裏切り2
オディーリアはその類まれな美貌と〈白い声〉を持つ聖女のなかでも特に優秀な治癒能力を持つことから、王太子の婚約者に選ばれた。
彼女にそれを断る権利など当然与えられてはおらず、この戦が終われば半強制的に彼の妻となるはずだった。
つまり、オディーリアはイリムに特別な感情などは持っていないし、彼のほうもそれは同じであることも知っていた。
だから、イリムに失望などしていないし、彼を責めるつもりもなかった。
だが、彼のほうは落ち着き払った様子のオディーリアに責められていると感じたらしい。
「なんだよ、その目は。王太子の命を救えるんだ。聖女としてこれ以上の誉れはないだろう。お前の代わりの聖女はいても、俺の代わりはいないんだぞ」
その通りだ。彼にしてはまともなことを考えたものだと、オディーリアは思った。だからなにも言い返さなかった。
だが、それもまたイリムの機嫌をそこねたらしい。
「大体なぁ、俺はお前みたいな愛想のない女は大嫌いだったんだよ」
これにはなにか答えるべきだろうか。オディーリアは悩んだが、ありがたいことにレナートが会話を打ち切ってくれた。
「では、交渉成立だな」
レナートは自身の兵に向かって、顎で外を指し示した。
「そこらに待たせてる仲間に引き渡してやれ。伝統ある大国ロンバルの王太子様だ、丁重に扱えよ」
めでたく解放されたイリムは、オディーリアを振り返ることもなく嬉々として天幕を出て行った。
レナートは長い脚を組み替えると、床に転がったままのオディーリアを見下ろした。
「……あまりいい男の趣味じゃないな」
「私が選んだわけではありませんし……」
思わず言い返してしまって、オディーリアははっと口をつぐんだ。
それを聞いたレナートは、くっくっと白い歯を見せて笑った。邪気のないその笑顔には彼の本質がよく表れているように思えた。
「言っておくが、この胸くそ悪い交換条件は俺が言い出したわけじゃないぞ」
「では、彼のほうが?」
オディーリアが問うと、レナートは苦笑まじりに片眉をあげてみせた。
「そうだ。とは……言わないほうがよかったか?」
「いえ、別に……」
彼にしてはよく頭が回ったものだと、オディーリアは感心しているくらいだった。聖女ひとりの命と王太子の命を交換する交渉に成功したのだ。上出来だろう。
むしろ気になるのは……イリムよりよほど頭の回りそうなこの男が、なぜそんな交渉に応じたのかということだった。
オディーリアの疑問を察したらしい彼が、唇の端だけを持ち上げ薄く笑った。
「あれは面白い男だな。お前の美貌と治癒の力は類まれなものだから、さらに金300デルを払えと言ってきた」
オディーリアは呆れてしまった。金300デルは大金だが、王太子であるイリムが執着するほどの額ではない。金に困ったことなどないくせに、なぜそんなにセコいのか。
「払ったのですか?」
「払った」
レナートは小気味よくうなずいた。
イリムのセコさも理解できないが、彼の考えていることもオディーリアにはさっぱりわからなかった。
「つまり、あいつは王子である自分よりお前のほうが300デル分価値が高いと思ってるわけだ」
「あぁ、なるほど……」
オディーリアは理解したが、おそらくイリムはそんなことは考えもしていないだろう。貰えたら儲けもの。そのくらいの浅はかな考えで言い出したことなのだろう。
「勘違いするなよ。だから、お前が欲しくなったというわけじゃない」
「はぁ…では、どういう?」
レナートはにやりと笑う。
「女ひとり分の価値もない男が敵国の王になるっていうんだ。こちらとしては大歓迎で、邪魔する気なぞまったく起きないね。いますぐにでも即位してもらいたいくらいだ」
ロンバルの現国王は賢帝だが、もう高齢だ。その上、子宝には恵まれなかった。彼になにかあれば、唯一の息子であるイリムが玉座に座ることになるだろう。
「だから、ロンバルの聖女とやらが醜女でもまがい物でも別に構わんと思っていた。だが……」
レナートは立ちあがりオディーリアの前まで歩み寄ると、彼女の身体を抱き起こした。
レナートの親指がオディーリアの唇をゆっくりとなぞる。
「お前のこの身体は300デルじゃ安すぎるくらいだな。追加料金を払ってやってもいい。ーーあの男の命だ」
「えっ……」
「今すぐ追いかければ間にあう。あいつを殺して欲しいか?」
どこか楽しげな様子でそう提案するレナートに、オディーリアはゆるゆると首を振った。
「それは元婚約者への情けゆえか?」
「いいえ。彼の命より、あなたが手にしている美しい長剣を美しいままにしておくほうが価値がある。そう思ったからです」
「なるほど。同感だ」
レナートは構えた長剣を眺めながら、そう言った。