第二十六話 「放課後デート。モブキャラの正体が明らかに?!」
外から視線を外し、声の聞こえてきた方を見る。
軽やかな足取りで微かに微笑みながら此方に近づいてくる男は、攻略対象キャラ達に引けを取らない容姿を兼ね備えた、美形モブ野郎こと海棠春樹だった。
何故コイツが此処に居る。
というか、どうして微笑みながら僕に近づいてくるんだ。
心の中で数々の疑問点を浮かび上がらせながらも、今はそれらを口にすることは無い。
つい先程あった、不知火さんからお伝えされた衝撃的事実のせいで、僕にはその元気すら残っていない。
勿論、この男の相手をする気力も。
凭れていた窓から離れた僕は、海棠さんが歩いてくる方と真逆の方向を目指して歩き始める。
後ろから足音が聞こえる気がするが、気づかないフリをしよう。
そうしよう。
「凛~どうして逃げるの?」
おっとりとした声が、確かに後ろから僕の名前を呼んでいる。
だが、此処で反応してしまえば、厄介な事になるのは明白。
鞄を持つ手に力を込めた僕は、歩く速度を徐々に上げ、長い廊下を無心で進んだ。
こんな最悪な気分で攻略対象キャラ観察何て出来る訳が無い。
今日は早く帰ろう。
早く帰って、兄さんの美味しいご飯を食べて、暖かい布団に入ってゆっくりと寝て、万全な状態(仮)を作り上げよう。
精神的HPが0になっていても、肉体的HPが100なら、きっとこれからも生きていけるさ。
気が付けば昇降口まで来ていた僕は、自分の靴箱へと行き、扉を開けようと手を伸ばした。
「待ってよ。」
だが、背後から聞こえてきた声とドンッと大きな音を鳴らし扉につかれた手が、僕の動きを制止させる。
微かに漂うラベンダーの香りが、その人物が誰であるのかをお知らせしてくれる。
そして、後ろから確かに感じる気配と少し影を落とす僕の視界を見るに、その人間との距離は約5センチ。
もう逃げられない事が確定してしまった僕は、相手にバレない様に小さく溜息を着いてから、ゆっくりと振り返り、僕を覆う人間を見上げた。
「またお前か、海棠春樹」
「やぁ、凛。偶然だね」
偶然じゃねぇだろうが、必然だろうが。
「……僕に何か用?」
コイツの言葉に反応していたら何時まで経っても帰ることが出来ない。
そんなことは分かっているので、僕は敢えて何も言わず静かに彼の要件を聞く。
だが、そんな僕の思いも虚しく、
「別に? 何も無いよ~」
ヘラヘラ笑いながらそう答える海棠春樹。
その答えにブチッと僕の中の何かが切れた。
「何もねぇなら、そこどけやぁぁああ!!」
気が付けば僕は、自分よりも20センチ以上もの差がある男の腹に、力強く握った拳を練り込ませていた。
この拳を受ければ普通の人間なら膝から崩れ落ち、蹲り、その痛みに涙を流すことだろう。
だが、目の前の男は違った。
練り込ませたはずの僕の手を、あろうことか優しく握り、まるで気遣う様に撫で始める。
何だ、コイツ正気か?
僕も成長段階とは言え、男子高校生だ。
しかも、バスケ部で毎日筋トレをしているのだから、そこそこ筋肉だってついているはずだ。
なのに、この男は……。
モブキャラでありながら、一般男子の拳を受けても尚、笑っている。
顔面の良い奴は、何に関してもスペックが高いとでも言いたいのか!
敗北感と苛立ちが交じり合い、僕は唇を噛み絞め俯いた。
海棠さんに握られた右手を何故だか振り払う気にはなれず、僕は動きを止める。
そんな僕の頬を伸びてきた手がそっと添えられ、ゆっくりと俯く顔が上げられた。
黄金色の瞳と視線が交わる。
「凛、何かあった?」
真っすぐな瞳と同じ率直な質問に僕は言葉を詰まらせた。
推しカプフラグが破滅したかもしれない。何て言える訳も無い。
話したところで、頭が可笑しくなったと思われるのがオチだ。
「別に何も……。」
「本当に? ……何も無いって顔には見えないけど…」
呟かれる海棠さんの声が、何故か僕の膨れ上がりそうな気持を掻き立てる。
今だけは、このよく分からないモブに縋っても良いだろうか。
このゲームに関係の無い人間だからこそ、何処か落ち着ける気がするから。
「……やっぱり、何も無く…ない。」
頬に添えられた手に自分の手を添わせ、小さな声で訴える。
そんな僕を見て少し目を丸くした海棠さんだったが、直ぐに何時もの優雅な笑みに戻すと、僕の顔を覗き込みながら口を開いた。
「それじゃ、俺とデートしよう」
「デート?」
「うん。 凛と行きたい処がいっぱいあるんだ!」
ずっと握られた右手はそのまま、スマートに僕の荷物を取り、手を引いて優々と歩き出す。
何がそんなに嬉しいのか、前から微かに聞こえる鼻歌を聞いてそう思う。
正直、攻略対象キャラ達とは何かと縁があって、日々の生活の中で絡む事が多いが、目の前を歩くモブキャラこと海棠さんとは学校で何度か話した位の仲だ。
だから、此処まで懐かれているのも正直不可解ではある。
でも、今はそんな事どうでもいいか……。
大きな掌から感じる微かな熱を感じ、この居心地の良い空間に身を任せる事に決めた僕は、繋がれた手に少し力を入れた。
####
僕は確か、海棠さんにデートに誘われたはずだった。
昇降口でアイツは確かに『デートに行こう』と僕に言った。
なのに、連れて来られた先は爆音でボーカロイドやアニソンが流れ、僕達同様に学生服を着た奴らが屯っているゲームセンター。
僕の中にあるデートの概念は、映画館やショッピングモール。
水族館に遊園地といった、ドキドキ・ワクワクするイベントが沢山転がり落ちている場所だ。
なのに何だ?
連れて来られた先がこんな喧しく、陽キャの集まる場所何て……。
「今すぐ帰りたい……」
「凛、次はあれをやろう!」
没落する僕とは反対に、海棠さんは生き生きとした目でゲームセンターの中を駆け巡る。
何がそんなに楽しいのか聞きたいが、全てのゲームに興味関心を持っている姿を見ていると、それを聞くのも野暮な気がして、僕は口を噤んだ。
ゲームセンターで色々なゲームに付き合う事二時間。
流石に疲れた僕は、センター内にあるベンチで荷物と共にお留守番をしていた。
あの男はというと、今度はユーホーキャッチャーに夢中になり金を散財している。
きっと何の成果も得られず、落ち込んで戻ってくるのがオチだろう。
仕方ないから、僕がこの130円の紅茶と共にお出迎えして慰めてあげようじゃないか。
そう思いながら、まだ未開封の紅茶を膝に乗せ、僕はアイスココアを飲む。
「凛~!見て~!!」
「ん?なに……ブフッツ!!」
名前を呼ばれ、顔を上げると持ちきれない程の景品を両手いっぱいに持って戻ってきた海棠さんの姿を見せる。
目の当たりにした光景に驚いた僕は、飲んでいたものを吹く。
「大丈夫?」
「…ゴホッ、ゴホッ!…ダイ…ジョウブ」
「はい、ハンカチ。」
「……どうも」
差し出されたハンカチを受け取り、口を拭う。
常にハンカチを常備しているなんて、この男なかなかやるじゃないか。
そんな事を思いながらも、僕の隣に置かれた沢山の景品へと意識を戻した僕は、前に立つ海棠さんを見上げ、口を開いた。
「この景品の山は何ですか」
「ん? 凛の好きそうな物が沢山あったから取ってきたんだ」
「僕の好きそうな物?」
よくよく隣を見ると、積み上げられた景品は人形とお菓子に偏りをみせていた。
いや、どういう印象だよ、僕。
だが、センスは悪くない。
最近見ているアニメのフィギュアや、僕がリピートして買っているお菓子、そして何より……
「これ、僕が一番好きなお菓子です」
景品の山から一つのお菓子を取り、海棠さんに見せる。
舐めると色と味が変わるという昔からある駄菓子。
小さい頃、よく近くの公園で兄ちゃん達と一緒に遊んでいた”お兄ちゃん”が、会う度に僕にだけくれた特別な飴だ。
まぁ、でも、そのお兄ちゃんは僕が小学四年生の時にパタリと姿を見せなくなったんだけど……。
あぁ、何だろう。
何か凄い虚しい気持ちになってきたな。
手元にある箱を見ながら、そんな事を考えていると……。
「まだ好きなんだ、それ」
「え?」
小さく、でも確かに聞こえてきた言葉に、僕は目を見開いた。
驚きながら顔を上げると、僕を見下ろす海棠さんは目を細めながら悲しみと喜びが入り混じった様な表情をしていた。
どうしてそんな顔をしてるんだ……?
訳が分からないが、その表情を見ていると妙に胸の奥がざわつく。
その時ふと、初めて抱きしめられた時に嗅いだ懐かしいラベンダーの香りとその腕の中の心地よさを思い出した。
僕は、何かを忘れてる? でも、一体なにを……。
海棠さんを見上げながら、必死に思考を巡らせていると……
「また口が開いてる。考え事する時のその癖、まだ直ってないんだね」
そんな僕を余所に、海棠さんは懐かしさに目を細める様に口元を隠しながら此方を見て笑った。
その仕草が、声が、幼い姿の彼と重なり、頭の中を巡っていた疑問を一気に晴れる。
「はる…きくん…?」
零れる様に出た一人の人物の名前。
それは、僕が四年生の時に姿を消した”お兄ちゃん”のものだった。
「やっと思い出してくれた? 久ぶりだね、凛」
信じられない出来事に僕は言葉を詰まらせる。
何の言葉も無しに突然姿を消したお兄ちゃんが、成長した姿で今僕の目の前に居る。
それがしかも、同じ学校のイケメンモブ野郎。
余りの急展開に僕の思考が追い付かないでいると、海棠さんは荷物を避け僕の隣へと腰を降ろす。
「えっと…良かったら、これどうぞ」
「ん? 俺に? ありがとう」
「いえ……」
七年ぶりの再会になる僕達だが、一体何を話せば良いのか分からない。
それに、隣で優々と紅茶を飲む海棠さんは、ずっと僕の事を気づいていた様子。
「凛、少し場所を変えない? 話したい事も沢山あるし」
「あ、はい……」
持ちきれない景品を二人で運びながら、僕達はゲームセンターを出て、海棠さん誘導の元歩き出した。
何処に行くとかの説明は無かったものの、何となく流れで予想は出来ていた。
きっとこれから行く所は、二人が初めて出会い、思い出の中心ともいえる場所。
『桜公園』だろう。
####
僕の予想は的中。
日が落ち、薄暗くなった時間。
僕達二人で訪れたのは、昔遊んだ家から徒歩五分程の場所にある”桜公園”だった。
因みに、どうして桜公園という、ありきたりな名所で呼ばれているかというと、春になるとこの公園は地域でも有名な花見スポットになるからだそうだ。
僕も毎年兄ちゃん達と一緒に花見をしに訪れる。
「そこのベンチに座ろうか」
「はい……」
気まずい空気の中、街灯下のベンチへと移動する僕らは、少し間を空けて座る。
流れる静寂。
公園で遊ぶ子供達も居ないこの場所は、風の音すら聞こえる程の静けさに包まれている。
どんな話を切り出すべきなのか、何から話せば良いのか分からず露骨に戸惑ってしまう。。
「凛」
その静寂を切ったのは、他の誰でも無い海棠さんだった。
いつの間にか立ち上がった彼は、僕の目を真っすぐ見て、そして深々と頭を下げた。
「え?!なになに?!」
「ごめん。…本当にごめん。 あの時、何も言わずに姿を消して」
真剣みの帯びた声色。
「良いよ。きっと何か理由があったんだろうし……」
「良くないよ。 凛にあんな顔をさせてたんだから。」
あんな顔とはどんな顔だろう……。
何て思いながら、頭を下げる海棠さんの肩と握られた拳が震えている事に気づく。
そんな姿に少し笑みを零しながら、僕はベンチから静かに立ち上がり、握られた拳を両手でそっと包み込む。
ビクンと跳ねた肩が驚きを分かりやすく表している。
少し間をおいて、上げられた顔に街灯の光が差す。
微かに潤んだ瞳と僕の視線が交わる。
僕よりも大きい目の前の男が、今はとても小さく見える。
「春樹君、僕と遊んでよ!」
僕はそんな彼の腕を引き、何時かの時の様に満面の笑顔でそう言う。
これは僕らを繋いでくれた魔法の言葉。
「…ッ?! ‥うん!」
####
どれくらいの時間が経っただろう。
誰も居ない公園で、いい年した男子高校生が二人、遊具で遊ぶ光景は余りにも酷なものだった。
いや、滑稽と言った方が正しいだろうか。
今になって実感し、突然羞恥心に襲われる。
「久しぶりにこんなに遊んだ……」
「俺もだよ……相変わらずブランコが好きなんだね、凛は」
「はぁ?! 別に好きじゃないし!」
疲れた僕達は、芝生になっている所に川の字になって寝転がり、満天の星空を見上げた。
明日もいい天気になりそうだな~何て思いながら。
「俺、六年生に上がると同時に親の転勤で引っ越すことが決まったんだ。 そのことは随分前から聞かされてて、本当は凛と最後に遊んだ日に話すつもりだったんだけど……」
春樹君の口から語られるあの日の出来事。
僕は何も言わず、ただその言葉に耳を傾けた。
「何も知らず楽しそうに笑う凛を見てたら、どうしても言えなかった。 悲しい思いをさせたくないとか……この笑顔を消したくないとか、色々考えて……」
「だけど…」と言葉を続ける。
「本当は怖かっただけなんだと思う。凛が自分の前で泣いてしまうことが……自分のせいで、凛が傷つくところを見る事が……」
お兄ちゃんが現れなくなってからも、僕は兄ちゃん達と公園で遊ぶ度に彼の姿を探した。
「もしかしたら今日はいるかも」と期待を込めながら毎日。
「引っ越しなら仕方ないよ……」
そう、仕方のない事だ。
親の都合は、子供がどうにか出来る問題じゃない。
成長した今だからそんな綺麗事が言えるが、きっと小学生の頃の僕なら泣きじゃくりながら「行かないで」と縋っていただろう。
予想がつくよ、もの凄く。
「そうだね、仕方ない。……だけど俺の中で凛の存在は本当に特別だったんだ。」
さっきまで綺麗な夜空が見えていた視界一面に春樹君の顔が映る。
「ずっと忘れられなくて…‥だから、高校に上がると同時に両親の反対を押し切ってまで此処に戻ってきたんだよ」
「春樹君、何か近くない?」
少しずつ、でも確実に近づく春樹君との距離。
話す度に息がかかり、春樹君の長い髪が僕の頬を掠める。
「凛が入りそうな高校を予想して入学したは良いけど、本当に最初は不安だったよ」
「はぁ……」
そんな理由で偏差値60の我が校に入学を決めるとは何事か!!
顔面も良くて、ルックスも良くて、頭も良いときた!
同じモブキャラの癖に、僕が持っていないモノを持ちすぎなんじゃないのか?!
「でも、暫くして同じ学年に裕斗と秋が居るって知って、凛もきっとこの学校に来るって確信を持ったよ」
「もし俺が別の学校に行ってたらどうするつもりだったんだよ……」
「それはないね。あの二人が凛を別の学校に入れる何てありえないし」
当たり前だと言わんばかりの口調と表情に、僕は唖然とした。
言い切るのか……。
確かに、二人は僕や千紘の事になると途端に過保護になるけど……。
「そこまで言い切るんだ……」
「小さい俺でも驚く位の過保護っぷりだったからね」
昔の事を思い出したのか、クスリと笑う春樹君。
それにつられる様に、僕も笑ってしまう。
だが、そこで一つの疑問が浮かびあがってきた。
「でも、もし仮に僕が同じ学校に入学しなかったらどうするつもりだったの?」
「そんなの転校するに決まってる」
僕の問いかけに即答で返ってきて言葉は予想の斜め上を超えていた。
凄い、転校何て簡単に出来るものでも、言えるものでも無いのに。
この男は、表情一つ崩さず言ってのけたぞ。
僕には分かる。
これはまさしく、金持ちの発想だ。
春樹君は、お坊ちゃんに違いない!!
「いや、そこまでしなくても……」
「そこまでするよ! 凛は僕にとって、それくらい大事な存在なんだ!」
力強く、真っすぐに浴びせられる愛情が含まれた言葉と視線に、カーッと顔が熱くなる。
そして集まった熱が、まるで胸にも伝染していくように心臓を熱くさせる。
ドクンドクンと心音が聞こえてくる。
なんだこれ、なんだこれ!!
主人公である千紘が色々な攻略対象キャラ達に愛を囁かれているのは見てきたが、自分がその立場になると、どうすれば良いのか分からないではないか!
というか、イケメンに芝生で床ドンされているこの状況!!
モブである僕が受けてもいい代物なのか?!
満天の星空の下、二人の想い出の場所で愛を囁かれるというシチュエーション。
うん、いい。 最高です。
ってちがぁぁぁああう!!!
待て待て! 冷静になるんだ、僕!
僕は女の子が大好きな、ノーマル男子高校生!
腐を心から愛してはいるが、自分がそっち側に行くことは断じて望んでいない!
逸らした視線を春樹君へと戻し、僕は彼の頬を軽く抓った。
「そういうのは、好きな女の子にでも言ってあげなよ。 それと、重いからどいて」
出来るだけ自然に淡々と言葉を投げ、逞しい胸板を押す。
そうして僕に覆いかぶさる春樹君が退いてくれるのを待っていると、
「俺が好きなのは、今も昔も凛だけだよ」
その言葉と同時に、視界が春樹君で埋まった。
近すぎて良く見えない距離にある春樹君の顔。
塞がれた口のせいで呼吸が出来ず苦しい。
だが、そんな中でも確かに感じる唇の温かさは一体何だろうと考える。
何故だが冷静な自分の思考回路。
暫くして離れた温もりと共に春樹君の顔が、またしても視界にハッキリと映し出される。
何が起きた?
「突然こんな事してごめん……」
その謝罪の言葉が何処か遠くに聞こえる。
ハッキリと唇に残る熱と感触に頭が混乱して其れ処では無い。
僕は今、春樹君にキスされたのか?
接吻か??
あれだよな? 唇と唇が引っ付く……あの……。
そんな…そんな、まさか!
あ、分かったぞ。これは夢だ、夢に違いない!
「でも、俺は好きでも無い子にキスなんてしないから。それだけは分かってほしい」
だが、そんな俺の思考錯誤も虚しく、目の前の相手から告げられた言葉が全て現実であることを強く突き付けてくる。
何か言おうにも、何を言えばいいのか分からず口ごもる僕を見て、春樹君は表情を少し曇らせた様に見えた。
「……帰ろうか」
「う、うん」
その言葉で離れた二人の距離。
先に立ち上がった春樹君が僕に手を差し出す。
戸惑いながらも、その手を取り立ち上がると、二人で荷物が置いてあるベンチへと向かう。
二人の間に説明のつかない静寂が流れる中、何を話すでもなく春樹君は僕を家へと送ってくれた。
「また明日。おやすみ、凛」
「うん、おやすみ…」
「じゃぁね」と言って立ち去る春樹君の背中を見送って、僕も家の中へと入る。
その後の事はよく覚えていない。
何時もなら飛びつく我が兄の美味しいご飯も今日ばかりは口に入りそうになく、制服を脱ぎ散らかした僕は、ただ静かにベッドに横になって眠りについたのだった。