乙女ゲームのヒロインに転生したと思い込んでいる悪役令嬢vs悪役令嬢が起こす悲劇を防ぎたい転生ヒロインvs婚約破棄をしたい王太子
「これはヒロインの顔ですわ……」
寝室の鏡に映る己の顔をベタベタの両手で触り、柔らかな茶髪を指で摘む少女。
寝間着姿ではあるものの、可愛らしい容姿は損なわれることはなかった。
その可憐な容姿を損なう要因はただ一つ。
桜色の口から飛び出した残念な台詞である。
「トラックに轢かれて、まさか乙女ゲームの世界に転生するとは思わなかったなあ」
整った顔を目前とし、現実として受け入れた彼女はニマニマと笑う。
きゃいきゃいと彼女がはしゃぐのも無理はない。
ここは魔法と剣が支配する異世界が舞台となった乙女ゲーム『プリズム・ファンタズマ』なのだから。
そして、鏡の前でかれこれ数十分ほど悦に浸っている彼女は、登場人物の悪役令嬢こと公爵令嬢クレアである。
だが、悲しきかな。
クレアの中身、というか数時間前に前世の記憶を思い出してしまった彼女は、己の運命を知らない。
何故なら彼女はーー、
「それにしても、どの乙女ゲームに転生したのかな? 三本ほど積んでいたから、その中のどれかだとは思うんだけど……」
中学を卒業し、春休みに消化するはずだった積みゲーに手をつける前に異世界転生を果たしてしまったのだから。
事前情報もなしに転生したとなれば、常人なら慌てふためくところだが、クレアは違う。
「まだ見ぬ攻略対象と親睦を深めるっていうのも楽しそうね!」
好奇心を刺激する未知に対して、期待に胸を高鳴らせていた。
性格はかなり前世に引っ張られ、悪役令嬢としての傲慢さや見栄っ張りはすっかり鳴りを潜めている。
そして、これは実に驚くべき事だが、彼女は本気で自分こそが乙女ゲームのヒロインだと思っている。
常人ならば、異世界という事実に気を取られて、そこがゲームの世界だと思うはずもないのだが、クレアの中身は思い込みが激しい人物だった。
前世でも、『テスト用紙に名前を書き忘れる』など日常茶飯事。友人から呆れた顔で見られたことは数知れず。馬鹿は死ぬまで治らないと陰口を叩かれたこともある。
死ぬ直前に愛読していた漫画が『ゲーム内のヒロインに転生して悲劇を回避する恋愛もの』の影響を強く受けていた。
死んだところで馬鹿は治らなかった模様。
「攻略対象たちに幻滅されないように、ヒロインとして自分をしっかりと磨かなくっちゃ!」
彼女の致命的なズレを指摘する人間など、この場にいるはずもない。
こうして、『乙女ゲームのヒロインに転生したと思い込んでいる悪役令嬢』(中身はアホの子)が誕生してしまったのである。
時を同じくして。
ここは伯爵家の屋敷。
「これは、ヒロインの顔だわ」
場所は違えど、クレアと同じように前世の記憶を思い出した人物がいる。
それが、『プリズム・ファンタズマ』のヒロインことセシルである。
王色たる銀髪に、母親譲りの紫瞳でキョロキョロと自分の身体を見回す。
「まさかセシルちゃんに転生しちゃうなんて……!」
そして、セシルの前世はゲームをクリアした人物であった。
「見た感じ、ゲームが始まる一年前ってところかしら。各イベントが始まる前でもあるわね」
最ものめり込んだゲームでもあったが故に、思い入れも深く、この先の起こるはずだった展開を知っている。
彼女はいわゆる『箱推し』と呼ばれる類のオタクで、分かりやすく言うならば、登場人物全員を平等に愛していた。
だからこそ、これから起こる悲劇を防ぎ、愛する人たちの笑顔を守りたいと思うのは必然の理。
「クレアの凶行を阻止しないと」
だが、悲しきかな。
セシルは悪役令嬢の中身もまた転生していることを知る由もない。
ましてや、中身がアホの子であることも知らず、健気にこれから起こるはずだった悲劇を阻止するべく、奮起する。
こうして、『前世を思い出した乙女ゲームのヒロイン』が誕生したのであった。
はたまた、時を同じくして。
場所は王宮。
「クレアの我儘放題には困ったものですね。彼女に王太子妃が務まるとは到底思えない……」
与えられた一室で、王太子ギルバートが険しい表情で紅茶が注がれたカップをソーサーに戻す。
王色の銀髪に一房の赤い髪が混じり、瞳は夜の空のように深い。
整った顔立ちに憂いを帯びた表情は神秘的な雰囲気を醸し出していた。
彼の目下の悩みの種は婚約者クレアのことだった。
口を開けば我儘と不平不満、浪費家で湯水のように資産を食い潰そうとする勢いで贈り物を要求してきた彼女に、倹約家のギルバートは眉をひそめていた。
国王である父が決めた婚約者ということで耐えていたが、クレアの態度は改善する気配はなく、むしろ悪化するばかり。
「婚約破棄も検討するべきか」
ギルバートは冷たい声音で決断を下し、忠臣たちに命令を与える。
「学園生活で必ずクレアは僕が接触する令嬢に嫌がらせをする。その証拠と目撃者を確保してくれ!」
ギルバートの見立ては正しかった。
ただ一つ。大きな誤算を除いて。
学園で彼が目をつけることになる伯爵令嬢の中身が転生しているとは思いもしなかった。
付け加えるなら、婚約者の公爵令嬢が一夜にしてアホの子に成り果てる可能性だけは考慮できなかった。
神童と持て囃された王太子の天才的な頭脳を持ってしても、これから起こることを予想するのは不可能だったのだ。
◇◆◇◆
クレアとセシルは弛まぬ努力を積み重ねた。
遊びを封印し、理想の自分を追い求めて魔法の腕を磨き、周囲の人間から『この国にお嬢様と並ぶ者はいない』とまで言わしめ、満を辞して屋敷から送り出された。
そうして二人はゲームの舞台となる学園の入学試験を受けに来たのだ。
クレアはまだ見ぬ攻略対象に胸をときめかせ、セシルは悪役令嬢のメンタルを完膚なきまでに叩き潰すために。
王太子はより良い未来のために婚約破棄を目的に。
各々の思いを秘めたまま、三者は邂逅。
(まあ、いかにも王子様ね。攻略対象かしら? あの綺麗な女の子は悪役令嬢ってところ? まあ、負けないように頑張らないと!)
脳内お花畑のクレアはめくるめく恋愛劇を妄想して頰を赤らめた。
(この女が、悪役令嬢クレア! 王太子の暗殺未遂までゆくゆくは企てる稀代の悪女……ッ!!)
セシルは額に青筋を立ててクレアを睨みつける。
(な、なんだ……この異様な雰囲気は……ッ!?)
空気を読むことに長けた王太子だけが、セシルからクレアに向けて放たれる濃密な殺気を感知。冷や汗が頰を伝い落ちる。側に控えていた護衛が目を鋭くしている。
永遠に続くかと思われた静寂は、セシルによって破られた。
「クレア……このセシル男爵令嬢が直々に貴女に決闘を申し込むわッ!!」
ばしん、と白のレース手袋がクレアの足元に叩きつけられる。
凛とした声音で申し込まれた決闘。
その場にいた生徒たちが一斉にどよめく。
貴族の令嬢であるならば淑女であるべきとの常識に支配された世界で、令嬢が令嬢に決闘を申し込むなど前代未聞。
ましてや、家柄が下である男爵家の令嬢が、家系を辿れば王家にまで繋がる公爵家の令嬢に決闘を申し込んだという異例な事態。
まともな令嬢であれば、多少強引であったとしても『あらあら、お戯れを……おほほほ』と乗り切ったであろう。
だが、しかし。
不幸なことに、クレアの中身はまともではなかった。
「──まあ、面白いわ。あなた、私が好きなタイプの悪役令嬢ね。いえ、強敵令嬢と言うべきかしら? その決闘、受けて立ちますわ」
己を乙女ゲームのヒロインに転生したと思い込んでいる悪役令嬢
悲劇を阻止するべく、悪役令嬢のプライドをへし折るために決闘を挑んだヒロイン
そして、悪役令嬢との婚約破棄を狙う王太子。
「では、行きますわよっ!」
「ええ、来なさい! 公爵家の力、その身でとくと味わうがいいわっ!!」
クレアとセシルがぶつかり合ったその時、悲劇は起きた。
クレアはヒロインに相応しいスペックを手に入れるべく、研鑽を惜しまなかった。
セシルは悲劇を防ぐために魔力を極限まで高めた。
濃密な魔力はぶつかり合い、周囲を余波で薙ぎ倒す。
もし、ギルバードが咄嗟に防壁を張らなければ、怪我人が出ていたであろう威力。
一度のぶつかり合いでは両者とも満足せず、周囲の悲鳴すら置き去りにして魔力を放出。
「二人とも、もうやめるんだあっ!!!!」
いかな王太子といえども人の子。
戦いに全神経を向けている女の子二人を声だけで振り向かせることはできなかった。
そして。
校舎は高濃度の魔力に耐えきれずに崩壊した。
このあと三人は揃って国外追放されました⭐︎