第12話:前職の時間は、消えずに残る ――役に立つとは、声高に言わぬことなり――
気づけば、彼女はこの御殿の仕事を、
少しずつ 理解し始めておりました。
新しい作業を 聞いても、
頭の中ですぐに 過去の記憶と 結びつく。
――ああ、これは、
前の城で何度も通った門だ、と。
名前と書式が 違うだけで、
中身は 似たようなもの。
関所の顔ぶれが変わっただけの、
よくある 通行手形に 過ぎないのでございます。
そんな日であったからか、
あの 圧凄も、
この日は珍しく機嫌がよろしゅうございました。
なれど 午後。
平和な空気を 破り、
複合機が 不穏な音を 立てて絶命いたしました。
――トナー切れ。
しかも、あろうことか 圧凄が それを 使っている、
まさにその最中にでございます。
空気が、一瞬にして凍りつきました。
彼女の中で、 黒い羽を持つ 天使が 耳元で 囁きます。
「見なかったことに…… しても、よろしくてよ?」
なれど、 この御殿において、
そのような賢明な判断はたいてい 無駄に終わるもの。
どうせ後で、「これ、お願いできる?」
と、お鉢が回ってくるのは 自明の理。
ならば、 先に動いたほうが 精神衛生上、
まだマシというものにございます。
彼女は 静かに立ち、
倉庫へと 案内されました。
倉庫への道すがら、先輩が空中に向かって言い訳を始めました。
「これね、ほとんどやったことないのよ。私、苦手で……」
――あな、をかし。
日頃、新人を獅子のような咆哮で威嚇するお方が、
トナー一本を前にして、
雷に怯える仔犬のように「苦手なの」と頬を染める。
責任は、能力のある者のところではなく、
「動いてしまったお人好し」へ流れ着く。
彼女は 知っておりました。
トナー交換という名の地雷を。
下手に触れば 黒き粉が舞い、 指先は汚れ、
紙が詰まり、 場が荒れる。
なれど、 前の城で
それは 何度も経験済みの、いわば「お家芸」。
彼女は 何事も なかったかのように、
淡々と トナーを差し替え、
作業を 終えました。
「……できます、 私」
その瞬間、 圧凄の 険しい顔が、
目に見えて 緩みました。
「じゃあ…… お願いします」
前職で 積み重ねた時間は、
御殿に 入ったからといって消えは いたしませぬ。
音もなく、 彼女の中に、
確かな武器として残っていたので ございます。
さて、 その後のこと。
今度は 入力について、手痛い注意を 受けました。
彼女は、 住所表記を 少しだけ整えておいたのです。
見やすく。
読みやすく。
それが「良識」というものでございます。
なれど、この御殿では、
それは「余計な色気」 に 過ぎぬらしい。
「どうして 変えるの?」
彼女は、 正直に 答えました。
「画面表示が左様でございましたし、
私の常識では、 この方がよろしいかと 思いまして」
返ってきたのは、 短く、
そして容赦のない言葉。
「あなたの常識が、 おかしいの」
「おかしい」と言われましたか。
彼女は、静かに、けれど心底冷めた目で頭を下げました。
「左様でございますか。以後、気をつけます」
なれど、その直後。
彼女は見てしまったのです。
圧凄が、 彼女の整えた画面を 見ながら、
一文字、 また一文字と、
まるで 生まれたての 小鹿が歩むようなたどたどしさで、
鍵盤を 打っている姿を。
――ああ。
「常識」だの「ルール」だのと 高らかに 宣っていた 怪物の正体は、
ただの「パソコンが苦手な、お局様」でしかなかった。
あの指先の 心許なさを 見た今、 彼女にとって 圧凄は、
畏怖すべき怪物から 「手のかかる隣人」へと成り下がったので ございます。
清少納言、 ここに記す。
「鍵盤を 叩く たどたどしき指先を見れば、
先刻の毒舌も、 ただの 強がりと 聞こえて可笑し」。
次回予告
「――次回、
空の謝罪が響き渡る御殿にて、
昨日までの約束が音を立てて 崩れ去ります。
戦場へ 放り出し、
出来ぬを 嘲笑う者たちのあさましき本性を 見た時、
彼女は 静かに、けれど迷いなく
『去るための筆』を 執るのです。」




