第16話:去る者の足取りは、静かなるほど強し ――涙は、責任の代わりにならず――
その日。 彼女は課長の前に 座り、
揺らぐことのない 声で 静かに 告げました。
「試用期間をもって、 退職させてください」
課長は、 しばらく 言葉を失い、
やがて 視線を落としました。
驚いたことに、 その目から 涙が 一筋、
音もなく こぼれ落ちたので ございます。
「……ごめんなさい」
そして、 課長は 語り始めました。
この御殿で 働き、
自らも 心を 壊しかけたこと。
毎日 涙が 止まらなかったこと。
己が 課長という 役職に 向いていないのでは ないかと、
夜も 眠れず 悩み続けていること。
だからこそ、 現場の 澱んだ 空気を 変えたくて、
彼女を 採用したのだという 話を。
「面接に 慣れていなくて……
よく考えないまま、あなたを見て『職場の雰囲気を変えてくれるのはこの人だ』と 思ってしまったの。
あなたの良さが 発揮できないままこんな形になるなんて……」
課長は再び、 瞼を 潤ませました。
彼女は、 ただその独白を 聞いて おりました。
やがて 口を 開きかけ、
ふと、 出かかった 言葉を 飲み込みました。
「ご期待に 応えられず」
――そう 言いかけて、 やめたので ございます。
代わりに、 彼女は 静かに、
こう 告げました。
「課長。職場の 雰囲気を 良くする力というのは、
まずは 仕事が できてからの 話にございます。
仕事の 内容すら 分からぬ 新人に、
そのような 重き役割は 果たせません。
この状態では、力を 発揮する前に、
心が先に 壊れてしまいます」
課長は、何度も、 何度も、 深く うなずきました。
「……私に 力が なかったばかりに」
また、 涙を こぼしました。
なれど――
結局、 事態を 招いた 己の 『不作為』への 責任は、
ついに 最後まで 語られることは ございませんでした。
課長にとっての 涙は、
謝罪の証ではなく、
事態をうやむやにするための、
無意識の 霧であったのかも しれません。
その後、 話は上へと 回りました。
責任者との 面談にて、
形式的な 確認が 終わったあと、
所長が 何気なく 尋ねてきました。
「パソコンが 苦手で、 合わなかった、 ということですね?」
彼女は、 迷わず 首を 横に 振りました。
「いいえ。人間関係です」
それ以上、 話を 深めることは いたしませんでした。
彼女が どのように 扱われ、
何が共有されず、
どのような 嘘が現場に 伝えられていたのか。
今さら 訂正したところで、
この御殿の 土台が 揺らぐわけでも ございません。
誤解は、 すでに 所内の「公式な理由」として、
都合よく 書き換えられて おりました。
彼女は 立ち上がり、
深く、 そして 優雅に 頭を 下げました。
この御殿では、 泣く者が 守られ、
静かに 道理を 説明する者が 去ってゆく。
清少納言、 ここに 記す。
「泣く者あり、 謝る者あり。
されど、 去る者の 足取りは、静かなるほど、 強し。
涙にて 責を 免れようとするは、 いと 見苦しきことなり。」
最終話への予告
「――次回、
ついに 最終回。
重苦しき 御殿の門を 抜け、
彼女が 取り戻したのは
二か月ぶりの 『腹からの笑い』に ございました。
去りゆく者が 残した 静かなる 意趣返しと、
命の砦たる『尊厳』の物語。
風のように 去る彼女の 背中が、
混迷の世を 照らす 一筋の光とならん。」




