第10話:人には、向き不向きが確かにある ――この者、人に向き合う民なり――
さて、 この日。
出来事そのものは、 まことに些細なことにございました。
されど 彼女にとっては、
長年 胸の奥に 沈めてきた 問いに、
ようやく 鮮やかな答えが下された
一日となったので ございます。
彼女はこれまで、
人と 関わる仕事を 選んで 生きて 参りました。
若き日の 最初の 就活にて、
彼女が志したのは事務職。
当時は、「女子に 人気なのは 事務」
「営業は 大変」
という風潮が 世を 覆っており、
彼女もまた、
その「おしとやかな道」を夢見たのでございます。
ところが、 結果は見事なまでの不採用。
対して、仕方がなく受けた金融機関の総合職――
すなわち、客と 渡り合う 営業や窓口。
こちらは不思議なことに、
受けた先から すべて 通ったのでございます。
天は 彼女に、 静寂よりも 喧騒を、
書類よりも「人」を 与えたまうた。
以来、 彼女は人の前に 立ち、
説明し、納得してもらい、
時に 荒ぶる感情を 受け止める 術を 磨いて 参りました。
……とはいえ。
「本当は、 事務も やってみたかった」
という 淡い未練は、
心の 隅っこに埃のように 溜まっておりました。
だからこそ 今回、 この御殿の事務職に 採用されたとき、
彼女は「ついに 夢が叶った」
と、密かに 小躍りして いたのでございます。
ところが、その日。
思いがけず、 彼女は 窓口に 立たされることとなりました。
六十代の者は 外出中。
依頼が 重なり、
若い職員が忙しげに こう告げたのです。
「これなら、○○さんにもできそう」
渡される書類。
本人確認、 署名、 説明。
次々と飛んでくる 質問への 応答、
そして、 清々しき 見送り。
――おや。
やっていること 自体は、 決して難しくはございません。
なれど、 一連の所作を 終えた瞬間、
彼女ははっきりと 感じたのです。
止まっていた「呼吸」が、
今、 劇的に戻ったことを。
重苦しかった 胸の奥が、
まるで 春風が 吹き抜けたように、
すうっと 軽くなったのでございます。
「あら、 私。今、生きてるわ……!」
その後、事務の席に 戻れば、
そこにあるのは 無機質な 端末と、冷たき書類。
楽しいかと 問われれば、 答えは「無」。
六十二年もの間、胸に抱き続けた事務職への淡き恋心。
なれど、いざお見合いしてみれば、相手は一言も喋らぬ石像のような無機質さ。
折しも、 圧凄が、
湿った声でぽつりと 言いました。
「この仕事で一番 大変なのは、人間関係よ。みんなきついし……」
――あな、をかし。
どの口が、その眉間のしわが、被害者のような顔をしてそれを宣うのか。
彼女は、言葉にできない声をそっと飲み込み、
扇子で口元を隠すようにして、天井をを見上げました。
「私、 書類と 添い遂げる女には、なれそうに ないわ」
長きにわたる 事務職への 片思いは、
わずか 数日の「窓口への浮気」で、
木っ端微塵に 砕け散ったので ございます。
遠回りでは ございました。
なれど、 この 六十二年越しの 答え合わせは、
これから先の 人生で、
何物にも 代えがたい「武器」と なるに 違いありません。
事務の山の中で、 彼女は 小さな、
けれど 目も 眩むような光を手に いたしました。
それは、職種の名前では ございません。
「私は、 人に 向き合いながら 生きてこそ、輝く民なのだ」
という、 揺るぎない 己の軸。
この御殿から 一歩 外へ 出れば、
そこには 彼女を 必要とする
「生きた人々」 が いくらでも いる。
そう 確信した 彼女の目には、
もはや 眉間のしわなどはございませんでした。
清少納言、ここに記す。
「人には向き不向き あり。
されど、己の 息の戻る場を 知る者は、
すでに道を誤らず」。
次回予告
「――次回、
御殿に渦巻くは、
天地逆転の『無責任の法則』。
古株の 犯した過ちを、
なぜか 新人が黙って 浄めねば ならぬという、
あさましき 尻拭いの 儀式が 始まります。
気づいた者こそが損をする、
その 腐り果てた 実態とは。」




