第一章
憎は魔を孕み 魔は悪を産む
愛は信を孕み 信が善を産む
天空にて善は膿み 地陸にて悪は熟まれる
善は愛を 悪は憎を
無に果てるまで 二つは分かつことの出来ぬ天と陸
人は何処を住処とす
かの者は悪を信ず善。かの地は善を騙る悪。
それぞれ混合 やがて混沌
愛は悪に染まり 二度と見えることの無く
少女に愛を。願わくば、かの者との愛を。
少女が愛を。願わくば、かの地への愛を。
悪を信じ、愛を忘れ、憎しみに惑い、少女が恋す、哀しき男の話。
(イアン=アーポルト作 小夜乃月訳「願わくば愛を」<序章>より)
◆
かの者の命は、僅か数刻の間にかき消えた。胸当てに覆われた胸部を一瞬にして貫通したのは、鋭利なる長き爪。その爪の主である人の二倍の身丈程の怪物は、ややあって自らが置かれている状況を悟ると、大地をも劈く程の哀しき巨大な叫びを上げた。
水瓶は割れ、水が辺りに飛び散る。硝子も粉々に四散し、怪物の身体を襲った。そして一つの硝子片で怪物は深手を負い、到頭怪物は叫び止めたかと思うと、その巨大な身体を地に横たえさせた。
微かばかり液体が真珠の様な白い目から流れ、地に浸みて行く。それが何なのか怪物には全く解せぬまま、彼は静かに閉目しやがて、命を引き取った。
◆
ゲールワリナの魔女だ。悪しき魔女どもが、我々の祖国を脅かし、そして侵略した! 魔女に支配されたロマナの帝国は小国の平穏を次々と破壊して、やがて世界には怒りと憎しみ、悲しみのみが残った。償うべきなのだ。ロマナ帝国の魔女、ひいては魔女人種は、その命を以てして、我々に償うべきなのだっ! いざ復讐の時である。立て! さあ、我らの国を取り戻すぞッ!!
(紀元前2年 9月11日 ロマナ帝国領ガールヘムの演説にて)
◆
王室を護衛する守衛達に険悪な目で見守られながら、かの者は真緋の絨毯を独歩した。心中では不快に思いながらも、かの者はそれを一欠片も表情に出さず、そして長い絨毯の前端部分にてようやく歩みを止めたかと思うと、玉座に座り込んでいる白髪の老人の下へと、一人跪いた。
かの者の名は、ウィストンソン=リオン。かつて祖国を守った英雄の息子。
「サー・ウィストンの息子、ウィストンソン=リオン。ただいま参上致しました」
男気の溢れる声音が広い王室に響き渡った。老人はその声を聞き、ようやく彼をウィストンソンと認め小さく頷いた。
「イリアス国王のフェリックス=カークが、そなたをここにサー・ウィストンソン=リオンと認める。して、そなたに発言を許そう、サー・ウィストンソン……。守衛達、人払いを」
「は、ありがたき幸せ」
国王フィリックスが手で一度拍を打つと、十数人にも渡る守衛達はぞろぞろと階段を下り始めた。守衛に見張られていたからかウィストンソンにはやや窮屈にも感じた王室が、次第に広がって行く。到頭王室から守衛が居なくなると、其処にはまるでやや横広の誰も居ない廊下の様な虚しさが生まれていた。フィリックスは再び口を開き、神妙な様子で声を発した。
「よくぞ参った、サー・ウィストンソン。任務は上々であったか?」
「御意。確と遂行致しました。山賊の各拠点は壊滅状態で、追ってジェネラル・ウィリアムスが本部強襲制圧部隊を編成中であります。今にも商人達は山賊から悩まされることも無くなるでしょう」
「うむ、よくぞやってくれた。後々二人に報酬を与えよう。そなたは一等士官であったな?」
「肯定であります」
「ならば今度は三等将軍か。速いな。恐らく最年少であろう……良かったな」
「は、よもや国王様に褒賞を頂き、至福であります」
「して、サー・ウィストンソン。またそなたに新たな任務を与えたいのだが、良いか?」
「肯定であります。なんでしょう?」
会話の糸が切れた。フィリックスは気難しげな様子で眉を顰めながら、厚い目蓋を閉じる。頭を伏せているウィリアムスには老いた国王の表情は見えなかったが、変化した王室の空気だけは確かに感じ取っていた。悪い予感がしていた。危険な任務を与えられ、我が身を死に墜とされるよりも、尚悪い予感が。
「サー・ウィストンソン。恐らく、君に与えるべきでは無いのかもしれない。だが、君に与えなければ、君に悪いような気がしたのだ……許してくれ」
「……」
発言の意図を掴めずに困惑し、彼は口を閉ざしたまま、フィリックスの次なる勅語を待った。フィリックスもまた再び発言に間を置き、王室には暫くの間沈黙が保たれた。
静寂が始まりて後、ややあってウィストンソンは顔を上げ、その目線を王へと注ぎ込んだ。フィリックスは深く思案しているかの様に、再び目蓋を閉じている。
カチャリ、とウィストンソンの纏う鎧が音を立てた。彼が姿勢を取り直したからであった。その音を合図にフィリックスは漸く瞳を開き、そしてやっと開口した。
「サー・ウィストン=リオン。そなたに、アンフォート領主、ドゥークー・ウィストンソン=リオンの暗殺を命ず。期限は一ヶ月。自らの兵員及び、こちからも兵を出そう。確実に遂行せよ」
ロマナ帝国滅亡から1459年5月ヶ月後、長きに渡った冬により降り続けていた雪が融け、うららかなる風が地を吹いていた春の頃。それは、アンフォート城の激戦の始まる僅か一ヶ月前のことであった。