翡翠
イトはムラ長の邸から、少し離れた薪置き場の陰へと連れ出された。
「隠れて」
イトを連れ出したその娘が囁く。ほどなくして先程までイト達がいたムラ長の邸から大男が現れ、辺りを見回した。その大男は耳右を押さえながら、誰かの名を叫びながらその者を罵る。
と、そんな大男の後ろからしがみついた影があった。
「お母……」
イトは思わず声をあげかけ、娘が慌ててその口を手を塞いだ。
「離せ!」
「離しません。それに、あの御方は……」
娘の唇がゆがみ、眉が怒りの形に変貌していく。
「……いい? あなたは、これから何が起ころうとも、ムラの信用できる大人が来るまで、ここを動いては駄目よ。声も出してもいけないわ」
イトはその言葉に頷き、娘は隠れていた薪置き場から足早に去っていく。
イトはその人に言われた通り、小さな身体をさらに小さくして息を殺す。母と大男の争う声が続いている。と、イトの母の後ろから若い男が現れるなり、イトの母の頭に手に持っていた何かを振り下ろした。
(あっ……)
イトは目を閉じた。それとほぼ同時にイトの額に、小さな塊が当たった。
その塊が当たった瞬間、イトの視覚が激しく上下し、ゴッという鈍い音と共に、生暖かくぬるりとした感触を感じた。
イトはさらに目を固く閉じる。だが、どうしたことか。激しく上下に動く視覚が、数歩先で起こっている出来事をまざまざと見せつけてくる。
「誰か、誰か!」
だが、イトの母の助けを求める叫びは、ムラの中心からあがる歓声にかき消されてしまう。
と……
ピィィィーー……
鋭く甲高い音が、薪置き場の端から響き渡り、激しく上下するイトの視覚がピタリと止まった。
(お母さん、お母さん!)
イトの目を閉じても見える視覚は、母の額から頭頂部にかけて、赤く滲んでいる様を捉えた。
「くそっ!」
「離せと言っとるだろが!」
発せられた大男と若い男の声は、ムラの誰の声でもなかった。
ふわりとイトの視線が大きく持ち上がると、イトの母の額に向かって視覚が急降下し、鈍い音と同時に何かが潰れる音がして、イトの視野が真っ赤に染まった。
(いやっ……)
真っ赤に染まった視覚の僅かな隙間から、大男の脚にしがみついていたイトの母の身体が、地面に崩れ落ちるのが見えた。
(あぁ……)
ピィィィーー……
イトの近くで、再び甲高い音が鳴り響いた。イトの耳はムラの中心で沸き上がる歓声が、少しずつざわめきに変わっていくのを捉えた。
「姫は諦めろ。逃げるぞ」
イトの視覚が再び動きだした。視覚はムラの外の生い茂る森に向かって、駆け抜ける風のように動いている。
と、イトの視覚が動きとは逆の方を向いた。視覚は髪の毛を長く伸ばし、乱れた服装をした娘が追いかけてくる様を捉えた。
(この人は、白の姫様!)
白の姫は走りながら、首飾りの一部を唇に当て、甲高い音を鳴らしている。
と、突如、イトの視覚がグッと上にあがった。
「おい、それを捨てるな! こっちによこせ!」
イトは緩やかな下降と共に、目を閉じても見える視覚は闇に包まれた。
トトトト…… ピィィィーー…… ピィィィーー……
イトが隠れている場所の近くを、足音と甲高い音が通りすぎていく。やがて、その音は遠くなっていった。
それからどのくらい時間がたっただろう。複数の足音共にイトの母の名を呼ぶ声がした。
「ヤナ様……」
ヤナはムラの祈祷師で、このムラ長を始め、皆から信頼を寄せている人物だ。イトはヤナの呼び掛けに答えながら、薪置き場の陰から、よろよろと抜け出した。
そしてイトは見てしまった。地面に倒れ、その額からじわじわと血を流しているイトの母の姿を……
「お母さん、お母さん…… ああっ!」
それは、今から五年前、イトが七つだった時の出来事。