第三話 「ドキドキ初イベント」
長い長い授業を終え、今は放課後。
グラウンドから聞こえてくる掛け声や美しく奏でられた楽器の音が夕焼けに染まる校舎を包み込む。
僕、霧島凛は部長である兄に「今日中に提出しないといけないプリントを出し忘れた」という何ともありきたりな嘘をついて練習を抜け出し、自分のクラスのドアの隙間からあるイベントを見ていた。
放課後の誰もいない教室。
担任である前野拓海と生徒である七瀬千紘がプリントの整理をしながら机を向かい合わせにして楽しそうに話をしている。
きっと前野先生が家庭教師だった頃の話をしているんだろう。
この世界にきて『初』のイベントが、まさか『前野×千紘』だなんて、凄く贅沢な話だ。
推しカップルの初親愛イベントをこの目で拝める。これには、なんど神様にお礼を言っても足りない。
あぁ。今年のクリスマスはいつもの二倍、いや三倍、愛を込めて祝おう。
ハッピーバースデーの曲を三十分間歌い続けよう。
コーラス隊も呼びたいぐらいだ。
「でも、本当に千紘君は変わってないな」
「変わりましたよ。始め見たとき分からなかったって言ってたじゃないですか」
おっと?
これはまさか。
教室の中から聞こえてきた会話。
僕は少し開いた隙間に耳を寄せ二人の声に耳を澄ます。
この後、前野先生から発せられるセリフは、このゲームを溺愛する人間の中では、まさに『伝説』とまで言われる最高のセリフなのだ。
自然とにやける口を手で隠し、僕はひたすら耳を澄ます。
あぁ、お金があればボイスレコーダ買っといたのに・・・
「分からないはずないだろ。これまで千紘君のことを忘れたことなんてなかったんだから。それに、千紘はあの頃と変わらず凄く可愛いから、すぐに気づいたよ」
きたああぁぁぁ!
きましたよ!さぁ、宴の始まりじゃああぁぁ!
伝説の生セリフ頂きました!
さすが前野拓海、大人の余裕というのが垣間見れる。
サラッと「お前のことを考えなかった日はない」と遠回しに伝えつつ、二人の時は『呼び捨て』という何ともいえない使い分け。
隙間から見える二人の姿を見ながら、僕は頭の中で興奮のハリケーンが発生している。
ただ今発生した腐ハリケーンは世界の腐を飲み込み始めています。なんてアナウンスが鳴りそうだ。
気持ちを少し落ち着かせ、もう一度中を覗くと、教室に差し込む夕焼けのせいか、はたまた前野先生に言われた言葉のせいなのか、千紘の頬や耳が赤く染まっているのが分かる。
そんな千紘の姿を嬉しそうに見つめながら、前野先生の大きな掌が優しく頭を撫でる。
なんて芸術的な光景なんだ。
へい、美術部!今すぐ此処に来て肖像画を描いてくれ!
もちろんモデルはあの二人だ!
そして、その絵を僕へと献上してくれ!
ドアの前で小さく屈み、もう少しこの光景を拝ませて貰おうと思っていたのもつかの間、
突然背後から「霧島あぁぁ!」と動物の雄叫びにも似た声が聞こえ、僕は勢いよく振り返った。
そこには案の定、黒くやけた肌に鍛えられた肉体を強調するような白いタンクトップを着た体育教師、『熱川元気』こと、通称『熱血ゴリラ』が居た。
名前からして暑苦しさを感じるだろ?名前通り暑苦しい人だ。
無駄にデカい声、キビキビとした動き、人間とは思えない超人的な身体能力と全身から溢れるパワー。
まさに、熱血ゴリラだよ。
このあだ名をを彼に与えた人は本当に素晴らしい。
ナイスネーミングセンスだよ。
駆け足で僕の傍にくるゴリラを見て僕は頭を抱えた。
クソ、なんでよりにもよって僕の名を呼ぶんだよ!
僕が覗いていたことが二人にバレるだろ!
考えろよ!少しは!
僕は口元に人差し指を持っていき、「黙ってくれ!」と必死にゴリラに訴えかける。
だが、ゴリラには人間の僕の心の声は伝わらなかった。
僕の気持ちも虚しくゴリラは「一体何事だ!」と先ほどよりもデカい声を上げながら僕の元へ、さらに近づいてくる。
もうダメだ。
そう思いながら、僕は微かな希望を胸に隙間から中にいる二人の姿を確認する。
だが予想通り、二人は驚いた顔でドアの方をガン見していた。
ですよね。
そうなりますよね。
あぁ、せっかくこれからって時に……
本当に最悪だ。全部この熱血ゴリラのせいだ。
僕の安らぎのオアシスタイムを邪魔したあげく、二人に僕がいることをバラスなんて。
僕は憎めしさを押し殺しながら、窓の方に屈んで近づき立ち上がった。
あたかも「僕は窓の所に居ましたよ?決して二人の姿を覗き見なんてしてませんよ?」と言うかのように。
「お疲れ様です、熱川先生。僕に何か用ですか?」
「お疲れ!いや、特に用はないんだがな!」
はぁ?!
じゃあ、なんで僕の名前を呼んだんだよ!
用が無いならほっとけよ!くそぉ……
「そうですか。でしたら、僕はこの辺で失礼します」
「ん?教室に用があるんじゃなかったのか?さっきからずっと中の様子を伺っていただろ?」
首を傾げながら問いかけてくるゴリラ。
いや、『さっきから』ってお前いつからいたんだよ!
いつから僕のこと見てたんだよ!
怖いは!普通に怖いは!
てか、目の前に僕が居るのに無駄に声がデカいんだよ。
きっと中にいる二人にも聞こえてしまっただろう。
僕は小さく溜息をつき、いつもより大きな声で「体操着を忘れたので取りに来たんです!」と言った。
ドアの向こうに居る裁判官殿。
僕は無実なのです!
決して覗き見をしていたわけじゃない。
いや、まぁドアの隙間から二人の親愛イベントを見てはいたけど……
本当にそれだけなんだ!
決して邪魔するつもりもなく、ただ推しカプの初イベントを拝みたかっただけなんだ!
本当だ!どうか信じて下さい!
僕が頭の中で行われる裁判で無罪を主張している中、ゴリラは目を丸くして僕を見ていた。
きっとは出さない様な大きな声を出したからだろう。
そしてすぐに「体操着を取ったら早く部活に戻り、精進するんだぞ!」と言い残し、大きな声で笑いながら踵を返し元来た道を戻っていった。
本当に何しに来たんだろ、アイツ。
絶対ただ邪魔しに来ただけだろう。
まさにRPGとかでラスボスまでの道でやたら出てくるレベル1のモンスターみたいな感じだよ。
廊下に響く笑い声の発信者の背中を黙って睨んでいると、真横にある扉がガラガラと開く音がした。
あぁ、ラスボスが現れた……。
中から顔を出した千紘が僕をジッと見る。
その表情は確かに怒気を含んでいる。
「あの……千紘くん?」
「凛なにしてんの」
「えっと……体操着取りに……?」
「今日、体育なかったけど」
「あれ?そうだっけ……?」
アハハと笑いながら頭を掻く。
戸惑いながら笑う僕を見て千紘の顔はどんどん曇っていく。
ヤバい、本気で怒ってる。
これは、何かもっと良い言い訳を……
ボスを倒すための会心の一撃を今こそ!
「部活……」
「部活?」
「部活、千紘が居ないと楽しくないから、探しに来たんだけど……前野先生と話してたから、いつ声掛けようか迷ってて……ごめん」
僕は一体何を言ってるんだぁぁあぁ!
会心の一撃がこれか?!モブの僕が言ってもノーダメージだろ!
いくら焦っているとは言え、こんな少女漫画みたいなセリフをモブキャラである僕が言ってどうする!
自分の言った言葉に混乱しながら、目の前に立つ千紘の顔をチラッと見る。
きっといつも言わない言葉を言った僕に引いているだろうと思いながら。
でも目の前にあったのは僕の予想とは真逆の反応を見せる千紘の姿だった。
「き、急に何言ってんだよ!」
そう言って口元を腕で隠しながら、頬を染める千紘。
え?嘘だろ。
まさかの、僕の言った言葉に千紘が照れてるのか?
会心の一撃効果あり?
いやいや、そんなまさか……。
モブの僕の言葉に、このゲームの主人公である七瀬千紘が照れるはずない。
というか、そんなことがあったら困る
僕は心の中で何度も頷きながら、逃げるなら今しかないと思い千紘に背を向けながら言った。
「そうだよな!千紘、邪魔してごめんな!僕は部活に戻るよ」
兎に角この場から直ちに避難だ。
この後の二人のイチャラブを見れないのは少し心苦しいが、ここは仕方あるまい。
僕は千紘に「じゃあな!」と言ってバスケ部が活動する体育館の方へと走り出した。
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走り出した凛の後ろ姿を見つめる千紘。
『部活、千紘が居ないと楽しくないから……探しに来たんだ』
さっき凛が言った言葉が千紘の脳内でリピートされる。
いつも澄ました顔をしている凛がそんなことを言うことが信じられなかったんだろう。
ドクドクと加速する心音。
千紘は自分の胸ギュッと掴む。
今まで感じた事のない胸の違和感。
「確か彼は……霧島君だったかな?凄く元気な子だね」
「そうですね。元気すぎるくらい」
そう言った千紘は凛が走り去った方向を見ながら優しく笑う。
前野はというと、千紘と同じ方向を見ながら静かに微笑んだ。
その瞳は、微かに妖艶に満ちおり、まるで獲物を見つけた狩人のようだった。