第9話:エピローグ
「う……ん」
室内を眩く照らす照明。目に差し込む光がぼやけた頭を徐々に活性化させる。周りには高く建ち並んだ本棚、本が放つ独特の紙の匂いもどこか懐かしい。
「戻って……来たのか」
いつの間にか仰向けで倒れていた自分の体をゆっくりと起こしながら辺りを見渡す。間違いなくここは古書店ネグロゴンド。チャオズに似た村人もすぐ発狂する女神もいない、少し変わったただの本屋である。
俺はハァーと大きな溜息をつく。無事戻って来れた安堵感と微妙な達成感、そして本の中に入るというにわかには信じがたい不思議体験を今の今まで自身が証明していた事に対する興奮と遅れてやってきた緊張。今回の出来事は今まで生きて来た中で一番の衝撃といっていいだろう。
……っと、そういえば斧子さんは?
今回の騒動の発端でもある斧を頭に携えた不思議な女の子の姿は見当たらない。金の斧と銀の斧の童話世界から出る間際に斧の『呪い』は解消されていたっぽいので大丈夫だとは思うが……
「お疲れだったね、眼真くん。大丈夫かい」
背後からポンッと俺の肩を叩いて声をかけて来たのは古書店の主でもある王子店長だった。
「あ、はい。なんとか」
うまく言葉が出て来ず愛想のない返事をする。少し警戒も入っていたからだ。この優男の店長、見かけによらずとんでもない人だ。何せあの魔本の著者なのだから……この人って警察につき出したら色々な意味で捕まるのではないだろうか。
「そんな犯罪者を見るような目で見ないでおくれよ」
「あ、え……いや、そんなつもりは全然……ただ今更ながら呆気に取られていまして」
俺は正直な感想を述べる。童話の世界に入るなど半信半疑だったのは事実だ。
「しかし眼真くんは大したものだね。初めての童話の世界で見事にハッピーエンドの決着をつけて来たのだから」
「いえ、俺は文字通り何もしていなくて、あれは斧子さんが……って、王子店長は童話の中で何が起こったか知っているんですか?」
「うん。知っているよ、描かれているからね」
そう言って『金の斧と銀の斧』と書かれた分厚い絵本を懐から取り出す。それはまさしく俺たちが先ほどまで入っていた童話の絵本だった。
王子店長は何も言わずに俺の方に本を向けてパラパラとページの最後の方をめくって行く。
「こ、これは!?」
確かに先ほど見た時は後ろの方に余白のページがあったはず……その余白が見事に埋まっている。
「童話にはね、それぞれの解釈があっていいと思うんだ。十人十色の結末があっていい。だから僕が書く絵本童話に結末は描いていないんだ、読者がそれぞれの想いを馳せて自分の物語を作っていけるようにね」
「……つまりこの本の続きを描いたのは俺と斧子さんって事ですか?」
「そうだね。この金の斧と銀の斧だけでも何十冊とこの書店には置いてあるのだけれど、そのどれもが違う物語になっているんだよ。君たちが君たちで作った君たちだけの本……それがこの本さ」
そう言って王子店長は最後のページを開く。
そこには水洗トイレの便器となった女神さまと、傍らで寄り添うように座る村人A。それを優しげな表情で見ている斧の少女と赤い悪魔の姿が描かれていた。
「って、やっぱり俺レッドアリーマじゃねーか!」
「え……驚くところそこかい?」
「驚くよ! いや、実際には体験した出来事がそのまま本に浮かび上がるっていう幻想的な話なのかもしれないけど、そんな事が吹っ飛ぶくらいの衝撃だよ!」
「そうは言うけど眼真くん。史上最強の雑魚モンスターになれる機会なんてそうそうないよ?」
「趣旨変わってるよ!」
俺、本の中でずっとモンスターだったの!?
興奮のあまり王子店長へと詰め寄る。
「とにかく一旦落ち着いて、心拍数が上がり過ぎると体に良くないよ。ほら、凍れる時の秘宝を使うんだ」
「使えるかぁ!」
なんなんだこの店長は、なんなんだこの古書店は! 斧子さんもよくこんな店で働いてるよな……
……あ。
激昂から覚めてふと我に返る。
「えっと……そう言えば斧子さんは?」
「あぁ、彼女なら先に意識を取り戻していたからね。君の事を心配していたのだけれど、大丈夫だからと仕事に戻って貰ったんだよ」
「そうなんですか……で、その……斧子さんの『呪い』は大丈夫なんですかね?」
「うん、心配しないで。もう大丈夫、君のお蔭さ」
そうか……今日一日本当に色々な事があったが結果的に彼女の危険が取り払われたのであれば本当に良かった。
「でも俺、本当に何もしていないんですよ。頑張ったのは斧子さんで……一人でも『呪い』を解けたんじゃないかな」
もごもごとした俺の言葉に王子店長は笑顔で返答する。
「そんな事はないさ。少なくとも君がいなければ泉の女神は本音をぶつけてくる事はなかっただろう。意味がないと思う事は意味があると思っている事より実は重要な役割を果たしていたりするものだよ」
「そんなものですかね?」
「そんなものだよ。少なくともこの本は君たちの合作だ。一人では完成し得なかった素敵な本だと思うよ」
その言葉に胸がスゥーと軽くなる。もし俺が少しでも彼女の力になれたのであればこの場所に来た甲斐もあったというものである。
「眼真くん。良かった、目が覚めたの?」
後ろから声がする。今日で随分と聞き慣れた声だ。
「あ、斧子さん。はい、もうパッチリです」
笑顔で斧子さんの方へと振り返る。そこには両手に本を抱えて仕事している元気そうな斧子さんの姿が……って……え?
俺は目を丸くする。それもそのはず、斧子さんの頭には光り輝く王斧がさっくり刺さっていたからだ。
「キ、キングアックスゥゥゥゥ!!」
「あ、気付いてくれた。えへへ」
「えへへ、じゃないですよ! なんで斧がグレードアップしているんですか!?」
「それは女神さまにお願いをしたからです」
人差し指を立てながら説明口調に話す斧子さん。
「お願いをしたからです……じゃねぇぇぇ! 鉄の斧からキングアックスに変わってむしろ状況が悪化しているじゃないですか! なんでそんなお願いするんですかぁ!」
「え? カッコいいからですけど……?」
「ふざけんなぁぁぁぁ!!」
何が『呪い』だ。君の思考の方が呪われてるよ!
「まあまあ眼真くん。斧子ちゃんも気にいっているようだしいいじゃないか。人の価値観も十人十色だよ」
「はい、この斧よく光るから夜道とかでも安全なんですよ」
そんなアンコウ提灯みたいな使い方を!?
「形も綺麗だし、こんな斧が貰えるなんて思ってもみなかったから……ありがとう! これも眼真くんのお蔭だよ!」
弾けんばかりの笑顔を向けてお礼を言う斧子さんに不覚にもドキッとする。とても複雑な「ありがとう」ではあるが本人がこんなに嬉しそうなのではこれ以上否定をする事もできない。
ほくほく顔で仕事に戻る斧子さんの頭からぶら下がっている斧を見つめながら、ぽりぽりと頭を掻く。確かに価値観というものは人それぞれ……しかしこの斧を携えた少女の価値観を理解するには俺はまだまだ経験が足りないようである。