夜とメイドと黒猫
薄暗くなってきた作業場にランプを灯し、私は夕食の支度にとりかかりました。私は料理人ではありませんので貴族の方が普段召し上がるような食事を作る事はできませんが、家庭料理の範囲ならば心得がございます。
昼間の間に買い込んでおいた肉と野菜を煮込んだシチューと、サンドラさんにいただいたパンを温め直しまして夕食を取りました。
椅子がまだありませんのでベッドで召し上がっていただきます。
「美味しいー、アリアは料理も上手だね」
「ありがとうございます。お口に合ってよかったです」
チトセ様たっての御希望により、恐れながら私も食卓を御一緒する事となりました。
「誰かと一緒に食べた方が美味しいから」
「そうなのですか?」
よくわかりません。味見をした時とさして変化はないと思うのですが。
けれど「美味しい」と、とろけるような笑顔を浮かべてくださるチトセ様のお顔を見る事ができるのは、食事よりも胸が満ち足りる心地なのは確かです。
食事を終えると、チトセ様は私の手を取り、こう仰ってくださいました。
「……本当に、アリアがいてくれてよかった。私ひとりじゃ、どうしていいのかわからなかったもの。最悪、あの森で死んでたかもしれない……本当に、ありがとう」
「そんな……もったいないお言葉です」
どれだけ言っても足りないよ、チトセ様は首を振ります。
「アリアがどうして私のメイドになってくれたのか、どれだけ考えてもピンとこないけど……でも、こうやって助けてもらって、傍にいてくれて、本当に嬉しいから。だから、私、頑張るね。アリアに支えてもらった分を返せるように、アリアの自慢のご主人様になれるように!」
ああ……まっすぐに私の目を見て仰ってくださるチトセ様のお顔の、なんと高貴な事。
やはり、貴女は尊いお方。
異世界という遠い地から招かれた至宝。
「そうだ、工房の名前! 考えたんだ!」
「……お伺いしてもよろしいですか?」
「もちろん! とても遠い異世界の技術を、ずーっと先まで続くように伝えていきたいから……『ハルカ工房』にしようと思うの」
「『ハルカ工房』……素敵なお名前です」
* * *
夜も更けて、チトセ様が熟睡なさった頃を見計らい、私はそっと裏口から井戸の広場へと出ました。
月と星が輝く空。
とても明るい夜です。これを動きやすいとするか、動きにくいとするかは、人によって違う所でしょう。
長鉢荘は区画の三方を長屋で囲み、残り一方は水場用の小さな家と柵によって塞がれ、視界は生い茂った木によって遮られます。
まさしく、鉢の底。
長鉢荘の住人にさえ注意すれば、誰かに見られる心配が無い。これはとてもありがたい事です。
魔力を己の眼球へ、“起”の律から始め、“強化”と“通過”を繰り返してパターンとする。
体に染みついて、もはや詠唱もいらなくなった透視の魔法。
長鉢荘の住人の方々は、チトセ様を含めて皆さん眠っていらっしゃるのが見えます。
この瞬間、私を見ている者は誰もいないということです。
裾を蹴らないようスカートを軽くつまみ上げ、片足を軸にくるりと回り、もう片方の足先で“円”を描きます。
パターンは、使い魔の召喚。
「おいで、影猫」
描いた円の中、スカートの影から漆黒の猫が何匹も何匹も出てきます。
私の使い魔。
従順な影の猫達。
メイドとして勤め始めてからはもっぱらネズミ駆除に使っていましたが、久しぶりに本来の使い方をする時が来たようです。
「お話をたくさん聞いておいで。見かけたネズミは好きに食べて構わないわ」
情報は重要なのです。欠かさず集めておきましょう。
ミャアミャアと走り去っていく影猫達を見送り、寝室へ戻ります。
明日からは、いよいよチトセ様が紡ぎ士として働き始めるのです。
気を引き締めてまいりましょう。
序章はここまでです。
ゆるいペースで投稿できればと思います