ロマンティック蟻地獄
くらいくらい 土のなか
女王アリは こどもを 産みました
こどもたちは 働きアリとして 巣から 旅立ちます
「いきなり 外に出るのは キケンだよ さいしょは れんしゅうしてごらん」
お母様の いうことは さすがだなあ
関心した 働きアリたちは 家のちかくで エモノをかる れんしゅうをしました
しかし なんびきかの 働きアリたちは かえってきません
にんげんの おおきな足に ふまれてしまったのです
「よく帰ってきたな このちょうしで たくさんのエモノを とってこい」
女王アリは 帰ってきた働きアリに こう言いました
働きアリたちは 女王アリに ほめてもらおうと がんばります
ある働きアリは しんちょうに しんちょうに エモノを たくさん とってきました
とちゅう 働きアリは たくさんの こんなんを 乗り越えてきました
にんげん ちょうちょ やもり……
「どうして みんな わたしのじゃまを するのかなあ」
そうして 一人前に なるころ 働きアリは 大きなどうくつを 見つけました
その奥には きらりとひかる エモノが あるみたい
よおし、とおもったしゅんかん 働きアリは まっさかさま
どうやら ありじごくに おちてしまったようです
「あーあ もっと お母様に ほめられたかったなあ」
いっぴきの働きアリは くらいくらい 穴の中へ おちていきました
そのころ 女王アリは いちばん可愛がっていた働きアリが 帰ってこないことに 不安で 眠れませんでした
しばらくして 女王アリは 風のうわさで 働きアリが 死んでしまったことを 知りました
「わたしのために 命をおとすなんて なんと愛しいのだろう」
女王アリは くらいくらい 巣の中で 泣きました
おちこんで ごはんを食べなかった 女王アリは 後を追うように ぐったりと 命を 落としました
僕の初恋だった。長い綺麗な髪、皴のない制服、すれ違ったときのみずみずしい香り。なにより一番好きだったのは、彼女の笑顔だ。
クラスで目立つタイプではない彼女を、いつしか目で追うようになったのには理由がある。うちのクラスの日誌には、最近のマイブームを書く欄がある。僕が日直で日誌を書いたとき、マイブームが特に思い付かなかったので、最近読んだカフカの「変身」の感想を書いた。担任のコメントは非常に淡白なもので、読書家の僕を傷つけた。しかし、彼女が日誌を書いた際、こんなことを書いていたのだ。
「私は、最近読書がマイブームです。フランツ・カフカの作品は、大変好みで全て読みました」
これは、僕に対する好意の表れではないかと思った。同じ作者が好きと言うことで、僕に告白をしたのではないか、と思ったのだ。
そんな恥ずかしがり屋な彼女を毎日眺めた。いつか、彼女が勇気を出して告白する日を待って。その気持ちは次第に加速し、僕は彼女へカメラを向けるようになった。写真部で貸し出されているカメラは、小遣いでは到底買えないような値段のものだ。写りが大変良く、シャッター音も響かない。僕はあらゆる場面で彼女を被写体にした。部での活躍はたかが知れているが、彼女を撮った写真はコンクール大賞ものではないかと、自画自賛してしまう。それほど、シャッター越しでも彼女は美しかった。自宅で写真を印刷し、家で眺めることが僕の本当のマイブームかもしれない。
そんな生活をしている中、気付くことがあった。彼女の隣には、いつも特定の女子がいる。同じクラスの渡辺歩泉だ。交流の少ない彼女に対し、渡辺さんは女子とも男子とも話す機会が多いような生徒である。いや、話すというよりは、一方的に話しかけられることが多いような、おっとりとした人気者だ。そんな渡辺さんと彼女が、よく一緒にいるのはなぜだろう。釣り合っていないように見える。
けれど、二人はなんだか似ているような、いや同じ気がする。それは見た目の話だ。長い髪、スカートの丈、持ち物。それらが全て同じに見えた。クラスの中には、それを気味悪がっている人も少数いたが、僕はそれをあまり気にしていなかった。それほどに二人は仲が良いのだろうと思っていたからだ。
そんな彼女を眺めている間、渡辺さんはほとんど彼女の隣にいて、困ったことに僕と目が合う。まいったな、と思った。僕が見つめているのは彼女なのに、渡辺さんに何か勘違いをさせてしまってないだろうか。そう悩んでいた矢先、渡辺さんに呼び出された。
渡辺さんは、美術準備室にするりと入り、僕もついていくと音を立てないように鍵を閉めた。
「ごめんね、こんなところに呼び出して。ここだと人も来ないからいいかなって」
人がいるところでできない話ってなんだろう。やはり、告白ではないだろうか。僕はどう断ろうか、必死に頭を巡らせる。
「実は、岡野くんに頼みがあるの。これ見て、感想をくれないかな」
渡辺さんは、一冊の本を差し出した。中をぺらぺらと捲る。
「これ、絵本……?」
「そう。あのね、私が作ったの。恥ずかしいから、誰にも言わないでね」
「えっ! 渡辺さんが? すごいね」
渡辺さんは、一歩引き、手をバタバタさせて照れる。その愛らしい少女の姿に、何かが込みあげてくるような感覚があった。
「読んでみてくれないかな? 一応、絵も文章も私が考えて作ったんだけど、自信がなくて」
「わかったよ。読んでみる。けど、何で僕? 絵本のことは何もわからないけど……」
「日誌に書いてあったでしょう。カフカが好きなんだって? 私も好きなんだ」
「ああ、そうなんだ。でもあれは……」
彼女が今ハマっているものではなかったのか。そんな疑問を察したのか、渡辺さんはこう口を開いた。
「今ね、カフカが面白いよーって、いろんな人にオススメしてるの。でもね、わかってくれる人少なくて。カフカのことが好きな岡野くんなら、私の作った絵本も理解してくれるかなって」
なるほど。彼女に薦めたのも、渡辺さんだったということか。となると、彼女の僕への好意は幻想だったのだろうか。いや、しかし……。
ぼんやりと考える僕を不安そうに見つめる。現実世界に引き戻され、今は仕方なく手に持っている興味のない本を開く。
絵は絵の具で描かれており、繊細なタッチだ。しかしそれとは裏腹に、物語の内容は暗い雰囲気のストーリーである。「蟻」をモチーフにしたこの絵本を、普段おっとりしている雰囲気の渡辺さんが書いたと思えないくらいだ。
絵本をぱたんと閉じる。渡辺さんは、心配そうに上目遣いで見つめる。
「どう……かな? 変じゃない?」
「変じゃないよ。絵、初めて見たけど凄く上手だね。さすが美術部って感じ」
「うん、ありがとう。あのさ、ストーリーはどうかな?」
正直、後味の悪い展開だと思った。女王アリのために危険を犯す、働きアリ。そんな働きアリが死んで幕を引くラストは、子ども向けではないだろう。しかし、絵本の専門家でもない僕に、意見を言う勇気なんてない。僕は、思ってもないセリフを言う。
「他にはないような物語で面白いんじゃないかな。いい作品だと思うよ」
「そっか。やっぱり岡野くんに見せてよかった」
渡辺さんの笑顔は、彼女の笑顔とは違う可愛らしい魅力があった。顔立ちは彼女よりもぼんやりとしているが、それも一つの個性のように思える。僕は今まで夢中になっていた彼女のことは、とっくに忘れてしまった。
それから渡辺さんとは、よく話すようになった。しかし、いつも話すのはこの美術準備室の中だけだ。どうしてかと尋ねると、みんなに話すところを見られるのが恥ずかしいと言う。けれど、渡辺さんは他の男子とは教室でも話すじゃないか。不満で仕方ないという態度の僕に、
「岡野くんは、クラスの男子とは違うんだよ」
と微笑み返された。頬を染めながら言う渡辺さんが、可愛くて可愛くてどうにかなりそうだった。
二人きりで会う美術準備室では、渡辺さんが絵を描き、僕は隣で本を読んでいることが多かった。会話はないけれど、居心地が良かった。だが、どうしても拭いきれない不穏な気持ちがある。それは、渡辺さんの作風についてだ。渡辺さんは「女王アリと働きアリ」の作品以外にも、僕に絵本の下書き、いわゆるプロットというものを見せてきた。プロットでも、やはりバッドエンドの作品ばかりだった。渡辺さんの笑顔の奥にはどんな世界が広がっているのだろう。僕はその世界を、絵本を通じて覗いていることになるのだろうか。いつしか渡辺さんの闇を救ってあげたいと思うようになってきた。
「渡辺さんってさ、悩みとかないの?」
「どうしたの、急に」
筆を止め、こちらをくるりと振り返る。その表情は、夕日で影が差している。
「えーっと、ふと思ったというか、なんというか」
渡辺さんがぷっと噴き出す。
「なあに、それ。もちろんあるよ。テストの点数が悪くて親に怒られたとか、大学受験のこと考えなきゃとか、友達と喧嘩したとかね」
渡辺さんでも友達と喧嘩することあるんだと、少し驚いた。いつもにこにこしていて、周りに人が絶えないような渡辺さんが、喧嘩をすることがあるなんて。
「彼女とも喧嘩するの?」
渡辺さんと最も仲の良い彼女の名前を挙げた。
「どうして?」
筆を止め、こちらを振り返る。逆光で、顔が暗いため表情が読み取れない。
「えっと、二人とも仲が良さそうだけど、全然タイプが違うって思って。ほら、二人とも髪型とかは似てるけど、性格がさ……」
「それ、岡野くんに関係ある?」
そう言ってすぐに絵の方を向いた。何故だかわからないが、そのときの横顔はひどく恐ろしいものに見えた。
そのとき、バイブレーションが渡辺さんのポケットに響く。僕に一言謝り、電話に出る。電話の相手は分からないが、渡辺さんがどうやら困惑しているようだ。
電話を切り、僕の顔を見る。どうしたの、と声を掛けようとした瞬間、渡辺さんが僕に抱き着いてきた。固まっていると、後ろからすすり泣くような声が聞こえる。渡辺さんはどうやら泣いている様だった。
「あのね、コンクール受賞したみたい!」
渡辺さんの体が僕から離れていく。名残惜しい気持ちを抑え、お祝いの言葉をかける。
「すごいね! 僕に見せてくれたやつ?」
「そう、「蟻」の話……岡野くんに見せてから自信がついて、すぐにコンクールに応募したの。岡野くんのお陰だよ。本当にありがとう」
渡辺さんが、涙を指で救う。僕はなんだか扇情的な気持ちになって、思わず目を逸らす。
「そんな、僕は何もしてないよ。渡辺さんの実力だよ」
ありがとう、と繰り返し言う渡辺さんに、何もしていない僕は何だか誇らしげな気分になった。
ある日、カメラを見せてくれない、と渡辺さんに言われた。写真部の僕が、どんな写真を撮るのが気になるのだそうだ。すっかり使わなくなったカメラは、いつも通学用の鞄に入れてある。が、データが残ったままである。鞄には入ってるんだけど、また今度いい写真が撮れたら見せるよ、と嘘を付いた。彼女の写真を見たら、渡辺さんが嫉妬してしまうに違いない。今日は帰ったらデータを消そう、と頭の中にメモをする。
「じゃあ、カメラはいいから、今日一緒に帰らない?」
渡辺さんはカメラを随分見たがっていたが、一緒に下校することを条件に引き下がった。僕たちは教室で話さないことに加え、一緒に下校したこともなかった。美術準備室には下校時刻ギリギリまでいるのだが、渡辺さんは、鍵を職員室に返すから先に帰っててね、といって聞かないのだ。暗い道を女の子一人で歩かせたくないが、きっと別で帰るのも、僕が他の男子とは違うからだと思う。
そんな渡辺さんからのお誘いである。これから何が起きるのだろうとわくわくしながら、職員室から帰ってくる渡辺さんを待った。先に校門前で待っていたが、渡辺さんが来る気配は一向にやってこない。下校時刻を十分も過ぎ、辺りに生徒がいなくなった。一旦校内に引き返そうと思っていたら、渡辺さんが小走りで来た。
「ごめんね、先生と話してたら遅くなっちゃった」
少し息を切らしながらこちらに駆け寄ってくる渡辺さんが、小動物のようで愛らしかった。寒かったでしょ、と心配そうに見つめる渡辺さんの耳は赤い。僕に、はい、と缶を手渡す。中身はココアのようだ。
「え、いいの? ありがとう!」
女子から何かを貰うことが初めてだった僕は、舞い上がりそうな気分だった。ココアを大事に両手で包み、缶を開けて飲む。今まで飲んだココアの中で、一番甘くて美味しかった。
渡辺さんが、くしゅんと小さくくしゃみをする。風邪を引かせてしまってはいけないから、早く帰ろう。本当は寄り道の一つでもしたかったが。
二人で誰もいない道を歩く。外で待っていた時間が長かったので、体が小刻みに震える。
「あのさ、ちょっと寄り道していかない?」
遠のきそうなくらいの寒さの中、思ってもみない誘いがあった。きっと、告白に違いない。ようやく僕に告白する気になったのだ。毛糸の手袋をした渡辺さんが指を差したのは、県と県とを繋ぐ橋の下だった。橋の下には、川が流れている。
「あそこにね、猫が住んでるんだよ。たまに餌をあげてるの」
「へえ。僕、猫好きだな」
「それならよかった」
快く了承し、橋の下に向かう。長く手入れされてない草が、脚に纏わりついて鬱陶しい。辺りに街灯はなく、すっかりと夜になっていた。帰ったら親に怒られるかもしれない。
「あっ、いた。ほら、猫ちゃんだよ」
渡辺さんが小走りで駆け寄るが、暗くて見えない。近づいてみると、ひいっという微かな悲鳴が出た。僕の声だったのだろうか。渡辺さんが撫でていたのは、眼球の飛び出た猫の死体だったのだ。
「何をしてるんだ!」
という言葉を発したのか発さなかったのかわからないまま、僕は床に倒れ込んだ。何故か、急に眠くなってきたのだ。意識を失う寸前、僕は渡辺さんの微笑みと、こんな呟きが聞こえたのである。
「いきなり外に出るのはキケンだよ。さいしょは、れんしゅうしてごらん」
それが幻聴だったのか、未だにわからない。視力も聴覚も失われる中、最後に覚えているのは、川が流れる音と、目の前を歩く一匹の蟻の姿だった。
窓から日が差し込む、穏やかな午後であった。今日は結婚記念日なので、早く仕事を終わらせたい。しかし、目の前にいる人物の思考は働いていないらしい。私はこちら側に呼び戻すべく、手を伸ばす。
「先生……先生ってば。起きてくださいよ」
体を揺さぶられ、ようやく起きる。ふわふわとした猫っ毛が、ゆらゆらと動く。
「うーん、良く寝た。透さん、おはようございます」
「おはようございます、じゃなくて。起きて、仕事してくださいね」
「えへへ、はーい」
「透さん、今日結婚記念日なんだって。だから早く帰してあげなよ、ほずみん」
「笹野さん! ちょっと、なんで知って……」
「えっ! 早く言ってくださいよ。そしたら、急いで仕上げますから」
「急ぐのはいいけど、丁寧にお願いしますね」
先生こと、渡辺歩泉は、私が担当している絵本作家の一人である。高校一年生のときに受賞した「ロマンティックなありじごく」という作品で、絵本作家デビューを果たしている。当時最年少であることと、ブラックユーモアな作風はメディアや読者に受け、高い評価を受けている若手作家だ。
自宅兼作業部屋では、アシスタントの笹野さんと二人で作業している。現在では、絵本製作以外にも、エッセイやコラムなど、いくつもの連載を抱えている。その多忙な生活には同情するが、こうして居眠りをすることが何回もあり、用事がなくとも作業部屋に寄ることにしているのだ。
だが、今日は違う。雑誌に連載中の絵日記企画を回収しにきたのだ。絵が一枚、それにまつわる日記が一枚と、そこまで大きな仕事ではないが、如何せん筆が遅いのだ。その代わり、作品を完璧に仕上げる。編集の仕事を十五年近く続けてきて、こんなにダメ出しをすることが少ない作家は滅多にいない。
「透さん、結婚何周年でしたっけ?」
「五年目だよ。先生、結婚式にも行ったでしょう」
「あのとき徹夜明けだったから、あんまり覚えてないんですよねえー」
「先生、透さんのウエディングドレス姿見たんだ! どうだった?」
「すっごく綺麗でしたよ! しかも、旦那さんイケメンだし! 刑事さんなんですっけ?」
「そう、刑事……って、口を動かさないで手を動かしてくださいね」
結局完成した原稿を受け取るのに、日が暮れてしまった。旦那はまだ帰宅していないらしい。
私は自宅のソファに座り、ため息をつく。渡辺先生と会うのは、どうしてこんなに疲れるのだろう。ひと回り以上も年の差があるからだろうか。いや、違う。この違和感は、出会った七年前までさかのぼらないといけない。そして、この違和感が一生なくなることはないのだろう。
七年前、うちの出版社で行われた「第六三回現栄社絵本コンテスト」で、渡辺歩泉の作品は最終選考に残った。通常、最後の選考は上層部の役員のみで行われるのだが、かなり意見が割れていたため、当時はまだ新人の私でも作品を読む機会があった。最初に読んだとき、あっけなく終わるラストにこれで最終選考に残れるのか、と疑問を思った。だが、ポップな絵柄とハードな内容のミスマッチ具合は、審査員に受けていた。結果、大賞に選ばれデビューするのだが、なんと担当編集を私に指名してきたのだ。実際には名指しされたわけではなく、女性の、若い人がいいという渡辺の依頼だった。確かに、高校一年生のまだバイトもしたことがないような年齢では、心細いからだろう。編集部の女性で一番若かったのは私だったので、それから七年間担当を続けていることになる。
「どうぞ、あがってください。お茶を入れますね」
渡辺の部屋は質素だった。話を聞くと、両親は離婚していて、母親と一緒に暮らしているらしい。その母親も仕事が多忙であり、家に帰って来ることはほとんどないそうだ。
渡辺がお茶を置く。礼を言い、鞄の中から書類を取り出す。
「まず、契約のことなんですが……」
「あの、すみません。一ついいですか。絵本の、題名のことなんですけど」
「題名? それがどうかしましたか?」
「あの、変更することってできますか?」
「ええ、それは大丈夫ですよ。なんて変更したいんですか?」
「ロマンティックなありじごく、です。ロマンティックはカタカナで、蟻地獄はひらがな……」
渡辺が俯きながら言う。渡辺の家庭環境のこともあり、仕事面ではなんとか私が支えてあげようと思っていた。私は安心させるように言う。
「コンクール受賞作で題名を変更することはよくありますよ。ちなみに、どんな意味なんでしょうか?」
「ロマンティック蟻地獄は、心理学の用語です。簡単に言うと、共依存の関係を意味しています。相手の願いを叶えるために、自らを犠牲にすること……それが、「ロマンティック蟻地獄」です」
あの作品から、共依存が関係してくることまではわからなかった。同時に、そこまで深く考えていた渡辺に脱帽した。私はこのとき、彼女は大物になるに違いないと本気で思っていた。実際、七年経った今でもうちの出版社の稼ぎ頭である。出会った当初は渡辺を尊敬していたし、期待していた。それが一転する機会が訪れたのは、「ロマンティックなありじごく」が発売されて一か月後のことだった。
渡辺のデビュー作は驚異的なヒットをし、学生ながらもうちの出版社専属の作家となった。二作目の話が進んでおり、その報告に自宅へと向かった。
「先生?」
チャイムを鳴らしても物音一つしない。約束の時間通りに来たのにおかしいな、と思っていると、部屋の中で何かが倒れるような大きな音がした。何かあったのかと思い、ドアと叩く。名前を呼びながら、ドアノブに手をかける。すると、鍵は開いていて、中に誰かがいる様だった。急いで部屋の中に入った途端、ものすごい匂いがする。目が痛み、涙が出る。ハンカチで顔を抑えながら窓を開ける。どうやら、匂いのもとは洗面所らしい。
洗面所の扉を開けると、風呂場で渡辺が倒れていた。
「先生、先生!」
肩を揺すりながら叫ぶと、渡辺はせき込みながら目を覚ます。
「先生、よかった……今救急車を」
「呼ばないで……!」
意識を失っていたはずなのに、はっきりとした声で伝えてきた。一瞬躊躇ったが、それでも救急車を呼ぼうとした。しかし渡辺は、携帯を握る手を自分の震える手で阻止した。掴まれた私の腕は、家に帰ってからもはっきりと痕が残るくらいに赤く腫れていた。
「親に心配をかけたくないの。もう、大丈夫です……ごめんなさい」
ふらふらと立ち上がっているのを、呆気にとられながら見ていた。渡辺はキッチンで水を飲んでいるようだ。私は、風呂場に一人取り残された。あたりには、漂白剤と消毒液が転がっていた。
のちのち話を聞くと、風呂掃除をしていて洗剤と消毒液が混ざってしまったと、笑いながら説明した。
「だめですね、もっとしっかりしないと」
そんな風に笑って話す渡辺を、おかしいと思っていた。なぜなら、普段から家事をしている渡辺が、液体同士を混ぜると危険であることを知らないはずがなかった。さらに、匂いのもとを探す際、初めて入った渡辺の一人部屋には、科学の専門書や犯罪心理学の本などが並んでいた。このことが、さらに私を困惑させた。つまりあれは、意図的に渡辺が起こしたものなのではないかと思ったのだ。
漂白剤と消毒液を混ぜると何が発生するのか。インターネットで調べたらすぐに出てきた。小説やドラマなどでよく用いられる、クロロホルムというガスが発生するようだ。クロロホルムは、麻酔としても使用されることがあり、大量に吸い込むと目などに痛みが発生するらしい。そのため、私が渡辺を救助した際に感じていたあの痛みも、クロロホルムが発生していたためであろう。
問題なのは、渡辺が何のためにクロロホルムを発生させたか、ということだ。調べてみると、クロロホルム自体、大量に吸い込まないとフィクションのようにはならないらしい。科学の実験程度のような、少しの好奇心で行ったことならいいのかもしれない。けれど、それだけではないと私の勘が囁いているのは、刑事の妻だからだろうか。
旦那が帰ってきたのは、午後九時過ぎだった。五歳年上の旦那は、刑事課一係という部署で働いており、刑事事件の前線で働いている。定時なんてあってもないようなものだ。
「ごめん! 遅くなって……」
「おかえり、由伸さん。ご飯、温めるから手洗ってきてね」
申し訳なさそうにトボトボ歩く旦那を見て、普段この人はちゃんと事件を解決することができているのだろうかと少しおかしくなった。
なんだか今日という日に、渡辺のことを話してみたくなった。五年前の結婚式、旦那と渡辺はもちろん会っている。だが、会話どころか、お互い名前すら名乗っていないと記憶している。渡辺がいつも通り締め切りに追われて、疲労していたことも考えられるが、そもそも結婚式にはあまり興味がないように思えた。言い換えると、私自身にも興味がないのということだ。もっと言えば、渡辺はあまり人に興味がない。唯一の親交があるとするならば、自宅に住んでいる同級生だ。渡辺には自宅が二つある。今日行った自宅兼作業部屋は、クロロホルムが発生した実家である。それとは別に、寝泊まりをするマンションを構えており、そこで同級生と暮らしているらしい。最初に話を聞いたとき、恋人だろうかと思ったが、どうやら同性の友達らしい。
彼女と会ったことはない。渡辺は、彼女のことをあまり話したがらないのだ。アシスタントの笹野さんとはフランクに話し、かなり打ち解けているが、そんな人が彼女のことを聞いてもだんまりである。
クロロホルムの件といい、同居している彼女の件といい、私は渡辺の不気味で未知数な人格に、恐怖を抱いていた。しかしそんな気持ちを、由伸さんに打ち明けたことはない。結婚記念日には相応しくない話題かもしれないが、相談してみる価値はあるだろう。彼のほうが、何千人もの人と触れ合ってきたのだろうから。
夕飯が済み風呂から出ると、由伸さんが書類に向かって睨み付けていた。
「また仕事?」
「仕事ではないんだけど……ちょっとな」
手元にある資料を眺める。そこには、「第三正南高校生殺人事件」とある。
「なんだ、やっぱり仕事じゃん」
「これは趣味だよ。いくら自宅から近いと言っても管轄外だしな」
「そうなんだ。じゃあ、何で資料なんて見てるの?」
「個人的に気になるから、かな」
「ふうん……」
この事件のことは今でも覚えている。渡辺を気味悪がっている理由の一つでもあるからだ。「第三正南高校生殺人事件」で殺害された生徒は、渡辺が通う高校の同級生だったのだ。
私が渡辺の担当編集になってすぐ、この事件は起こった。親交を深めようと食事に誘った際、今からお葬式に行くんです、と断られたことがある。その亡くなった当事者が、この事件の被害者であったことをそのときは知らなかった。なぜならこの事件は、当初自殺と推定されていたからである。そのため、メディアでも大きく取り上げられることはなかった。
「高校一年生、自殺ではなく他殺か?」という新聞の小さな見出しを読んだとき、鳥肌が立った。本文はこのような内容だった。
「第三正南高校に通う高校一年生の岡野典之さんが亡くなった事件で、警察は当初自殺との見方だったが、殺人事件として捜査を見直す方針になった。岡野さんの体内から、有毒なガスであるクロロホルムが検出されたことが、捜査の変更に関係している」
最初は偶然だと思った。渡辺がお風呂場でクロロホルムを生成せていたこと、部屋に高校生には必要ないであろう専門書があったこと。そして、渡辺の同級生が亡くなったこと。この文面だけ見れば、渡辺が自宅でクロロホルムを作る実験をし、本で完全犯罪の勉強をして、同級生を殺した、と結びつけることができる。しかし、当時の私は見て見ぬふりをした。答えは簡単だ。殺されたくなかったからである。本当に渡辺がやったことなのであれば、私が由伸さんに話せば逮捕されるかもしれない。だが、告げ口したことはいずれ明るみに出るだろう。そうなったとき、告げ口したくらいで殺されるのであれば、何もしないのがマシだと思ったのだ。
このことを誰にも話していない。犯人は七年間、逃げ続けている。実は私の勘違いで、全て妄想かもしれない。でも、この同級生には罪悪感が少なからず存在する。いい加減、解放されたいと、渡辺に会うたびに考えてしまうのだ。
「犯人の目星が付きそうなんだよ」
「えっ?」
由伸さんの思わぬ言葉に、手に持っていたグラスが滑り落ちそうになる。
「同じクラスの女子生徒でね。殺された子は写真部だったんだけど、部のカメラは無くなっててさ。犯人が持ち出したみたいだ」
「カメラが見つかったの?」
「いや。けど、データが見つかったんだ。七年前、被害者が撮った写真」
由伸さんは何枚かの写真を見せてきた。そこには可愛らしい少女が写っていた。渡辺とは違う、はっきりとした顔立ちをしている。
「これ、隠し撮りみたいなんだよ。ほら、これとか」
渡してきたのは、女子生徒の着替え途中の写真だった。その生徒は、下着姿で写っている。
「遺族は、カメラが無くともデータが残ってることは知ってたみたいなんだ。けど、息子が盗撮してるなんて他人に知られたくないだろ? だから七年もかかっちまった」
なるほど。つまり、隠し撮りに気付いていた彼女が殺害したという訳か。私は長い間、勘違いをしていたらしい。どっと肩の荷が下りる気配がした。
それにしても、盗撮された彼女は高校一年生にしては大人びた表情をしている。こんな子がいたら、目を惹かれてしまうのも納得できる。下着姿の彼女は、ファッション雑誌の表紙のように美しい。他の写真と比べると、着替え中の写真は何だか華やかである。よく見ると、この写真だけ彼女は微笑んでいる。普段は無表情の彼女の笑顔を引き出すものはなんなのだろう。注意深く写真を見ると、隣にも着替え中の女子生徒が写っている。彼女にピントが写り、他の人物はぼやけてよく見えない。しかし、隣にいる女子生徒は、明らかにこちらを見ている気がする。カメラ目線なのだ。自分が盗撮していないのに、目が合ったようでぞっとした。もしや、盗撮に気が付いているのだろうか。私は、視野が反転するようなめまいがした。写真からは、クロロホルムの匂いすら感じる。盗撮に気付くような人物なんて、一人しかいないじゃないか。
「ただ、この女子生徒は消息不明でさ。親族も当たってるけど、亡くなってたり、接点を持たない人も多いんだ」
由伸さんの言葉が入ってこない。クロロホルムを嗅いだあのときみたいに、息をすることができない。
「違うよ……犯人はこの子じゃない」
「え?」
急に私が口を開いたことに驚いているようだった。
「犯人は、この子の隣の子なの」
渡辺のことをすべて話した。途中、何で黙っていたんだと怒られるかと思ったが、由伸さんは静かに聞いてくれていた。拳を握りしめる私の手の平の上に、由伸さんの手が重なる。
「話してくれてありがとう。俺も、本当に犯人が彼女とは思ってなかったんだ」
「どういうこと?」
「当時、クラスメイト全員のアリバイは抑えてある。当時の捜査記録によると、彼女は被害者が殺された時間、学習塾に行ってたんだ。一方で、渡辺のアリバイはない」
「じゃあ、殺すのは無理だったってこと? じゃあやっぱり、渡辺が……」
「アリバイがない生徒は複数いたんだよ。だから、犯人とは断定できない」
「……そっか」
「仮に渡辺が犯人だったとしても、クロロホルムを作った証拠が今も残っているとは考えにくい。ただ、可能性はある」
由伸さんは、私を安心させるようにゆっくりと頷く。
「殺された岡野くんは、目立たない生徒だったようだ。だから事件当時、聞き込みをしても大したものは得られなかった。だけど、渡辺を中心に聞き込みを再開すれば、また新しい情報が出てくるかもしれない」
「どうしてそう思うの? 先生……渡辺もおとなしい生徒だったかもよ」
「いや、渡辺はクラスでも中心的な人物だったと聞いてるよ」
当時のニュースでは、犯人は高校の上級生ではないかと言われていた。犯人候補でもないのに、どうして渡辺のことを知っているのだろう。疑問に思い黙っていると、由伸さんから思ってもみなかった言葉が発せられた。
「俺も、渡辺歩泉が怪しいなと思ってたんだ。まあ、証拠はないから、刑事の勘ってやつだな」
自虐的に笑う。しかし、そんな話は一度も聞いたことがなかった。
「俺が渡辺のことを怪しいと思ったのは、写真の彼女について聞き込みした後輩に話を聞いたときだ。彼女のことを聞こうとすると、絶対に他の生徒の名前が付いてくる。それが渡辺歩泉だったんだ」
「どういうこと?」
「どこに行くにも、何をするにも、彼女と渡辺は一緒だったらしい」
「男子ではあまりないかもしれないけど、女子同士なら普通なんじゃない? 休み時間にトイレに一緒に行くとかさ」
「どうやら、そんな可愛いものじゃないみたいなんだよ。持ち物も、髪型も、趣味も、ありとあらゆるものまで彼女そっくりらしい。いや、渡辺歩泉が彼女に真似されているのかもしれない。どちらが真似をしているのかわからなかったけど、生徒たちの証言では、普段から仲が良く嫌な素振りはなかったらしい。俺はこれを聞いたとき、共依存って言葉がぴったりだと思ったよ」
共依存。どこかで聞いた言葉だ。まぎれもない、本人から聞いた言葉だった。当時聞き込みをしたわけでもないのに、恐ろしくなって震える。
「渡辺のデビュー作、「ロマンティックなありじごく」の意味を知ったとき、驚いたよ。共依存関係の当事者は、依存していることに自覚がないことが多いからな」
「つまり渡辺は、被害者が彼女を盗撮したことに激怒して殺したってこと?」
「それか、彼女が渡辺に脅迫したか。この線は薄いな。ロマンティック蟻地獄の意味、わかるだろ?」
「確か、相手のために自分を犠牲にすること、だっけ」
「そうだな。だから、彼女が渡辺を脅したっていう訳ではないと思う」
「じゃあ、渡辺が彼女のためにやったってこと? そんなことってあるのかな。たかがって言ったら失礼だけど、盗撮のことを先生とか親とか、警察に行ってからじゃだめだったのかな。いきなり殺すなんて……」
「度が過ぎている。そこが渡辺の一番の恐ろしさだ。彼女のためならなんでもする、それ以上に、殺人という選択肢が日常に溢れてるんじゃないか」
そんなこと、あるのだろうか。十数年しか生きてきていない少女が、当たり前に殺人をするなんてことが、私には理解できない。ましてや自分のためじゃなく、他人のためだなんて。そんな人物と長年一緒に仕事をしてきたかと思うと、吐き気がする。
「……由伸さんは、殺人事件の犯人かもしれない人と私が一緒に仕事してるの、何とも思わなかったの?」
「怒るなよ。心配してなかったわけじゃないさ。でも、渡辺が新たに罪を犯すなら、彼女が関連している場合に限られると思う。君はこの彼女と、会ったことがないんだろ?」
写真の中の、美しい彼女と目が合った。
「……うん。会ったことないよ」
「そうか。心配だと思うけど、今日話したことは全部憶測なんだ。必ず証拠を揃えて、近いうちに逮捕するよ」
「うん……」
由伸さんは、私の肩を抱き寄せた。心強く、頼もしく思えたが、私の不安は消えなかった。それは、七年越しの内緒話を話してしまった高揚感の間違いかもしれない。しかし、このまま彼女らの関係性が崩れてしまうのではないかと思うと、やはり言うべきではなかったのかもしれない。
不安に押しつぶされそうな夜を超えて、次の日にその知らせはやってきた。由伸さんが自転車同士の交通事故に巻き込まれ、病院に運ばれたのだった。
病院から電話を受け、すぐに渡辺の顔が思い浮かんだ。しかし、事故の原因は相手のよそ見運転であった。幸い、双方のケガは軽傷で済んだ。事故の相手は高校生の男の子で、両親が何度も頭を下げにやってきた。男の子自身も反省しているようだった。
病室に花を生ける。退院は、担当医と話し合い二日後に決まった。花が涸れてしまうことはないだろう。
「ありがとう。すまない、こんなことになってしまって」
「仕方ないよ。でも、二人とも大したケガがなくてよかったよ」
由伸さんが、自虐的に笑う。本当に、この事故は偶然だったのか。渡辺が仕組んだことではないのか。私は、さっそく秘密を打ち明けたことを後悔しはじめた。
「由伸さん、あのさ、やっぱり……」
「透。次来るときは、何か暇つぶしになるものを持ってきてくれないか」
「え? あの……」
「例えば、雑誌とかさ。一日中寝てるとやることがなくて困るよ。あと、必要なものはここにメモしておいたから」
包帯の巻かれた腕で差し出す。メモを開こうとすると、帰ってから読んで、と言われ、仕方なくポケットにしまう。
面会時間が終了し、家へ帰る。病院を出てすぐに、先ほど渡されたメモを開く。思った通り、それはおつかいのメモではなかった。
〈家に盗聴器あり。アリをもう一度確かめて。深入りはせず〉
たったの三つの文章だった。しかしこれだけで、今回の事故に渡辺が絡んでいることが理解できる。家に盗聴器が仕掛けられており、昨晩の私たちの会話を聞いていたのだ。自分が逮捕されそうになって焦り、由伸さんを事故に見せかけ、殺害しようとした。とんでもない女だ、と思う。結局、彼女のためだけでなく、自分のためにも罪を犯すのではないか。
いや、違う。渡辺が逮捕されることにより、彼女と離れてしまうだろう。やはり、自分主体ではなく、あくまで彼女が世界の中心なのだろう。
だが、本当に殺害するつもりだったのなら、今回は失敗したということなのだろうか。そこで、メモの〈アリをもう一度確かめて〉の部分を思い出す。言うまでもなく、このアリというのは「ロマンティックなありじごく」のことを指しているのだろう。私は家に帰り、自分の夫を殺害しようとした犯人が描いた絵本を読む。繰り返し読んできた作品だ。新しく得ることはないだろう。
そう思っていた矢先、ふと「さいしょは れんしゅうしてごらん」という文章が、頭の中をぐるぐると回転する。ああ、そうか。由伸さんを殺そうとしたのは、れんしゅうだったのではないか。そんな疑問が頭を過った。しかし、そんなことをすれば、渡辺に対する不信感は募るばかりだし、何より危険である。殺人をするにしても、リスクは犯したくないというのが、殺人犯の気持ちではないのか。
七年前に調べた生物学が、たった今調べたみたいに蘇る。女王アリは、十から二十年の間、外に出ずに出産を続ける。そんな女王アリが死んだ場合は、働きアリも巣が終わってしまう。餌を与えられている女王アリと、女王アリの巣がないと生きていけない働きアリの関係性は、まさに共依存の関係である。登場人物の女王アリは、名前も知らない彼女のようだと思った。そして、女王アリのためにせっせと活動する働きアリは、渡辺。そもそもこの物語は、渡辺自身の物語なのではないか。だとしたら、「れんしゅう」というのはもっと大きな枠組みではないのか。つまり、渡辺が殺したい人物は他にいて、他の事件は全て「れんしゅう」なのではないだろうか。その人物は渡辺にとって最も殺したい人物である。そして、それを邪魔する人物は、女王アリに与える「エモノ」として献上する。
そんな関係性なら、共依存というよりは、渡辺が一方的に依存しており、渡辺は彼女の奴隷のように思える。だが、最後の文章の「わたしのために 命をおとすなんて なんと愛しいのだろう」という女王アリのセリフから見ると、やはり彼女も渡辺に依存しているように思える。私は、果たして本当にそうなのかと疑問に思う。殺人鬼ということを抜きにすれば、確かに渡辺は人懐っこく、親しみやすいかもしれない。けれど、そこに隠された計算高い性格や、殺人を犯すような聡明な人格は、接していくうちにわかっていくはずだ。彼女が渡辺に依存しているのは渡辺の妄想なのではないか。どちらにせよ、理解できない。
そんな渡辺が最も殺したい人物は誰なのだろう。多分、最初に殺された岡野典之くんと由伸さんは、れんしゅうだったのだ。いや、岡野典之が最初の犯行だったとも、今となってはわからない。私は、彼女たちがいつ、どこで出会い、なぜ共依存の関係性になったのかも、何も知らないのだ。こんな素人推理をしたところで、渡辺が警察に捕まるわけでもない。最も、渡辺が警察に簡単に捕まることも、私は想像ができなかった。自分が何もできないという無力さや、夫を練習台に使われたことの怒りなどの感情が入り乱れる。とめどなく流れる涙を手で抑えながら、退職願を書くために便箋を取り出した。
「それでは、また三日後に原稿を取りに来ますので」
バタンと扉が閉まる。アシスタントの笹野が、大きくため息を付いた。
「なーんかあの人いやーな感じ! ほずみんもそう思わない?」
「うーん、まだ出会ったばかりだからなんとも言えないですかねえ」
「そう? ほずみんは優しいね。それにしても、透さん、何で急に辞めちゃったんだろ?」
ふわーっと欠伸をする笹野は、私のことを「ほずみん」と呼ぶ。下の名前で呼ばれるのは正直好きじゃない。かと言って、苗字で呼び捨てにされるのも嫌いなので、結局自分の名前が嫌いなのかもしれない。
出版社の新しい担当編集は、夏でもスーツをきちんと着るような、真面目な印象の男だった。笹野からすれば、「いやーな感じ」というわけだ。私は、快適に日々過ごせればそれでいいので、私にとっては「いやーな感じ」には当てはまらない。
菅原透の件は、少し惜しいことをしたと反省している。だが、ずっと処分しきれていなかったことが心残りだったので、これはこれでよかったのだと、自分に言い聞かせていた。
風呂場でのアレを見られてからというもの、菅原を気に留めない日はなかった。だが、菅原は賢明だった。菅原の頭の良さなら、ある程度は勘付いていたことだろう。私が殺人を犯したということを。しかし、菅原は自分の保身のために、それを誰にも話さなかった。仕事仲間として、また時には母親のような役割をしてくれていたことに、私は少なからず感謝をしていたのだ。そんな人物にもう会えないと思うと、少し寂しい。
菅原の死体は山に埋めた。菅原の体に火を付けたあと、黒焦げになったまま埋めた。そういえば、放火で人を殺したことはまだなかったと思い立って、山へと足を運んだのだ。そこまでは良かったが、土に穴を掘るのはかなり骨が折れる作業であった。しかも、どんなに深く埋めても、数年経てば出てきてしまうらしい。進歩した数年後の科学でも、身元がわかるような所持品を持っていなければ、菅原だとはわからないだろう。息が切れ切れになりながら土に埋めたあと、そこはかとない達成感を感じた。というのも、私は殺人を犯したあと、毎度こんな気持ちになるのだ。殺人が日本の法律で禁止されていることを鑑みる限り、世間から見ればおかしなことをしているのだろう。しかし、私の基準となるのは法律なんかじゃなく、もっと綺麗なものだ。私はずっと前からそれを信じてやまない。
もう一つの後悔がある。それは、菅原の旦那はまだ生きているということだ。交通事故で死んでくれたらよかったのだけれど。しかし、元々あれは警告だったのだ。これ以上深入りするならば、もっと酷い目に合うぞ、という脅しのつもりであった。菅原を結局殺してしまうのなら、旦那も一緒に埋葬してあげればよかった。だが、さすがは刑事である。少しの尾行でも気付かれてしまい、今すぐに殺害することを断念したのだ。きっと嫁を殺したのも私だと気が付いているのだろう。何か行動を起こされる前に、策を練らなければならない。
旦那と初めて会ったときから、何故か警戒されていると感じた。だから、職業が刑事だと紹介されて大して驚かなかった。思えば夫婦共々、どこか敏感な二人であった。家に仕掛けた盗聴器に気が付くのも、時間の問題であると思っていた。思ったよりも早く気付かれてしまったので、菅原とは早い段階での別れとなってしまった。しかし、涙を流す場所は一生訪れないだろう。
マンションを見上げると、明かりが付いているようだった。最近は帰りが早いらしい。買い物袋をぶら下げ、玄関を開ける。
「ただいま」
部屋からは、物音一つ聞こえない。寝ているのだろうかと不思議に思ったが、どうやら彼女はヘッドホンを付けてテレビを見ていた。一緒に暮らし始めたとき、私に遠慮してヘッドホンをしているのかと思った。だが、実家暮らしのときからの習慣らしく、今でも欠かさない。
もう一度ただいま、と言い、肩に手をポンと置く。華奢な肩がびくりとし、こちらを見る。その動作は華聯で、毎日見ていても飽きないとさえ思った。
「今日のご飯、なに?」
彼女はヘッドホンを取り、微笑んだ。思えば彼女から、「おかえり」という言葉を聞いたことがない気がする。私が作るご飯を楽しみにしてくれるのはいいが、私だって一日労働してきたのだ。もう少し労いの言葉が欲しい。
「酢豚だよ」
「いいね。楽しみ」
そう言って惜しみなく笑う。つられて笑った。結局、この笑顔に弱いのだ。さっき考えていた煩悩が消えてなくなる。
「回るテーブル欲しいな」
「なにそれ?」
「高い中華屋さんでよくあるやつだよ」
「そんなの買っても滅多に使わないよ」
「普段から使えばいいでしょ。肉じゃがでも、コロッケでも」
「……一番安くても一万七千円だってさ」
「ふーん」
自分から話題を振ってきたのに、あまり興味がないらしい。通販サイトのページを閉じ、スマホを回らないテーブルに置く。彼女が思い付きで話すことは日常茶飯事だ。そのひとつひとつを、頭の中にメモしている。しかし本人にとっては、なんでもない話題らしいので、もう一度話題に出すとすっかり忘れていることが多い。彼女らしいといえば、彼女らしい。
出来上がった酢豚は、可もなく不可もなくといった味だった。それでも彼女は、本当に美味しそうに食べてくれる。
「チャンネル変えていい?」
いいよ、という前にテレビのチャンネルはまわった。ニュース番組から、バラエティー番組になる。
「これ、私の大学の先生。今日出演するって言ってたの、今思い出した」
見ると、一人の老人が映っている。テロップには、「正南大学生物科学部 教授」とある。彼女が研究生として所属しているのも、同じ学部だ。彼女とは同じ大学だが、四年で卒業した私と違い、大学院に残って勉強している。このまま教授の下で、研究生として働くらしい。
番組内では、蝶の生態について特集が組まれているようだ。
「ちょうちょについて研究してるんだっけ?」
「忘れちゃったの? 私は、蟻だよ。この先生とは、直接はあまり関係がないんだけどね」
忘れるはずがない。私と彼女と蟻は、密接な関係で繋がっているのだから。
まだ小さかったころ、虫が嫌いだった。洗濯物から取り込んだばかりの靴下を履いたとき、中にコガネムシが入っていたことがあった。驚いた私は後ろに仰け反った。その拍子に、コガネムシを手で叩いてしまい、コガネムシはそのまま床にポトンと落ちた。母が駆け寄ってきて、優しく抱きしめてくれた。思い返せば、母親らしいことをしてくれたのは、これくらいしか思い出せない。どうやら母は、泣いている私を見て、虫が死んでしまったことに悲しんでいると思ったらしい。でもそれは認識違いだった。私が涙した理由は、死を身近に感じて怖くなったからだ。新聞に載っている殺人事件も、どこか遠い国の話だと思っていた。もちろん、葬式にだって行ったことがなかった。けれど、死はこんな当たり前に日常に存在し、自分でもその命を簡単に無くすことができるのだと発見した。コガネムシを殺したのは故意ではなかったけれど、嫌なものは殺してしまえばいいと思ってしまったのだ。そんな考えが頭の中に過ったとき、私はもう後戻りできないのだと、悲しくなって泣いた。このときから、殺人が日常生活の選択肢の中に含まれている。してはいけないことだと理解しながらもしてしまうのは、どうしてだろう。
幸い、トラブルがない生活を送っていたため、危惧していたようなことは起こらなかった。相変わらず虫は嫌いだったけれど。しかし、その気持ちが一転する機会が小学五年生のときに訪れた。
五年生になると、彼女とクラスが一緒になった。三つのクラスしかない小学校では、誰もが顔見知りだった。だが、彼女とは一度もクラスが一緒になったとこがなかったし、名前も顔も知らなかった。彼女は、五年生に進級する際に引っ越してきたようだった。そのため、転校生という扱いは受けず、ひっそりと教室の隅にいるような生徒だった。
六月になっても、彼女と話す生徒はいなかった。彼女が友好的な態度を見せなかったからだ。もちろん、私もその一人だった。中旬にはプール開きが行われた。しかし、彼女がプールの授業に参加することはなく、いつも見学をしていた。制服のままの彼女は、日陰で本を読んでいた。冷たい水に浸かりながら、その様子を眺めている。突然、尿意を催した私は、授業を抜け校舎の中のトイレに行く。トイレから帰ると、校舎とプールの間に位置するうさぎ小屋に、誰かいるような気がした。見ると、彼女がうさぎを見ていた。
「何してるの?」
思わず、声を掛けてしまった。まわりに誰もいないのが決め手であった。というのも、彼女はいじめられていた訳ではなかったが、話しかけることで、自分も一人ぼっちになるのではないかという空気が、クラスの中には流れていた。私自身もそう思っており、そんなリスクを背負ってまで話しかけるメリットはないだろうと考えていた。視界にも入っていなかったが、彼女の瞳は鋭く、大人びた表情をしていたことに、このとき初めて気が付いた。
彼女は俯いたまま答える。
「これ」
彼女が指を指したのは、目の前にいる蟻の行列だった。どうやら、うさぎを見ていたのではなく、蟻を観察していたらしい。
「楽しい?」
「プールを眺めてるよりは楽しいよ」
「なんで入らないの?」
「生理だから」
彼女は顔を上げない。私は、彼女の横顔と話をする。
「せいりってなに?」
「女の人が子どもを産む準備のこと」
「子ども産むの?」
「産むわけないでしょ」
笑ったような気がした。が、横顔に髪の毛がかかってよく見えない。
「蟻って、働きアリと女王アリがいるの知ってる?」
「それくらい知ってるよ」
「じゃあ、どこに違いがあるか知ってる?」
うさぎは、さっきから小屋の隅のほうにいる。私たちが怖いのだろうか。黙っていると、わからないと思ったのか、彼女は話し始めた。
「働きアリと女王アリは、元々生まれてくる卵は一緒なの。同じように育てられて、いつのまに奴隷か、女王かになってる。不思議でしょ」
「なんでそうなるの?」
「母親から受けたフェロモンの種類や量が違うから。けど、今はまだ詳しくわかっていないみたい」
フェロモンが何かわからなかったが、私よりも知識が豊富であり、聡明であるということがわかった。それは、蟻についてだけでなく、様々な事象について詳しいのだろう。彼女への第一印象は、かなり良いものであった。どうしたらこちらに興味を持ってくれるだろうと、気を引こうとしたが、彼女にそんな小細工は伝わらないと思った。仕方なく、彼女の横顔を見つめていた。
「でも、私は働きアリが奴隷なんて思ったことない」
「どうして?」
「好きでしてるから。働きアリは女王アリが好きで、女王アリも働きアリが好きなんだよ。きっと」
これは、なんとなく理解できた。けれど、納得するまでには時間がかかった。
「繫殖のとき、女王アリとオスは婚前旅行して、飛び立つの。空中で交尾するんだけど、そのときオスは死ぬんだって」
「へえ。かわいそうだね」
「そう? 子育てもろくにしないんだから、死んでもいいんじゃない?」
今度こそ、彼女は笑った。笑ったところを始めて見た。せっかくだから、正面の顔を見たいと思い、顔を覗き込む。すると彼女は驚いたようにこちらを見た。
「なに?」
「いや……どんな顔なんだろうと思って」
彼女は私の顔に近づけた。彼女の綺麗な顔で視界がいっぱいになる。息が止まりそうになった。
「こんな顔だよ」
また笑った。そのとき、授業を終えるチャイムが鳴る。彼女は、私を置いてスタスタを帰ってしまった。蟻のことなんて考えたこともなかったが、その日から蟻の行列を見ると近くで眺めるようになった。彼女の遠くなっていく後ろ姿を見て、いなくならないでほしいと思った。うさぎはまだ隅っこで丸くなっていた。
彼女がテレビを消す。皿の上の酢豚はもう無くなっていた。
「明日、朝早いから。もう寝るね」
彼女は、自分の分だけの皿を洗って寝室に向かった。そうだ、私も明日は朝が早いのだった。明日という日を、どれほど待ち望んできただろうか。明日は、「ほんばん」の日だ。
うさぎ小屋の前で話してから、彼女とは人目を気にせず話すようになった。そうするうちに、クラスメイトとも打ち解けるようになった。喜ばしいことだが、どこか寂しい気持ちになった。
同じ中学へ上がってからも、仲は続いたままだった。休み時間におしゃべりし、放課後には彼女の家で遊ぶことも多い。
「今日、うち来るでしょ?」
「いいけど、お父さんは?」
「いないから、大丈夫」
小学生のときは短かった髪を、中学生になってから伸ばしているようだった。どうして伸ばしているのかと聞くと、どうやら父親が関係しているようだった。父親が伸ばすよう強要しているらしい。そんな親がいるのかと不思議に思ったが、髪の毛以外にも彼女はこういうことが多々あった。プールに入れなかったのは、水着を着られなかったからだ。真夏日でも制服の上に薄手のカーディガンを羽織るのは、肌を見せられなかったからだ。つまり彼女は、父親から虐待されている。これはあくまで推測だ。彼女からそれらしい話を聞いたことは一度もない。ただ、父親とは仲が悪いから、家に遊びに来るときは不在のときに来てくれないか、とだけお願いされている。
彼女はいつも、麦茶を入れてくれる。パックで麦茶を作るよりも、ペットボトルで買った方が楽なのではないかと質問したときがある。彼女は、いつものように笑って答えた。
「お母さんが生きてた頃の習慣なんだよね。なんか、辞めどきが無くて続けてる」
悲しそうに笑う彼女を見て、なんて儚い表情をするんだろうと思った。聞けば、転校のきっかけとなったのが、母親の死だったらしい。私は、彼女に悲しい思いをさせてたくなくて、母親や父親の話題を出さないよう、普段から注意をしている。
今日も麦茶が出てきた。その会話以来、私にとって麦茶は苦い思い出となっている。
「今日の保健の授業、どう思った?」
「どうって……妊娠の話?」
「それしかないよ」
今日の彼女は、何だかいらいらしているようだった。それがなぜだかわからないので、必死に頭を遡らせる。
今日の保健の授業は、男子と女子が別々の部屋で受けた。男と女の体の仕組みや、妊娠、避妊について学んだ。正直、自分にはあまり関係のない話だと思ったので、あまり聞いていなかったのが事実だ。
「あの授業、受ける意味があるのかな」
「将来必要になってくることじゃない?」
「その情報を正しく使えなければ意味がないよ。避妊は大事ですって妊娠するほうに言われてもね。それに、こんな一時間未満の授業で、正しい知識として活用できるわけがない」
確かに、彼女の言う通りだ。保健医の話を聞いてどこかげっそりしている女子生徒に比べ、授業が終わり教室に入ってくる男子生徒はにやにやと笑っていた。その様子からはきちんと授業を受けたとは思えない。
お互い無言になる。コップの中の氷が解けて、カランと音がする。どう言葉をかけたら良いかわからなくて焦った。
「手術をしたことがあるんだ」
とても小さな声だった。外の蝉の音がうるさくて、聞き逃しそうになる。
「手術って……病気とか?」
「中絶手術」
チュウゼツシュジュツ。聞きなれない言葉なので、頭の中ですぐ漢字に変換できない。中絶手術とは、妊娠した後、子どもを産まないようにする手術のことか。最初に浮かんだ疑問は、相手が誰なのかということだ。いや、それよりも、一体いつ手術は行われたのか。どうしてそんなことが起きたのか。部屋にはクーラーが付いているはずなのに、熱中症になりそうになる。
「もうわかってると思うけど、私の父親、頭がおかしいんだよね。すぐに殴るし。でも、なぜか殴られた顔を見ると興奮するみたいで。だから、あのときも無理やりやられた。去年の夏休みのことだよ。言ってなくて、ごめんね」
ここは地獄だ、と思う。半分くらいわかっていたことだ。彼女の一番近くにいたのに、何もできなかった自分が情けない。私が何か気付いていれば、行動に移せていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。こんな話をしている彼女のほうが辛いはずなのに、私は悔しくて涙が出る。彼女が気付いて、私の頬に触れる。
「なんで泣いてるの。私ね、びっくりしたよ。手術も日帰りで、こんなに人が死ぬのって簡単なことなんだって。ねえ、歩泉。あなたが私を助けてくれるんでしょう」
涙が止まって前を向くと、彼女の顔が目の前にあった。なんだか、初めて話したときのことを思い出す。彼女はあのときと変わらない微笑みをしている。彼女が言っていることを頭では理解できないが、心臓で受け止める。私も彼女も、平凡に暮らしたいだけなのに、どうして邪魔が入るのだろう。私が彼女と出会ったのは、そんな邪魔者から彼女を救うためだったのだ。そして、彼女も私に救われるために出会ったのだ。この日から私は、私を捨てた。新しい私は、彼女と共に生きていくことを決めた私だ。
まず、児童相談所に連絡した。だが、何か事件が起こらないと受け付けてくれない様子だった。次に、警察に連絡した。警察は、まず児童相談所に行ってくれと、これまた門前払いをされた。結局、大人なんて自分のことしか考えていない。悩みに悩んだ私は、より彼女の父親のことを詳しく知るべく、勤務先を調べることにした。父親は、大手銀行会社で銀行員として働いている。年収は平均以上貰っているだろう。きっと職場ではいい父親のように振る舞っているのだ。許せない、と思う。
しかし、これは利用できると考えた。一流企業に勤めるサラリーマンが、実の娘に手をかけ、妊娠させた。そんな話題性のある出来事を広めてくれるものは何か。答えは、週刊誌にある。
週刊誌に載った記事は思ったよりも小さかったが、効果は抜群だった。彼女、すなわち子どもの顔は出さないこと、特定されるような、父親以外の個人情報を出さないことを条件にした上で、記事にしてくれないかと頼み込んだ。編集者とはメールでのやりとりだったが、児童虐待に深く恨みを持っており、熱意のある人物であった。そのため、話をしやすく、丸め込みやすかった。結果、父親は職場に記事が見つかり、解雇になったあと、警察の捜査が入った。記事が載って数か月後、父親は強姦罪で逮捕されたのだった。元々父親らしいことをしてこなかったので、もちろん授業参観や三者面談等にも来たことがない。そのため、父親の件で彼女が騒がれることもなかったし、ニュースにもあまり取り上げられなかった。
逮捕後、彼女がありがとう、とお礼を言って来た。なんのことかわからなかったので、とぼけておいた。それでも彼女は、またいつものとびきりの笑顔で包み込んでくれるのだった。中学三年生になったころ、彼女の体からすっかり痣は消えていた。
しかし、そんな簡単に事件は終わらなかった。裁判が終わり、父親の判決は懲役十年とのことだった。判決が出たとき、絶句した。十年経てば、またあの犯罪者が檻の中から出てくるのだと思うと、ゾッとする。
彼女の母親が亡くなったのは、病気だったと聞いている。父親からの虐待は、母親の死がきっかけだったのか、それともそれ以前から行われていたのか、わからない。しかし、そんなことはどうでもいいのだ。長い時間にしろ、短い時間にしろ、彼女が苦しかった気持ちは変わらないのだから。そして私がやるべきことの一つは、彼女にもう二度とそんな思いをさせてはいけないということだ。十年後の来るべき日までに、私はもっと学ぶ必要があった。もっと「れんしゅう」が必要なのだ。
窓から入る日差しが眩しい。昨日の夜、カーテンを閉め忘れたみたいだ。太陽の光をいつもより浴びたお陰で、目覚めがいい。それにしても、なんだか長い夢を見ていた気がする。彼女はもう家を出たらしい。私も準備をするべく、ベッドから起き上がった。
家を出るとき、リビングにあるテレビ台の棚が視界に入った。そこには、今まで発売してきた絵本や、賞状が飾られている。中には、一年前に彼女の研究チームが受賞した科学技賞のトロフィーもある。私はふと、それらを眺める。未開封の「ロマンティックありじごく」には、少し埃が被っていた。
思い返せば、今までやりたいことなんてなかった。普通に学校に行って、退屈にならない程度に友達を作る。そうやって生きていけば、誰にも迷惑はかからないし、何より省エネだと思っていた。しかし、彼女と出会ってから、私の生活はガラリと変わってしまった。
「絵を描く仕事がいいんじゃない」
お昼ご飯を食べているときに、突然彼女からそう言われた。それは、さっきの美術の授業のことを言っているのか。お互いの似顔絵を描くという授業で、彼女の顔を描いたところ、それが随分と気に入ったようだった。描き終わった作品は先生に提出しなければいけないのに、持って帰ると言って聞かなかったのだ。
「上手だよ、本当に。美術部に入ればよかったのに」
「うちの中学は部活に入らない人も多いでしょ。それにもう三年だし、内申を稼ぐには遅いよ」
「そうじゃなくて、もっと先のこと。画家か、作家になったら?」
「私が? そんなの、考えたことないよ」
会話はそれで終わったと思ったのだ。だが、彼女の中では続いていたらしい。
「見て、これ」
彼女が渡してきたのは絵本のコンクールのチラシだった。一体どこで貰ってきたのだろう。
「「第六三回現栄社絵本コンテスト」……?」
「絵本のコンクールだって。これ、応募してみたらいいんじゃない」
「私が? でも、今年受験生だよ。そんな時間ないし……」
「大丈夫。締め切りは来年の秋までだって。受験が終わってから描いてみたらいいんじゃない」
チラシをちゃんと読む。すると、賞金の部分に目が釘付けになる。大賞は、賞金五百万。絵がちょっと上手なくらいで、こんなに貰えるものなのか。金はいくらあってもいい。私は、金のためと、もう一つのある目的のためにやってみることにした。
やってみると、案外上手くいかない。絵が上手でも、人に伝える表現力がないと難しいと気付いた。ましてや、絵本の対象年齢は低い。子どもに向けた創作なんてしたことがないから、よくわからない。だから私は、実体験を元に書くことにした。「ロマンティック蟻地獄」とは、愛読している心理学の本を読むときに見つけた。それはまるで、彼女と私の関係性ではないかと思ったのだ。この言葉が気に入った私は、蟻の物語を描くことに決めた。
もう一つのある目的とは、この絵本を自身の指標にしようと思ったのだ。きっと、私は大賞を受賞できる。それだけのセンスと画力が、私には秘めていると思っていたからだ。もちろん、私は「働きアリ」で、彼女が「女王アリ」。そしてそれを邪魔する父親が「エモノ」。これを解決するには「れんしゅう」が必要なのだ。けれど指標とはいえ、もちろんフィクションである。死ぬ予定なんかない。
最後まで題名を決めかねていた。「ロマンティック蟻地獄」とは、依存関係のことだ。つまり指標とするなら、私と彼女はそういう関係であると言っているようなものだ。最初は不快に思った。アルコール依存症やスマホ依存など、依存には悪いイメージがあったからだ。結局、ありきたりな題名で応募したのだが、それでも受賞してしまった。彼女があの日チラシを渡さなければ、この五百万は手に入らなかったことだろう。彼女のために、大切に使うことに決めた。
受賞して後日、書籍化の話が持ち掛けられた。その間、私はある一冊の依存にまつわるエッセイを読んでいた。作者は買い物依存症であり、購入する際の快感がやめられないという悩みを抱えていた。そのときの専門医は、依存には、「良い依存」と「悪い依存」があると教えてくれたらしい。「良い依存」とは、依存とはいえ、相手の嫌がることはせず、気持ちを尊重し助け合うこと。「悪い依存」とは、相手よりも自分を優先し、束縛すること。これを読んで、私と彼女は「良い依存」関係なのではないかと思ったのだ。二人にとって心地よい関係性が、この「良い依存」であり「ロマンティック蟻地獄」なのだ。私はそれを自覚したことがなんだか嬉しくて、世界中に自慢して叫びたい気分だった。
その気持ちを抑え、代わりに絵本の上の埃を指でなぞった。綺麗になった絵本を抱く。
「どうしてみんな、わたしのじゃまをするのかなあ」
忘れてはいけない。彼女を守るためには、私はどんなことでもすると決めたのだから。
枝野卓が端田刑務所から出所するのは、今日の夜一九時の予定だ。渡辺は絶対に動く。
ここまで調べるのに随分と時間がかかった。彼女と枝野は絶縁しており、彼女自身も母親の性に名前を変えていた。戸籍も何者かが偽装した形跡があった。こんなことをするのは、あいつしかいない。俺の愛する人を殺めた渡辺歩泉は、今も生きている。透が死んだとはまだ断定はできないが、渡辺の性格なら殺すのだろう。せめて体さえ発見されれば、俺も透も報われるのだが。
今だけは悲しんでいる時間はない。身元引受人がいない枝野は、一人で帰宅する予定だ。もし枝野を殺すつもりなら、今日が最も絶好の日である。俺を筆頭に、「第三正南高校生殺人事件」の捜査班数十人で待機しているが、正直捕まえられる自信はあまりなかった。それほどに、渡辺はやっかいな存在なのだ。
一九時丁度、太った一人の男が門から放たれた。枝野は手ぶらで歩き出す。そこへ、一台の黒いセダンが止まった。暗くて運転席はよく見えない。しばらく車の中と外で話をしていたようだが、やがて枝野が後部座席に乗った。俺は部下に指示を出し、同じように車を発進させる。
車は、山へと続く道を走っているようだった。対向車もおらず、静かな暗い道であった。そのとき、急に車の速度が上がった。どうやら、尾行に気付いたらしい。二手に分かれる直前で見失ってしまった。
車内では焦る声が聞こえていたが、俺は至極冷静であった。最悪、渡辺を現行犯で逮捕することができるなら、この男が殺されてしまっても仕方ないと考えていたからだ。半ば俺は、妻の敵討ちのような気持ちになっていた。
夏なのに、蝉の声がしない自然の中を歩く。ようやく車を見つけたとき、時刻は二十時を過ぎていた。車は山中に止まっている。車の傍には、小さな山小屋のような建物があった。明かりは付いていない。数人を外に待機させ、念のため銃を持つ。小屋の前に立ち、首だけで行け、と合図を出す。部下が勢いよく開けたドアは、反動で内側にぶつかりそうな勢いだった。小屋の中は電気が通っておらず、くらい。前に進むと、何かを踏んだ。懐中電灯を当てると、先ほどまで生きていた男は案の定死んでいた。逃げられたのか。額の汗が地面にぽとりと落ちる。いや、しかし。渡辺は確実に近くにいる。今まで、完全犯罪を成し遂げてきた渡辺が、車を置いていくはずがない。ここを部下に任せ、小屋から勢いよく飛び出した。
一人きりで真っ暗な道を走る。前後左右、何もわからない。蝉の鳴き声が、遠くで響くような気がする。渡辺は、一体どこに隠れているのだ。静寂の山の中で、俺は発狂して大声を出したくなる。その瞬間、後頭部に鋭い痛みが起こった。あっと思ったのも束の間、一瞬にして意識が飛んで行った。
二日酔いの朝のような吐き気がする。二日酔いの朝、透が必ず麩が入った味噌汁を作ってくれた。もうその愛しき人物とは二度と会えない。俺はまた怒りが込み上げてきて、拳に力が入る。ところが、座っている椅子と体がロープで結ばれており、自由に動かせないことに気が付いた。
「起きましたか?」
目の前に、一番憎んでいる女がいた。渡辺は全身真っ黒の服に身を包んでおり、それは夜の闇と同化していた。
「お久しぶりです。結婚式以来ですね」
渡辺は笑っていた。写真で見るよりも、愛嬌があると思った。だが、今から人を殺そうとしている人間がこんな風に笑っているなんて、人間として欠落があるに違いない。
「父親を殺したのか」
「ええ。おかげさまで。これで安心して過ごせます」
「「ほんばん」なのに、随分あっさりしてるんだな」
「ただの通過点でしかないです。でも、無事に終わってほっとしました」
「透を練習台にして、勉強になったのか」
「透さんには随分お世話になりました。ごめんなさい。貴方も同じようにするつもりが、遅くなってしまって」
「透はどこにいるんだ」
「もちろん、この山の中です」
「俺を殺しても、すぐに警察がくる。その間にお前が逃げる時間はない」
「それはどうでしょうか。だって、ここは私の家なんですから」
「家……?」
「この山、知り合いから半分頂いたようなもので、安く購入したんです。自分の家だから、抜け道くらい知ってますよ」
冷静に取り繕うとしても、無理だった。透がこの世にいないという事実を受け止めたくない。渡辺の近くには、赤いポリタンクがあった。自分が刑事という立場をほとんど忘れ、もう渡辺を逮捕することが面倒になった。全てを終わりにしたい。
葉が沢山落ちている土の上に、渡辺が持つ懐中電灯に照らされて、きらりと何かが光った。あれは、指輪だ。指輪にはチェーンが付いている。透は、せっかく買った結婚指輪を恥ずかしいからという理由で付けていなかった。代わりに、チェーンを通し、ネックレスにしていたのだ。あの指輪は、透の物だ。瞬間、透との思い出が蘇ってきた。このまま死ぬわけにはいかないと、もう一人の俺が囁いている。しかし、相変わらず手足は縛られたままだ。
「君がやっていることは、本当に彼女のためなのか?」
「は?」
「大体、たかが他人のために人を殺して、牢屋の中で何年も過ごすなんてばからしいだろう。それに俺だったら、人殺しの友達なんて怖くて近づけないね」
渡辺は、何を言っているのかわからないという表情をしている。手に結ばれたロープをなんとか解かせようとしながら、俺は続けた。
「そもそも二人は、お付き合いしているわけじゃないんだろう」
「友達です」
「だったら尚更やめたほうがいい、そんな関係性。君のデビュー作を読ましてもらったけど、彼女に依存していること、自覚してるんだろう。大丈夫だ、依存症を自覚している患者の方が、治りやすいから」
渡辺は黙ったままだった。説得が心に響いているのかもしれない。俺は畳みかける。
「彼女は、君に殺しなんかしてほしくないって思ってるんじゃないのか。なあ、もう一度考え直してみないか? これ以上罪を重ねないほうがいい」
腕のロープが解けた。足は解けそうにないから諦める。これで、丸腰の渡辺と戦える。
「君にとっての愛する人が彼女なら、俺の愛する人は透なんだよ。なぜそこに気が付かないんだ!」
そう言って、渡辺に飛びかかる。足と椅子は繋がったままだったので相当の不利があるが、これでも警察官だ。力には自信がある。
「ぐっ……」
「先に邪魔してきたのはそちらでしょう」
低い呻き声が出た。渡辺は小型のナイフを隠し持っていた。飛びかかった俺の手の平に、持っていたナイフで刺した。その衝動で、体がぐらりと歪む。地面に倒れ込むと、透の指輪が目の前にあった。
「ごめんなさい。さっきから何を言っているのかさっぱり分かりません」
渡辺は、俺の顔を覗き込むようにしてしゃがむ。必死の思いで、半身を起こそうとする俺を嘲笑うかのように眺めている。
「なぜ、他人の貴方たちが私たちの関係に口を出すことができるのでしょうか。私には理解できない。彼女と私の関係は、当人同士で完結しています」
「それが、君の思い上がりだと言ってるんだ……!」
「だから、なんで私や彼女の気持ちを勝手に決めるんですか」
渡辺は、ナイフに付いた血をハンカチで拭いている。その瞳の奥に、俺は写っていない。やはり、渡辺は、彼女しか眼中にないのだ。
「仕方ないだろ、人の心は分からないんだから……自分で考えるしかない……そうやって、みんな他人を伺いながら生きてる。自分の気持ちを押し付ける、君にはわからないだろうが……」
「そうかもしれません。でも、それで貴方方が私たちに口を挟んで良い理由にはならないと思います」
「貴方方……?」
「透さんのことです。透さんにはお世話になったので、殺したくはなかったのですが。申し訳ないです。でも、彼女と私の邪魔をするから、仕方ないですよね」
「お前……!」
渡辺は油断していた。俺の言葉に動揺していたのかもしれない。刺された右手に感覚は無かったが、手錠をかけるため渡辺に覆いかぶさろうとした。
渡辺が抵抗し、ポリタンクの中身が零れた。あたりはガソリンの匂いで充満していた。
「ちょっと、どいてってば」
渡辺が初めて焦っているように見えた。このまま押し切ろうと、力を加える。すると、渡辺の顔に血がかかる。それは、俺の吐血した血液だった。ごほっと血の塊を吐き出した俺は、何が何だかわからなかった。最後に見た渡辺の顔は、心底驚いているような顔だった。渡辺は一体、何に驚いていたのだろうか。
もうだめだと諦めかけたとき、よく見る顔があった。紛れもない、彼女の顔である。最初は妄想かと思ったが、口を開いてこう言った。
「遅くなってごめんね」
なぜここに。なぜ家の包丁を持っているのか。なぜ菅原を殺したのか。沢山の疑問が頭の中に浮かぶ。
彼女は、私の上に乗る人間を退かし、座らせた。彼女も横に座る。しばらくの静寂があった。彼女は、暗闇の向こうを見つめている。
「人を殺すって、こんな感じなんだね」
彼女は、血まみれの手の平を見つめる。
「歩泉はいつもこんなことを?」
「……うん」
「すごいね。意外と体力あるじゃん」
「……うん」
「謙遜しないんだ」
彼女はいつもと変わらない笑顔で笑う。汗で眉毛が少し薄くなっていた。
「大丈夫だよ。歩泉がやってたことは、全部間違ってないよ」
はっとして、彼女の顔を見た。彼女はまだ、微笑んでいた。その一言で、全てが救われた気がした。私は、生まれたときみたいにわんわん泣いた。
どうしてうまくいかないのだろう。大切な人を守りたいのに、どうして邪魔ばかりするのだろう。私はただ、彼女と隣で笑っていたいだけなのに。難しいことは、何も望んでいないのに、どうして外野はうるさいのだろう。
「私も同じだから」
「え?」
「歩泉が私のために殺したのは、私のことが好きだからやってくれたことでしょ。だから、歩泉が好きな私のためにこの人を殺した。ね、同じでしょ」
私は何度も頷いた。彼女の言っていることは半分ほどしか理解できなかったが、必死に脳を回転させた。きっと彼女は、泣いている私を励まそうとして言ってくれたことなのだろう。
「嬉しかったよ。うまく言えないけど」
私たちは笑い合った。今まで過ごした中で、一番幸せな時間が流れた。私たちは、どちらともなく手を握り合った。私の手は汗で、彼女の手は血で濡れていた。
「でも、そうは思わない人もいるみたいなんだよね」
「どういうこと?」
パトカーと救急車のサイレンの音が、遠くの方で聞こえた。どこも痛くないはずなのに、冷や汗が止まらない。
「早く、逃げよう。大丈夫、抜け道があるの」
声が震えていた。立ち上がろうとすると、握っていた彼女の手に力が入る。思わず引っ張られ、身動きが取れない。
「もう終わりにしよう」
「終わりって?」
彼女は、私にナイフを握らせる。私はナイフを見つめた。
「どういうこと?」
彼女は、ポケットからもう一本ナイフを取り出した。そしてそのナイフを左手で持ち、私の首に当てる。
「ここは二人で生きていくには、狭すぎるよ。歩泉もそう思うでしょ」
「……そうかもしれない」
本当に、そうかもしれない。私だって、周りに迷惑をかけたいわけではないのだ。彼女が幸せなら、それでいいのだから。
「天国って、どんなところだと思う? 私は、スイーツバイキングがあると思う。あと、ドーナツ屋と寿司屋」
「食べ物ばっかりじゃん」
二人は同時に噴き出した。いつまでもこうしていたいと思った。けれど、そうするには、この世は窮屈すぎる。なんでこんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。
私は、右手でナイフを持ち、彼女の首に当てる。左手は、頬に添えた。頬は汗でしっとりとしている。彼女も同じように、私の頬に右手を添える。手の平がふわふわして気持ちいい。
「最後にお風呂入りたかったなあ」
「凄いガソリン臭いよ」
「わかってるから、言わないで!」
遠かったサイレンの音が、もうすぐそこまで来ている。もう、本当にお別れのようだ。だけど、本当の別れではない。これは第二の人生の始まりなのだ。彼女はまた、笑っている。最後まで彼女の笑顔は愛らしかった。
私たちは、同時に首をナイフで切り裂いた。血が噴き出し、体に力が入らない。近くで足音がし、目を開けようとする。目の前には、蟻の行列がいるような気がして、最後まで縁があると思わず笑ってしまった。実際には笑おうとしただけで、顔に力は全く入らなかった。
「いたぞ! こっちだ!」
男の声がした。きっと警察官だろう。でも、もう逃げなくて良いのだ。ずっと一緒にいられるね。私は彼女の手を握り、安心して眠りについたのだった。