道中3
「平民が聖女だなんて、無理に決まってるのにばっかみたい」
「王太子様に声をかけられるなんて……どんな色目を使ったのかしら」
おぼろげな過去の記憶。いつ、誰に言われた台詞だったろうか……。
額にひやりとしたものが触れた感触でオディーリアは目を覚ました。
「もう起きたのか? 一時間ほどしか寝てないぞ」
ひんやりと、心地よいものの正体は彼の手の平だった。
「えっと……なにを……」
「あぁ、なんかうなされてたから。ナルエフでは、こうして手のひらを当てると悪夢を吸い取ることができるっていう伝承があるんだ」
「悪夢……」
「覚えてないか?」
「夢は……見ていたような気がします。ずっと昔の夢です」
レナートはオディーリアの額の汗を拭ってやりながら、言った。
「そりゃ、あれだな。ホームシックってやつだ。帰りたいか? ロンバルに」
オディーリアは少し考えてから、首を振った。
「帰りたいと強く思うような場所はありません。普通はもっと故国への思いがあるものなんでしょうけど」
ロンバルが嫌いなわけではない。だが、どうしてもあの国に留まりたいと思うほど、強くオディーリアを引き止めるものもなかった。
「国に思いがある人間なんていないだろ。みんな、そこにいる人に思いがあるだけだ。家族は? あのアホの婚約者以外で」
「家族はいません」
「死んだのか?」
「いえ、幼い頃に別れたきりでその後は一度も会っていないので」
正直、もう顔もうろ覚えだ。たとえ道ですれ違っても、互いに気がつきもしないかも知れない。
オディーリアは王太子の婚約者という、ロンバルの女性の最高位にまでのぼりつめたが、元々は貧しい平民の生まれだ。〈白い声〉を持っていたことから、聖女になるため国内あちこちにある聖教会のひとつに送られたのだ。両親や兄弟とはそのときに別れたきりだった。
思い出してみれば、あのとき両親は聖教会から多額の金をもらえると大喜びしていた。
(売られるのは、イリムが初めてじゃなかったんだわ)
「ロンバルでは不思議な力を持つ者をそのように組織化しているんだな」
「そうです。〈白い声〉は特に重宝されます」
聖教会は〈白い声〉を持つ者を集め、教育と訓練を行う組織だ。力さえあればどんな身分の者でも入れるが、昔から〈白い声〉を持って生まれてくる者は貴族階級に多いのだ。
だからオディーリアは浮いた存在だった。平民とは思えぬ美貌だったのも、疎まれる原因だったろう。
聖教会での訓練は厳しく、あまり楽しい思い出ではない。だが、訓練の結果、オディーリアの治癒能力は飛躍的に向上し聖女の地位を得て、ロンバルの首都メレムに招かれるまでになったのだ。
「まぁ、その力もすっかり失ってしまったわけですが……」
オディーリアは自虐的な笑みを浮かべた。
「でも、訓練は大切ですよ。力は生まれつきのものですが、その力をどこまで伸ばせるかは訓練次第ですから」
「ナルエフにも不思議な力を持つものはいるが、我が国ではどちらかというと異端扱いされているのが現状だな。ところで……」
「はい?」
レナートはオディーリアの喉にそっと触れた。
「毒を飲まされたと言ったな。その声はそのせいか?」
オディーリアははっとしたように唇をおさえた。
「すみません、聞き苦しい声で……」
オディーリアの声は醜くしゃがれている。聞くほうもきっと気分が悪いだろう。あまり喋らないほうがいいだろうか。オディーリアはそんなふうに思ったが、レナートは笑って首を振った。
「俺は女のキンキンした声が苦手だ。そのくらいが丁度よい」
薄々気がついていたが、レナートはとても善良な人間なのだろう。これまでオディーリアの周りにはいなかったタイプだから、どう対応していいかわからず戸惑ってしまう。
「そうですか……でも、私は自分の声だけは好きでした」
治癒能力を失ったことは別に構わないが、歌声をなくしてしまったことはとても悲しい。毒を飲まされたとき、とっさに自分に治癒の力を使ったのは、歌を奪われたくなかったからだ。
歌はいつでもオディーリアとともにあった。歌だけは、いつでも彼女の味方だったから。
レナートは真面目な顔をして、オディーリアに言った。
「その声も色っぽくていいと思うぞ。顔も身体もこの世のものとは思えぬ美しさだ。好きになってやれ」
くしゃりと自身の頭を撫でたレナートを、オディーリアは見返す。彼は柔らかな笑みを浮かべていた。
「失くしたものを惜しむより、今あるものを大切にするほうが幸せになれるぞ」
「……はい」
オディーリアは素直にうなずいた。彼女はずっと、自身の美貌をわずらわしいとしか思っていなかった。聖教会では虐められる原因になったし、イリムに目をつけられるきっかけもその容姿だった。
美貌を武器に成り上がろうというほどの野心も才覚も持ち合わせてはいなかったし、武器は武器でも扱いきれない諸刃の剣のようなものだった。
だが、今初めて、自分の顔と身体を少しだけ好きになった。いや、好きになろうと思えた。
「あの、ありがとう……ございました」
具合が悪いことに気がついてくれたことも、宿を取ってくれたことも、こうして看病してくれたことも、〈白い声〉を失くした自分を励ましてくれたことも……すべての感謝を、オディーリアはその一言に込めた。
レナートはにやりと笑う。
「抱かれたくなったか?」
「いえ、それは別に。ちっとも」
ははっというレナートの明るい笑い声を聞きながら、オディーリアはもう一度眠りについた。今度は夢も見なかった。
悪夢を吸い取るというレナートのまじないか効いたのかも知れない。
よく知らない国、よく知らない男と一緒という状況にもかかわらず、その夜は生まれて初めてというくらいぐっすりとよく眠れた。




