Magical 80’s Pop Street ― 誰も名前を思い出せない歌手 ―
八十番通りには、雨がよく似合う。
そう言ったのは、誰だっただろう。
たぶん、客の誰かだ。あるいは、昔この通りを撮りに来た映画学校の学生だったかもしれない。ネオンの残骸と、濡れたアスファルトと、閉じたシャッターに貼られた古いポスター。夜になると、そういうものが全部、少しだけ綺麗に見える。
綺麗に見えるだけだ。
実際の八十番通りは、駅前再開発から外れた古い商店街で、昼間はさびれ、夜は若者が写真を撮りに来る。昭和レトロでも、平成ノスタルジーでも、シティポップでも、名前は何でもいい。時代に置き去りにされたものは、流行が一周すると、急に「味がある」と呼ばれる。
通りの角に、《マジカル・エイト》というレストランカフェがある。
レストランと名乗るにはメニューが少なく、カフェと名乗るにはコーヒーがまずい。壁には古いレコードジャケット、安物のミラーボール、電源の入らないジュークボックス。カウンター奥のテレビでは、字幕付きのニュースが無音で流れている。
昼過ぎ、店は空いていた。
窓際の一番奥。
そこだけ、いつも席が空いている。
誰かが予約しているわけではない。札もない。だが常連は座らない。初めて来た客が座ろうとすると、店の空気が一瞬だけ固くなる。
その席について、ウエイトレスは言った。
「まあ、都市伝説って言えば都市伝説ね」
彼女は五十代半ばに見えた。
派手な赤い口紅、明るく染めた髪、年季の入ったエプロン。名札には《ミキ》と書かれている。取材用のボイスレコーダーを向けられても、緊張した様子はない。むしろ、何度も同じ話をしてきた人間の、少し飽きたような余裕があった。
テーブルの向かいには、若い記者が座っている。
ウェブマガジンの記者だ。といっても、本人がそう名乗っているだけで、実際には都市伝説系の動画チャンネルと、炎上ネタを拾うニュースサイトを行き来しているフリーライターらしい。
「その席に、昔の歌手が出るんですよね」
記者が身を乗り出す。
「出るって言い方、あんまり好きじゃないのよ」
ミキはカップを拭きながら言った。
「お化け屋敷じゃないんだから」
「でも、見える人には見える」
「そうね。見える人には見える」
「ミキさんにも?」
ミキは笑った。
「さあね」
窓際の席には、誰もいない。
午後の日差しがレースのカーテンを透かし、白いテーブルクロスの上に淡い模様を落としている。灰皿はもう置かれていない。数年前に全面禁煙になったからだ。それでも、古い客はたまに言う。
あの席だけ、煙草の匂いがする、と。
記者はスマホを取り出し、画面を確認した。
「ええと、資料によると、その人は八十年代後半に一曲だけヒットを出したポップス歌手。バンドのボーカル。中性的な美貌で人気が出たけど、その後は鳴かず飛ばず。薬物依存、スキャンダル、失踪騒ぎ、最後は自殺……」
「詳しいじゃない」
「でも、名前が出てこないんですよ」
記者は画面をミキに見せた。
「当時のチャートを調べても、該当しそうな人はいるんです。でも、どれも違う気がする。ネットのまとめも曖昧で、コメント欄でも意見が割れてる。『あいつだろ』って名前が何人も出るのに、誰も確信してない。顔写真も残ってるようで残ってない。古い雑誌の切り抜きはあるのに、なぜか顔だけ白飛びしてたり、印刷が潰れてたりする」
「昔の印刷なんて、そんなものよ」
「でも、歌は残ってるんです」
記者はイヤホンを片方だけ耳に差した。
スマホから、小さく音が漏れる。
軽いシンセドラム。
甘いベースライン。
夜の高速道路を走るようなキーボード。
それは、少し古臭く、少し洒落ていて、どうしようもなく懐かしい曲だった。知らないはずなのに、どこかで聴いたことがあるような気がする。
「この曲、最近ショート動画で流行ってるんです。タイトルは残ってます。でも歌ってる人の名前が、なぜか空欄なんですよ。配信サービスでも、アーティスト名が Unknown になってる。公式なのに」
ミキはコーヒーポットを置いた。
「忘れられたがってるんじゃない?」
「本人が?」
「この世のどこかには、思い出されるくらいなら消えたい人もいるのよ」
記者は少し黙った。
外では、空が曇り始めていた。
八十番通りの雨は、いつも前触れなく来る。
「それで」
記者は気を取り直したように言った。
「その人が、ここに通っていたんですね」
「毎日じゃないわ。でも、よく来てた」
「いつ頃ですか」
「さあ。ずっと昔」
「自殺する前?」
ミキはカップを拭く手を止めた。
「たぶんね」
たぶん。
その言い方が妙だった。
「彼はいつも、あの席に座ってた。コーヒー一杯で何時間も粘るの。昔はね、声をかける人もいたのよ。ファンです、握手してください、サインくださいって。落ちぶれたあとも、最初のうちはまだそういう人がいた」
ミキは窓際の席を見た。
「そのうち、ファンじゃない人が声をかけるようになった。昔は売れてたんでしょ、とか、あの曲しか知らないけど、とか、今なにして食べてるんですか、とか。悪気がないぶん、ひどい言葉ってあるのよね」
「本人は怒ったんですか」
「怒らなかった。笑うだけ」
「いい人だったんですね」
「いい人なら、死んだあとに女の子を連れていかないでしょ」
記者の手が止まった。
ミキは、あっけらかんと笑った。
「冗談よ。たぶん」
雨が降り出した。
細い雨だった。
古いネオン看板に雨粒が当たり、ぱらぱらと乾いた音を立てる。通りの向こうで、誰かが走る足音がした。ドアベルが鳴る。
若い女性が店に入ってきた。
髪も、肩も、薄いコートも濡れている。年は二十代前半くらい。透明なビニール傘は持っていない。スマホだけを胸に抱え、店内を見回す。
「いらっしゃい」
ミキが声をかけると、女性は小さく頭を下げた。
「すみません。雨宿りしてもいいですか」
「もちろん。好きな席へどうぞ」
店内は空いている。
空いているのに、女性は迷わず奥へ歩いた。
窓際の一番奥。
いつも空いている席へ。
記者が目を上げた。
ミキは何も言わなかった。
女性は席の手前で立ち止まった。
彼女の顔が、ふっと変わる。
驚き。
喜び。
信じられないものを見たときの、無防備な明るさ。
「あ……」
誰もいない席を見つめて、女性は言った。
「本当に、いた」
記者の背筋に、冷たいものが走った。
その席には、誰もいない。
少なくとも、記者にはそう見える。
だが女性は、そこに誰かが座っているように微笑んでいた。
「ずっと探してたんです」
女性の声は震えていた。
「あなたの曲、母が好きだったんです。小さいころ、車の中で何度も聴いてて。わたし、タイトルも知らなくて、歌詞もうろ覚えで。でも最近、動画で流れてきて……やっぱりこの曲だって」
店内の空気が、変わった。
無音だったテレビの画面が一瞬乱れた。
ジュークボックスのランプが、点くはずもないのに、かすかに瞬いた。
女性は濡れた髪を耳にかけ、恥ずかしそうに笑った。
「座ってもいいですか?」
返事は聞こえなかった。
だが女性は、嬉しそうに向かいの席へ座った。
ミキは黙って、コーヒーを二つ淹れた。
「二つ?」
記者が小声で聞く。
「注文よ」
「誰の?」
「見える人の」
ミキはトレイを持ち、窓際へ向かった。
テーブルの上に、コーヒーを二つ置く。
片方は女性の前に。
もう片方は、誰もいない席の前に。
湯気が、二つとも同じように立った。
記者は喉を鳴らした。
「……今の、撮っていいですか」
「やめときなさい」
「でも、これは」
「撮れないわよ」
記者はスマホを向けた。
画面の中には、女性が一人で座っているだけだった。コーヒーも一杯しか映っていない。湯気もない。空席。白いテーブルクロス。窓の雨。
肉眼で見ると、コーヒーは二つある。
スマホには、一つしか映らない。
「なにこれ」
記者がつぶやいた。
ミキは答えなかった。
女性は楽しそうに話している。
「母がね、あなたのポスターを持ってたんです。白いシャツで、カーテンの向こうからこっちを見てる写真。すごく綺麗で、男の人なのに、お姫様みたいで」
彼女は少し笑った。
「ごめんなさい。変な言い方ですね。でも、本当に綺麗だったから」
誰かが笑った気がした。
記者には聞こえない。
けれど、窓際のカーテンが、風もないのに揺れた。
「名前を教えてください」
女性は言った。
「母も、どうしても思い出せないって言ってたんです。曲は歌えるのに、顔も覚えてるのに、名前だけが出てこないって。わたしも調べたけど、わからなくて」
席の向こう側。
空気が、少しだけ白く滲む。
そこに、誰かの輪郭があるように見えた。
長い髪。
青白い肌。
細い首。
優しげな目。
記者はまばたきをした。
もう見えない。
女性は手帳を取り出した。
「サイン、もらってもいいですか」
返事はない。
だが、彼女はペンを差し出した。
ペンが、空中で止まった。
いや、誰かが受け取った。
記者は椅子から立ち上がりかけた。
ミキがその手首を掴んだ。
「座ってなさい」
「今、ペンが」
「座ってなさい」
ミキの声は、初めて鋭かった。
女性は身を乗り出した。
「名前、入れてもらっていいですか」
しばらくして、彼女は嬉しそうに笑った。
「はい。マナです」
ペン先が紙を滑る音がした。
紙には、何も書かれていない。
記者には、そう見えた。
それなのに女性は、泣きそうな顔で手帳を胸に抱いた。
「ありがとうございます」
雨は強くなっていた。
午後はいつの間にか夕方になり、夕方はいつの間にか夜に変わっていた。八十番通りの看板が、濡れた路面に滲んでいる。店のスピーカーから、誰が入れたのかわからない音楽が流れ出した。
軽いシンセドラム。
甘いベースライン。
夜の高速道路を走るようなキーボード。
記者のスマホに入っていた、あの曲だった。
女性は顔を上げた。
「これ……」
そして、空席のほうを見て笑った。
「一緒に歩きませんか」
ミキがカウンターの内側で、そっと目を伏せた。
記者は立ち上がった。
「待ってください」
女性は振り返る。
「はい?」
「どこへ行くんですか」
「少しだけ」
「その人、見えてるんですか」
女性は不思議そうに瞬いた。
「あなたには見えないんですか?」
記者は答えられなかった。
女性は、少し申し訳なさそうに笑った。
「すごく綺麗な人ですよ」
そう言って、彼女は店を出た。
ドアベルが鳴る。
雨の通りへ、女性が歩いていく。
その隣に、誰かがいる。
記者には見えない。
けれど、彼女は確かに誰かと並んで歩いていた。肩が濡れないように、誰かが傘を差し出しているような距離感だった。傘などないのに。
「追わないほうがいいわよ」
ミキが言った。
「なんで止めないんですか」
「止めても、行くもの」
「行方不明になるんでしょう?」
「たぶんね」
「警察には?」
「何度も言ったわ。見えないものは事件にならないの」
記者はドアへ向かった。
外に出ると、雨の匂いが強かった。
八十番通りのネオンは半分死んでいる。古着屋、レコードバー、閉店した映画館。通りの奥には、今は使われていないライブハウスがある。かつてバンドマンたちが夢を見た場所。今は地下アイドルのイベントと、怪談ライブと、たまに自主映画の上映会に使われているだけだ。
女性の姿は、通りの角に見えた。
彼女は誰かと話しながら歩いている。
記者は追った。
「待って!」
声は雨に消える。
曲が、どこからともなく聞こえてくる。
さっきより大きい。
さっきより近い。
記者は息を切らしながら角を曲がった。
そこは、通りの裏手にある細い路地だった。
古い建物の壁に、破れたポスターが何枚も貼られている。八十年代の映画、古いライブ告知、誰かの選挙ポスター。その上に、最近のステッカーや落書きが重なっていた。
女性が立ち止まっている。
その前に、人影があった。
記者にも、今度は見えた。
長い白銀の髪。
青い目。
白いシャツ。
レースのカーテン越しに見たような、淡く整った顔。
彼は本当に美しかった。
現実の雨に濡れているのに、どこか古いミュージックビデオの中から抜け出してきたようだった。照明もないのに輪郭だけが輝いて、路地の汚ささえ彼の背景になる。
女性は息を呑んだ。
「本当に……変わらないんですね」
彼は微笑んだ。
記者は、その笑顔に見覚えがある気がした。
知らない。
名前も知らない。
なのに、懐かしい。
思い出せない夢の中で、一度だけ会った人のような顔。
「マナさん!」
記者が叫ぶと、女性が振り返った。
その瞬間、路地の空気が変わった。
ネオンが消えた。
雨音が止んだ。
かわりに、古い観客の歓声が聞こえた。
見えないはずの照明が、路地の壁を青く染めた。
地面がステージに変わる。
割れたアスファルトの隙間から、白い煙が這い出す。
ポスターの中の顔が、ゆっくりとこちらを見た。
記者は後ずさった。
路地の奥から、人々が現れる。
腐った死体ではない。
もっと嫌なものだった。
古いファンたち。
白く褪せた顔。
目だけが異様に輝いている。
缶バッジをつけた少女。バブル期のスーツを着た女。ラジカセを抱えた少年。ライブ会場のチケットを握ったまま老いた手。誰もが、過去のどこかで止まった格好をしている。
彼らは口々に言った。
「覚えてる」
「まだ覚えてる」
「名前は思い出せないけど」
「曲は歌える」
「顔は覚えてる」
「私だけは、忘れてない」
女性は震えていた。
「なに……これ」
彼が、女性の頬に触れた。
優しい手つきだった。
ひどく優しい。
だからこそ、逃げられない。
「忘れないで」
声がした。
彼の声だった。
甘く、柔らかく、耳元で歌うような声。
「誰も、僕の名前を呼ばなくなった」
女性は涙を浮かべた。
「呼びます。教えてくれたら、わたしが」
彼は微笑んだ。
「思い出せないんだ」
その言葉で、記者は理解した。
彼自身も、もう自分の名前を覚えていない。
バンド名も。
ヒット曲のタイトル以外も。
死ぬ前に愛した人の顔も。
自分がどんな声で笑っていたのかも。
残っているのは、若く美しい姿と、一曲だけ。
そして、忘れられたくないという飢え。
彼の口元が裂けるように笑った。
美しい顔のまま、影だけが歪んだ。
目の奥が、暗い穴になる。
女性が悲鳴を上げた。
彼女は突き飛ばすように逃げ出した。記者も足を動かそうとしたが、身体が重い。歓声が耳を塞ぐ。足元から白い手が伸び、靴を掴む。
女性は路地を走った。
昔のファンたちが追いかける。
走り方は遅い。けれど、距離が縮まる。
彼女はライブハウスの非常口を押し開け、中へ飛び込んだ。
記者も追った。
中は暗かった。
埃と湿気と、古い煙草の匂い。
ステージには何もない。
客席には、壊れた椅子が積まれている。
それなのに、どこからか曲が鳴っている。
あの曲。
何度も何度も、同じサビだけが繰り返される。
女性はステージ袖で転んだ。
記者が駆け寄ろうとした瞬間、照明がついた。
ステージ中央に、彼が立っていた。
白いシャツ。
濡れた長い髪。
青い目。
あまりに綺麗で、あまりに空っぽだった。
「拍手を」
彼が言った。
客席から拍手が起こる。
誰もいない客席から。
女性は泣きながら首を振った。
「違う。わたしは、ただ、曲が好きで」
「ありがとう」
彼は微笑む。
「それだけでいい」
彼の背後に、レースのカーテンが降りてくる。
ライブハウスには不釣り合いな、白く透ける布。
その向こうで、彼の影が揺れる。
マジシャンのように。
ポップスターのように。
死者のように。
「見ていて」
彼は手を差し出した。
「最後の魔法だから」
女性の身体が、ゆっくりと浮いた。
記者は叫んだ。
「やめろ!」
彼がこちらを見た。
初めて、記者の存在を認めた。
青い目が、静かに細まる。
「君は、僕を覚えてくれる?」
記者は声が出なかった。
その問いに、答えてはいけない気がした。
覚える。
その言葉が、餌になる。
忘れない。
その約束が、鎖になる。
女性が宙で苦しげに手を伸ばす。
記者はステージ脇の機材箱を掴み、彼へ投げつけた。
箱は彼の身体をすり抜け、床に落ちた。
だが、音響ケーブルに引っかかり、古いアンプが倒れた。
耳を裂くハウリング。
曲が乱れる。
ステージの照明が明滅し、客席の見えない拍手が悲鳴に変わった。
女性の身体が床に落ちる。
彼の顔が初めて歪んだ。
美しい表情ではなかった。
古い薬瓶の底に残った濁りのような、惨めで、怒った顔だった。
「邪魔をするな」
彼が歩いてくる。
記者は女性を引き起こした。
「走って!」
ふたりは非常口へ向かった。
背後で、歌が聞こえる。
歌詞はもう言葉になっていない。
誰も名前を呼ばない歌手が、自分の名前を探すように、壊れた旋律を繰り返している。
非常口のドアが開かない。
女性が泣きながらドアを叩く。
「開いて、開いて!」
彼が近づく。
白い指が伸びる。
記者はスマホを取り出した。
ライトをつける。
撮影画面を開く。
彼は映らない。
だが、音声波形だけが異常に跳ねている。
記者は叫んだ。
「名前を言え!」
彼が止まった。
「言えるなら言ってみろ! 自分の名前を!」
彼の顔から、怒りが消えた。
かわりに、空白が広がった。
口が動く。
声は出ない。
彼は、自分の名を言えない。
誰からも忘れられ、世界から記録を剥がされ、自分自身からも抜け落ちた名前。
その空白だけが、彼をこの世に縛っている。
女性がドア横の消火器を掴んだ。
安全ピンを抜き、彼へ向ける。
白い粉が噴き出した。
彼の輪郭が崩れる。
レースのカーテンが裂けるように揺れた。
女性は叫んだ。
「あなたなんか、知らない!」
その言葉が、刃になった。
彼が動きを止める。
美しい顔が、悲しそうに微笑む。
次の瞬間、彼は消えた。
曲も止まった。
拍手も。
歓声も。
ステージには、雨音だけが残った。
非常口が、あっけなく開いた。
ふたりは外へ転がり出た。
八十番通りの裏路地。
雨はまだ降っている。
女性は消火器の白い粉と涙でぐしゃぐしゃになりながら、地面に座り込んだ。
「終わった……?」
記者は答えられなかった。
スマホの画面を見る。
録画はされていなかった。
ファイルが存在しない。
ただ、音楽アプリだけが勝手に開いていた。
再生履歴に、知らない曲が一曲ある。
アーティスト名は、空欄。
タイトルも、空欄。
再生時間は、四分四十四秒。
翌日。
記者は《マジカル・エイト》へ戻った。
店は昨日と同じだった。
まずいコーヒーの匂い。
古いジュークボックス。
無音のニュース。
窓際の席は、空いている。
ミキがカウンターから顔を上げた。
「あら。生きてた」
「マナさんは?」
「誰?」
記者は息を止めた。
「昨日、ここに来た女性です。雨宿りして、あの席に座って、彼と話して」
ミキは首を傾げた。
「そんな子、来たかしら」
「ふざけないでください」
「ふざけてないわよ」
ミキは窓際の席を見た。
「この店、昨日はあなた以外ほとんど客なんていなかったもの」
記者はスマホを開いた。
撮ったはずの写真はない。
録音もない。
メモアプリを開く。
昨日打ち込んだ取材メモが、途中から空白になっている。
ただ一行だけ残っていた。
――八十番通りには、雨がよく似合う。
誰の言葉か、思い出せない。
「その顔」
ミキが言った。
「少し見たのね」
「あなた、知ってるんでしょう」
「知ってることは、だいたい忘れたわ」
「彼の名前は?」
「忘れた」
「本当に?」
ミキは笑わなかった。
「忘れないと、連れていかれるのよ」
記者は窓際の席を見た。
そこには誰もいない。
だが、テーブルの上にはコーヒーが置かれていた。
湯気が立っている。
ミキは、いつの間にか淹れていたのだろうか。
「誰のですか」
「さあ」
そのとき、店のスピーカーから音が流れた。
軽いシンセドラム。
甘いベースライン。
夜の高速道路を走るようなキーボード。
記者は耳を塞ぎたくなった。
でも、できなかった。
懐かしい。
とても懐かしい。
知らないはずなのに。
窓際の席で、カーテンが揺れた。
白い布の向こうから、誰かがこちらを見ている。
美しい目だった。
青く、静かで、少し寂しそうな目。
記者は自分の口が勝手に動くのを感じた。
「あなたの、名前は――」
ミキの手が、記者の頬を叩いた。
乾いた音が店に響いた。
曲が止まる。
窓際の席には、もう何もいなかった。
「帰りなさい」
ミキは言った。
「記事にするなら、好きにすればいいわ。でも、名前を探そうとしちゃだめ。あの人はね、名前を思い出してほしいんじゃないの」
「じゃあ、何を」
「一緒に忘れてほしいのよ」
外では、また雨が降り始めていた。
記者は店を出た。
それから彼は、記事を書いた。
八十番通りの都市伝説。
名前のない八十年代ポップスター。
見える人にだけ見える窓際の席。
消えた女性たち。
記事は少しだけ読まれた。
コメント欄には、いくつもの書き込みがついた。
この曲知ってる。
母が好きだった。
父の車で流れていた。
名前なんだっけ。
思い出せない。
思い出せそう。
あと少しで。
そして数日後、記事はなぜか検索に引っかからなくなった。
動画も消えた。
再アップロードしても、すぐに音声だけが無音になった。
記者はその後、八十番通りへ近づかなくなった。
ただ、雨の日だけ、ふと耳の奥であの曲が流れることがある。
軽いシンセドラム。
甘いベースライン。
夜の高速道路を走るようなキーボード。
そのたびに、彼は必死で別のことを考える。
名前を思い出さないように。
顔を思い出さないように。
白いカーテンの向こうからこちらを見る、あの美しい目を思い出さないように。
八十番通りの《マジカル・エイト》では、今も窓際の席が空いている。
ミキは今日も、誰もいない席にコーヒーを置く。
「今日は雨よ」
彼女は言う。
返事はない。
けれど、湯気が少しだけ揺れる。
ミキはその席に向かって、いつものように微笑む。
「だから、きっと誰か来るわね」
窓の外では、ネオンが雨に滲んでいる。
スピーカーから、名前のない歌が流れ始める。
誰もが知っている。
誰も思い出せない。
そして、誰かがまた、ドアを開ける。




