を
心の隅にそっと 積み上げました。
「これは 後で聞こう」
「今日は、 聞かない」。
この奥では、聞かない判断」もまた、
生き残るための 生存戦略となるのです。
気づけば、 彼女は 一日中、
端末の前に座らされて おりました。
出退勤、住所、 口座、 各種個人情報。
初日から、すべてを 自分で入力する。
紙なし、印鑑なし。
それが、この御殿の作法。
職業訓練でパソコンを 学んでいなければ、
この時点で立ち尽くしていたに 違いありません。
いや、そもそも、採用すらされていなかったことでしょう。
この御殿は、 選別を終えた者だけを中に入れる。
入った以上、できない者が 悪い。
その冷徹な前提が、最初から 敷かれていたのです。
研修の終盤、 ひときわ重い戒めが ございました。
他人の情報は もとより、 自分自身の年金情報であっても、
職場の端末で 調べては ならない。
操作履歴は当日中に 点検され、犯したものは解雇。
他人の人生は指先一つで覗けるのに、
自分の人生の先行きは五里霧中という不思議。
スマホはロッカーにしまい、持ち出し厳禁。
仕事場への持ち物は、中身が丸見えの透明な袋にいれ、
家には、一切の資料、メモや付箋さえ持ち出すことができない徹底ぶり。
やってはいけないことが、あまりにも多すぎる。
多すぎて、何をしてよいのか 分からなくなる。
そのとき、彼女の胸に 浮かんだのは、
切実な考えでございました。
「下手に 何かするくらいなら、
今日は存在しないほうが安全ではないか」
初日の感想は、ほぼ、それに 尽きたのでございます。
初出勤の一日。
体は 問題なし。
だが心には、 じわりとした疲労が
澱のように残りました。
彼女はまだ 知らない。
ここで何を学び、何に慣れ、
そして 何を失うことになるのか。
だが、 ひとつだけは、 もう 肌で 感じておりました。
――この御殿は、
人を 守るつもりがない。
清少納言、ここに記す。
静けさの奥に、
逃げ場のない圧が
満ちていることを。
次回予告
「――次回、
配属の朝。
そこに 鎮座していたのは、 教え手ではなく、
『圧が服を着て歩く』ような女にございました。
理屈は 危険物、 疑問は 重罪。
言葉を奪われた新人が、
生き残るために選んだ『最適解』 とは」




