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第9話:誰も笑わぬ職場にて ――慣れた者たちの、静かな終着点――

この職場では、 誰も笑い声を上げることがございません。


少なくとも 彼女が 来てから 一度も、

心からの 笑いというものを 耳にした 覚えがないので ございます。


冗談が 通じぬわけではございません。

談笑が 禁じられている わけでも ございません。


ただ、 笑顔というものが、

この地には もはや 自生していないのでございます。


朝、フロアに 入れば、並ぶ 顔、 顔、 顔。


どの顔にも、 判で押したように眉間のしわが

深く刻まれております。


怒っているのでも、

悲しんでいるのでもございません。


それは、一度 固まったまま 戻らなくなって しまった

「お面」のような 表情にございました。


彼女の 部署の社員は、

片方の目が 一秒刻みに ぴくぴくと 動いて おりました。

瞬きでもなく、 意識的でもない その痙攣。


能面のように 白い顔をした、三十代の女。

表情はなく、 声は 蚊の鳴くよう。


なれど、 口の動きだけは 異様に 速いので ございます。


説明ではなく、ただの「伝達」。

質問を される前に 言葉を 終わらせたいという、

拒絶の意思だけが 早口に 乗り、

彼女を 突っぱねます。


彼女が近づけば、 ぴたりと 言い放つ。

「…… ああもっと離れて」と手で払う。


それは、秋風が枯れ葉を散らすような、無情な仕草にございました。


距離の問題では ございません。


それは 関係の拒否、

心の門を 閉ざす合図。


新人である彼女は、

それを 忠実に 守りました。


近づかない、

聞かない、

存在しないふりをする。


この職場に おいては、

透明人間になることこそが、

最も 賢き最適解なので ございます。


課長もまた、 よく整った 顔立ちを しながら、

その実、 生気が ございません。


常にびくびくとし、

いつ 何が 起きるか 分からぬ 場所で

息を 潜めている――。


それは、 獲物を待つ 狩人ではなく、

いつ 狩られるか 怯える小動物の 顔にございました。


別の部署では、

三か月も 休んでいる者が いる。


「やっぱり まだダメみたいよ」

「今期 いっぱい、出てこれないみたい」


「今日も残業ね、チッ」


その会話は、 まるで 今日の お天気の

話のように 何気なく交わされます。


重さも なければ、

驚きも ない。

「そういうもの」 として、

事務的に 処理されて いく。


ある日、 帰り道が 一緒になった 六年目の女性が、

唐突にこう申しました。


「私、 癌患者なのよ」

「いつも、痛い痛いと叫んでいるけれど気にしないでね」


あまりに 自然な 口調に、

彼女は 言葉を 失いました。


「…… お体を、どうか大切になさってください」


絞り出すように 答えると、

その女性は 含み笑いを 浮かべました。


「ここ 辞めたら、 行くところが ないじゃない。


私たちの年だと、 条件が 合うのは ここしか ないのよ」


そして、 決定打のように 付け加えました。

「あなたも、そうでしょう?」

彼女は、 ただ うなずくしか ございませんでした。


女性は、 まるで慈悲深い 先輩として忠告するように 続けます。


「ここね、 何度も辞めたくなるのよ。

それの 繰り返し。


そうやって 踏ん張るの。

あなたも 頑張って」


これは、なんの我慢大会だろうか?


そのとき、 彼女は気づいたのです。


この人たちは、

辞めたくなった回数を 数えることすら、

とうに止めてしまった人たちなのだと。


慣れてしまったのでございます。

この異様さに、この冷たさに。


――これが、私の 未来か。


数年後、 同じように 眉間のしわを刻み、

新人に「踏ん張ってるのよ」

と 語りかける自分。


その姿を 想像したとき、

背筋に冷たいものが 走りました。


なれど 同時に、

もう一つの 考えが 頭を もたげます。


――いや。

私は、 まだ 慣れていない。


そして、 慣れきって しまう前に

「出る」 という選択も、 また 残されている。


心は、 まだ 揺れております。

結論は 出ておりません。


なれど、 新人だけが 感じる この「異様さ」 を、

彼女は決して 手放しは いたしませんでした。


それは、 この御殿に おいて、

彼女が 最後に 持ち合わせている

「正気の証拠」 だったからで ございます。


清少納言、 ここに 記す。


「慣れとは、 まことに 怖いもの。

初心を 忘れ、この身の 変わり果てた 鏡を 見ることさえ忘れ、

沼に沈むを平穏と呼ぶは、いと 悲しきことなり」。


次回予告

「――次回、

沈黙の山に 埋もれていた 彼女の魂が、

一瞬の『窓口』 で 劇的に 息を 吹き返します。


六十二年越しの 自己回答。

彼女が 手にしたのは、

事務の技術では なく、

御殿を 捨てるための『光り輝く己の軸』 に ございました」





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