喪失と「これから」について。
先日、手痛い喪失を経験した。
僕がよく用いていた機械が、紛失した。
その手痛さ、精神的ダメージと喪失は計り知れないものがある。その理由に、この文章を打つ手が若干、震えているという奇異な体験に遭遇中であり、あまりいい気分ではない。
何故、喪失したのか。その理由は、凄く単純な失敗が原因となっている。
飲酒だ。飲酒に次ぐ飲酒。泥酔という破壊的状況の危険性について、知らなかった、体験していませんでしたでは通らない程度の失敗は、過去、経験済みである。ここでの教訓として、再確認が必要となるものは、喉元過ぎれば熱さを忘れる、という奴だ。
そう。何時だって、僕らは、熱さを忘れている。何かを忘れながら、何かの為に、若しくは動機など不在で、息をしている=漫然と生きている訳だ。何時だって、気付かない。その事実は、ヘーゲルのミネルヴァの梟の、例の一文を思い出すほどだ。
この喪失から、学ぶものを考えていくと、喪失した機械との思い出が鮮明に蘇ってくる様だ。あんなことも、こんなことも...色々な音楽的体験の過去性と、その将来性を喪失した。悲しいと言えば、悲しい訳だが、感情的な揺れ動きはいずれ風化する事を僕は知っているし、この振り返りも、感情が起因している訳で、意味論的問いかけ自体に、意味があるのかは、正直、よくわからない。それどころかこの文章は、多分、僕個人による表出だろうか。
この体験を繰り返したいか。この問いが、今回を通した中では、最大級の問いかけとなるだろう。繰り返したくはない。それほど、今回の喪失は人生体験の中でも、大きい部類に入る、明確な失敗であった。
自己啓発的展開、お決まりのパターンと化した、これからについてを語ろう。これからどうするのか。前提となる事実は、機械は二度と戻らないというもの。それにより、僕は、外で音楽を聴く事が、実質的に不可能になった。この不可能になった事実性を大切にしたい。その為、状況の再帰=それらを買い戻すこと、は辞めよう。そうしたら、幸福になるかもしれないが、そこに過去からの進歩はないように思う。
喪失とは、傷であるべきだ。傷は傷跡として、目に見える形で現前されていなければいけない。いけない=意味がない、である。又、傷とは証でもある。それは生の証でもあり、歴史性でもある。それを見た時に哲学的問いかけが始まるような、そんな象徴であるべきだ。哲学を齧っているのならば、尚更である。
この文章を見ることで、機械に対する多角的思索が浮かび上がるような体験となる事=そのような意識付けとして、機能するような今後の僕自身の精神性に期待したい。