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Magical 80’s Pop Street ― 誰も名前を思い出せない歌手 ―

作者: 秋月キアラ
掲載日:2008/02/13

 八十番通りには、雨がよく似合う。


 そう言ったのは、誰だっただろう。


 たぶん、客の誰かだ。あるいは、昔この通りを撮りに来た映画学校の学生だったかもしれない。ネオンの残骸と、濡れたアスファルトと、閉じたシャッターに貼られた古いポスター。夜になると、そういうものが全部、少しだけ綺麗に見える。


 綺麗に見えるだけだ。


 実際の八十番通りは、駅前再開発から外れた古い商店街で、昼間はさびれ、夜は若者が写真を撮りに来る。昭和レトロでも、平成ノスタルジーでも、シティポップでも、名前は何でもいい。時代に置き去りにされたものは、流行が一周すると、急に「味がある」と呼ばれる。


 通りの角に、《マジカル・エイト》というレストランカフェがある。


 レストランと名乗るにはメニューが少なく、カフェと名乗るにはコーヒーがまずい。壁には古いレコードジャケット、安物のミラーボール、電源の入らないジュークボックス。カウンター奥のテレビでは、字幕付きのニュースが無音で流れている。


 昼過ぎ、店は空いていた。


 窓際の一番奥。


 そこだけ、いつも席が空いている。


 誰かが予約しているわけではない。札もない。だが常連は座らない。初めて来た客が座ろうとすると、店の空気が一瞬だけ固くなる。


 その席について、ウエイトレスは言った。


「まあ、都市伝説って言えば都市伝説ね」


 彼女は五十代半ばに見えた。


 派手な赤い口紅、明るく染めた髪、年季の入ったエプロン。名札には《ミキ》と書かれている。取材用のボイスレコーダーを向けられても、緊張した様子はない。むしろ、何度も同じ話をしてきた人間の、少し飽きたような余裕があった。


 テーブルの向かいには、若い記者が座っている。


 ウェブマガジンの記者だ。といっても、本人がそう名乗っているだけで、実際には都市伝説系の動画チャンネルと、炎上ネタを拾うニュースサイトを行き来しているフリーライターらしい。


「その席に、昔の歌手が出るんですよね」


 記者が身を乗り出す。


「出るって言い方、あんまり好きじゃないのよ」


 ミキはカップを拭きながら言った。


「お化け屋敷じゃないんだから」


「でも、見える人には見える」


「そうね。見える人には見える」


「ミキさんにも?」


 ミキは笑った。


「さあね」


 窓際の席には、誰もいない。


 午後の日差しがレースのカーテンを透かし、白いテーブルクロスの上に淡い模様を落としている。灰皿はもう置かれていない。数年前に全面禁煙になったからだ。それでも、古い客はたまに言う。


 あの席だけ、煙草の匂いがする、と。


 記者はスマホを取り出し、画面を確認した。


「ええと、資料によると、その人は八十年代後半に一曲だけヒットを出したポップス歌手。バンドのボーカル。中性的な美貌で人気が出たけど、その後は鳴かず飛ばず。薬物依存、スキャンダル、失踪騒ぎ、最後は自殺……」


「詳しいじゃない」


「でも、名前が出てこないんですよ」


 記者は画面をミキに見せた。


「当時のチャートを調べても、該当しそうな人はいるんです。でも、どれも違う気がする。ネットのまとめも曖昧で、コメント欄でも意見が割れてる。『あいつだろ』って名前が何人も出るのに、誰も確信してない。顔写真も残ってるようで残ってない。古い雑誌の切り抜きはあるのに、なぜか顔だけ白飛びしてたり、印刷が潰れてたりする」


「昔の印刷なんて、そんなものよ」


「でも、歌は残ってるんです」


 記者はイヤホンを片方だけ耳に差した。


 スマホから、小さく音が漏れる。


 軽いシンセドラム。


 甘いベースライン。


 夜の高速道路を走るようなキーボード。


 それは、少し古臭く、少し洒落ていて、どうしようもなく懐かしい曲だった。知らないはずなのに、どこかで聴いたことがあるような気がする。


「この曲、最近ショート動画で流行ってるんです。タイトルは残ってます。でも歌ってる人の名前が、なぜか空欄なんですよ。配信サービスでも、アーティスト名が Unknown になってる。公式なのに」


 ミキはコーヒーポットを置いた。


「忘れられたがってるんじゃない?」


「本人が?」


「この世のどこかには、思い出されるくらいなら消えたい人もいるのよ」


 記者は少し黙った。


 外では、空が曇り始めていた。


 八十番通りの雨は、いつも前触れなく来る。


「それで」


 記者は気を取り直したように言った。


「その人が、ここに通っていたんですね」


「毎日じゃないわ。でも、よく来てた」


「いつ頃ですか」


「さあ。ずっと昔」


「自殺する前?」


 ミキはカップを拭く手を止めた。


「たぶんね」


 たぶん。


 その言い方が妙だった。


「彼はいつも、あの席に座ってた。コーヒー一杯で何時間も粘るの。昔はね、声をかける人もいたのよ。ファンです、握手してください、サインくださいって。落ちぶれたあとも、最初のうちはまだそういう人がいた」


 ミキは窓際の席を見た。


「そのうち、ファンじゃない人が声をかけるようになった。昔は売れてたんでしょ、とか、あの曲しか知らないけど、とか、今なにして食べてるんですか、とか。悪気がないぶん、ひどい言葉ってあるのよね」


「本人は怒ったんですか」


「怒らなかった。笑うだけ」


「いい人だったんですね」


「いい人なら、死んだあとに女の子を連れていかないでしょ」


 記者の手が止まった。


 ミキは、あっけらかんと笑った。


「冗談よ。たぶん」


 雨が降り出した。


 細い雨だった。


 古いネオン看板に雨粒が当たり、ぱらぱらと乾いた音を立てる。通りの向こうで、誰かが走る足音がした。ドアベルが鳴る。


 若い女性が店に入ってきた。


 髪も、肩も、薄いコートも濡れている。年は二十代前半くらい。透明なビニール傘は持っていない。スマホだけを胸に抱え、店内を見回す。


「いらっしゃい」


 ミキが声をかけると、女性は小さく頭を下げた。


「すみません。雨宿りしてもいいですか」


「もちろん。好きな席へどうぞ」


 店内は空いている。


 空いているのに、女性は迷わず奥へ歩いた。


 窓際の一番奥。


 いつも空いている席へ。


 記者が目を上げた。


 ミキは何も言わなかった。


 女性は席の手前で立ち止まった。


 彼女の顔が、ふっと変わる。


 驚き。


 喜び。


 信じられないものを見たときの、無防備な明るさ。


「あ……」


 誰もいない席を見つめて、女性は言った。


「本当に、いた」


 記者の背筋に、冷たいものが走った。


 その席には、誰もいない。


 少なくとも、記者にはそう見える。


 だが女性は、そこに誰かが座っているように微笑んでいた。


「ずっと探してたんです」


 女性の声は震えていた。


「あなたの曲、母が好きだったんです。小さいころ、車の中で何度も聴いてて。わたし、タイトルも知らなくて、歌詞もうろ覚えで。でも最近、動画で流れてきて……やっぱりこの曲だって」


 店内の空気が、変わった。


 無音だったテレビの画面が一瞬乱れた。


 ジュークボックスのランプが、点くはずもないのに、かすかに瞬いた。


 女性は濡れた髪を耳にかけ、恥ずかしそうに笑った。


「座ってもいいですか?」


 返事は聞こえなかった。


 だが女性は、嬉しそうに向かいの席へ座った。


 ミキは黙って、コーヒーを二つ淹れた。


「二つ?」


 記者が小声で聞く。


「注文よ」


「誰の?」


「見える人の」


 ミキはトレイを持ち、窓際へ向かった。


 テーブルの上に、コーヒーを二つ置く。


 片方は女性の前に。


 もう片方は、誰もいない席の前に。


 湯気が、二つとも同じように立った。


 記者は喉を鳴らした。


「……今の、撮っていいですか」


「やめときなさい」


「でも、これは」


「撮れないわよ」


 記者はスマホを向けた。


 画面の中には、女性が一人で座っているだけだった。コーヒーも一杯しか映っていない。湯気もない。空席。白いテーブルクロス。窓の雨。


 肉眼で見ると、コーヒーは二つある。


 スマホには、一つしか映らない。


「なにこれ」


 記者がつぶやいた。


 ミキは答えなかった。


 女性は楽しそうに話している。


「母がね、あなたのポスターを持ってたんです。白いシャツで、カーテンの向こうからこっちを見てる写真。すごく綺麗で、男の人なのに、お姫様みたいで」


 彼女は少し笑った。


「ごめんなさい。変な言い方ですね。でも、本当に綺麗だったから」


 誰かが笑った気がした。


 記者には聞こえない。


 けれど、窓際のカーテンが、風もないのに揺れた。


「名前を教えてください」


 女性は言った。


「母も、どうしても思い出せないって言ってたんです。曲は歌えるのに、顔も覚えてるのに、名前だけが出てこないって。わたしも調べたけど、わからなくて」


 席の向こう側。


 空気が、少しだけ白く滲む。


 そこに、誰かの輪郭があるように見えた。


 長い髪。


 青白い肌。


 細い首。


 優しげな目。


 記者はまばたきをした。


 もう見えない。


 女性は手帳を取り出した。


「サイン、もらってもいいですか」


 返事はない。


 だが、彼女はペンを差し出した。


 ペンが、空中で止まった。


 いや、誰かが受け取った。


 記者は椅子から立ち上がりかけた。


 ミキがその手首を掴んだ。


「座ってなさい」


「今、ペンが」


「座ってなさい」


 ミキの声は、初めて鋭かった。


 女性は身を乗り出した。


「名前、入れてもらっていいですか」


 しばらくして、彼女は嬉しそうに笑った。


「はい。マナです」


 ペン先が紙を滑る音がした。


 紙には、何も書かれていない。


 記者には、そう見えた。


 それなのに女性は、泣きそうな顔で手帳を胸に抱いた。


「ありがとうございます」


 雨は強くなっていた。


 午後はいつの間にか夕方になり、夕方はいつの間にか夜に変わっていた。八十番通りの看板が、濡れた路面に滲んでいる。店のスピーカーから、誰が入れたのかわからない音楽が流れ出した。


 軽いシンセドラム。


 甘いベースライン。


 夜の高速道路を走るようなキーボード。


 記者のスマホに入っていた、あの曲だった。


 女性は顔を上げた。


「これ……」


 そして、空席のほうを見て笑った。


「一緒に歩きませんか」


 ミキがカウンターの内側で、そっと目を伏せた。


 記者は立ち上がった。


「待ってください」


 女性は振り返る。


「はい?」


「どこへ行くんですか」


「少しだけ」


「その人、見えてるんですか」


 女性は不思議そうに瞬いた。


「あなたには見えないんですか?」


 記者は答えられなかった。


 女性は、少し申し訳なさそうに笑った。


「すごく綺麗な人ですよ」


 そう言って、彼女は店を出た。


 ドアベルが鳴る。


 雨の通りへ、女性が歩いていく。


 その隣に、誰かがいる。


 記者には見えない。


 けれど、彼女は確かに誰かと並んで歩いていた。肩が濡れないように、誰かが傘を差し出しているような距離感だった。傘などないのに。


「追わないほうがいいわよ」


 ミキが言った。


「なんで止めないんですか」


「止めても、行くもの」


「行方不明になるんでしょう?」


「たぶんね」


「警察には?」


「何度も言ったわ。見えないものは事件にならないの」


 記者はドアへ向かった。


 外に出ると、雨の匂いが強かった。


 八十番通りのネオンは半分死んでいる。古着屋、レコードバー、閉店した映画館。通りの奥には、今は使われていないライブハウスがある。かつてバンドマンたちが夢を見た場所。今は地下アイドルのイベントと、怪談ライブと、たまに自主映画の上映会に使われているだけだ。


 女性の姿は、通りの角に見えた。


 彼女は誰かと話しながら歩いている。


 記者は追った。


「待って!」


 声は雨に消える。


 曲が、どこからともなく聞こえてくる。


 さっきより大きい。


 さっきより近い。


 記者は息を切らしながら角を曲がった。


 そこは、通りの裏手にある細い路地だった。


 古い建物の壁に、破れたポスターが何枚も貼られている。八十年代の映画、古いライブ告知、誰かの選挙ポスター。その上に、最近のステッカーや落書きが重なっていた。


 女性が立ち止まっている。


 その前に、人影があった。


 記者にも、今度は見えた。


 長い白銀の髪。


 青い目。


 白いシャツ。


 レースのカーテン越しに見たような、淡く整った顔。


 彼は本当に美しかった。


 現実の雨に濡れているのに、どこか古いミュージックビデオの中から抜け出してきたようだった。照明もないのに輪郭だけが輝いて、路地の汚ささえ彼の背景になる。


 女性は息を呑んだ。


「本当に……変わらないんですね」


 彼は微笑んだ。


 記者は、その笑顔に見覚えがある気がした。


 知らない。


 名前も知らない。


 なのに、懐かしい。


 思い出せない夢の中で、一度だけ会った人のような顔。


「マナさん!」


 記者が叫ぶと、女性が振り返った。


 その瞬間、路地の空気が変わった。


 ネオンが消えた。


 雨音が止んだ。


 かわりに、古い観客の歓声が聞こえた。


 見えないはずの照明が、路地の壁を青く染めた。


 地面がステージに変わる。


 割れたアスファルトの隙間から、白い煙が這い出す。


 ポスターの中の顔が、ゆっくりとこちらを見た。


 記者は後ずさった。


 路地の奥から、人々が現れる。


 腐った死体ではない。


 もっと嫌なものだった。


 古いファンたち。


 白く褪せた顔。


 目だけが異様に輝いている。


 缶バッジをつけた少女。バブル期のスーツを着た女。ラジカセを抱えた少年。ライブ会場のチケットを握ったまま老いた手。誰もが、過去のどこかで止まった格好をしている。


 彼らは口々に言った。


「覚えてる」


「まだ覚えてる」


「名前は思い出せないけど」


「曲は歌える」


「顔は覚えてる」


「私だけは、忘れてない」


 女性は震えていた。


「なに……これ」


 彼が、女性の頬に触れた。


 優しい手つきだった。


 ひどく優しい。


 だからこそ、逃げられない。


「忘れないで」


 声がした。


 彼の声だった。


 甘く、柔らかく、耳元で歌うような声。


「誰も、僕の名前を呼ばなくなった」


 女性は涙を浮かべた。


「呼びます。教えてくれたら、わたしが」


 彼は微笑んだ。


「思い出せないんだ」


 その言葉で、記者は理解した。


 彼自身も、もう自分の名前を覚えていない。


 バンド名も。


 ヒット曲のタイトル以外も。


 死ぬ前に愛した人の顔も。


 自分がどんな声で笑っていたのかも。


 残っているのは、若く美しい姿と、一曲だけ。


 そして、忘れられたくないという飢え。


 彼の口元が裂けるように笑った。


 美しい顔のまま、影だけが歪んだ。


 目の奥が、暗い穴になる。


 女性が悲鳴を上げた。


 彼女は突き飛ばすように逃げ出した。記者も足を動かそうとしたが、身体が重い。歓声が耳を塞ぐ。足元から白い手が伸び、靴を掴む。


 女性は路地を走った。


 昔のファンたちが追いかける。


 走り方は遅い。けれど、距離が縮まる。


 彼女はライブハウスの非常口を押し開け、中へ飛び込んだ。


 記者も追った。


 中は暗かった。


 埃と湿気と、古い煙草の匂い。


 ステージには何もない。


 客席には、壊れた椅子が積まれている。


 それなのに、どこからか曲が鳴っている。


 あの曲。


 何度も何度も、同じサビだけが繰り返される。


 女性はステージ袖で転んだ。


 記者が駆け寄ろうとした瞬間、照明がついた。


 ステージ中央に、彼が立っていた。


 白いシャツ。


 濡れた長い髪。


 青い目。


 あまりに綺麗で、あまりに空っぽだった。


「拍手を」


 彼が言った。


 客席から拍手が起こる。


 誰もいない客席から。


 女性は泣きながら首を振った。


「違う。わたしは、ただ、曲が好きで」


「ありがとう」


 彼は微笑む。


「それだけでいい」


 彼の背後に、レースのカーテンが降りてくる。


 ライブハウスには不釣り合いな、白く透ける布。


 その向こうで、彼の影が揺れる。


 マジシャンのように。


 ポップスターのように。


 死者のように。


「見ていて」


 彼は手を差し出した。


「最後の魔法だから」


 女性の身体が、ゆっくりと浮いた。


 記者は叫んだ。


「やめろ!」


 彼がこちらを見た。


 初めて、記者の存在を認めた。


 青い目が、静かに細まる。


「君は、僕を覚えてくれる?」


 記者は声が出なかった。


 その問いに、答えてはいけない気がした。


 覚える。


 その言葉が、餌になる。


 忘れない。


 その約束が、鎖になる。


 女性が宙で苦しげに手を伸ばす。


 記者はステージ脇の機材箱を掴み、彼へ投げつけた。


 箱は彼の身体をすり抜け、床に落ちた。


 だが、音響ケーブルに引っかかり、古いアンプが倒れた。


 耳を裂くハウリング。


 曲が乱れる。


 ステージの照明が明滅し、客席の見えない拍手が悲鳴に変わった。


 女性の身体が床に落ちる。


 彼の顔が初めて歪んだ。


 美しい表情ではなかった。


 古い薬瓶の底に残った濁りのような、惨めで、怒った顔だった。


「邪魔をするな」


 彼が歩いてくる。


 記者は女性を引き起こした。


「走って!」


 ふたりは非常口へ向かった。


 背後で、歌が聞こえる。


 歌詞はもう言葉になっていない。


 誰も名前を呼ばない歌手が、自分の名前を探すように、壊れた旋律を繰り返している。


 非常口のドアが開かない。


 女性が泣きながらドアを叩く。


「開いて、開いて!」


 彼が近づく。


 白い指が伸びる。


 記者はスマホを取り出した。


 ライトをつける。


 撮影画面を開く。


 彼は映らない。


 だが、音声波形だけが異常に跳ねている。


 記者は叫んだ。


「名前を言え!」


 彼が止まった。


「言えるなら言ってみろ! 自分の名前を!」


 彼の顔から、怒りが消えた。


 かわりに、空白が広がった。


 口が動く。


 声は出ない。


 彼は、自分の名を言えない。


 誰からも忘れられ、世界から記録を剥がされ、自分自身からも抜け落ちた名前。


 その空白だけが、彼をこの世に縛っている。


 女性がドア横の消火器を掴んだ。


 安全ピンを抜き、彼へ向ける。


 白い粉が噴き出した。


 彼の輪郭が崩れる。


 レースのカーテンが裂けるように揺れた。


 女性は叫んだ。


「あなたなんか、知らない!」


 その言葉が、刃になった。


 彼が動きを止める。


 美しい顔が、悲しそうに微笑む。


 次の瞬間、彼は消えた。


 曲も止まった。


 拍手も。


 歓声も。


 ステージには、雨音だけが残った。


 非常口が、あっけなく開いた。


 ふたりは外へ転がり出た。


 八十番通りの裏路地。


 雨はまだ降っている。


 女性は消火器の白い粉と涙でぐしゃぐしゃになりながら、地面に座り込んだ。


「終わった……?」


 記者は答えられなかった。


 スマホの画面を見る。


 録画はされていなかった。


 ファイルが存在しない。


 ただ、音楽アプリだけが勝手に開いていた。


 再生履歴に、知らない曲が一曲ある。


 アーティスト名は、空欄。


 タイトルも、空欄。


 再生時間は、四分四十四秒。


 翌日。


 記者は《マジカル・エイト》へ戻った。


 店は昨日と同じだった。


 まずいコーヒーの匂い。


 古いジュークボックス。


 無音のニュース。


 窓際の席は、空いている。


 ミキがカウンターから顔を上げた。


「あら。生きてた」


「マナさんは?」


「誰?」


 記者は息を止めた。


「昨日、ここに来た女性です。雨宿りして、あの席に座って、彼と話して」


 ミキは首を傾げた。


「そんな子、来たかしら」


「ふざけないでください」


「ふざけてないわよ」


 ミキは窓際の席を見た。


「この店、昨日はあなた以外ほとんど客なんていなかったもの」


 記者はスマホを開いた。


 撮ったはずの写真はない。


 録音もない。


 メモアプリを開く。


 昨日打ち込んだ取材メモが、途中から空白になっている。


 ただ一行だけ残っていた。


 ――八十番通りには、雨がよく似合う。


 誰の言葉か、思い出せない。


「その顔」


 ミキが言った。


「少し見たのね」


「あなた、知ってるんでしょう」


「知ってることは、だいたい忘れたわ」


「彼の名前は?」


「忘れた」


「本当に?」


 ミキは笑わなかった。


「忘れないと、連れていかれるのよ」


 記者は窓際の席を見た。


 そこには誰もいない。


 だが、テーブルの上にはコーヒーが置かれていた。


 湯気が立っている。


 ミキは、いつの間にか淹れていたのだろうか。


「誰のですか」


「さあ」


 そのとき、店のスピーカーから音が流れた。


 軽いシンセドラム。


 甘いベースライン。


 夜の高速道路を走るようなキーボード。


 記者は耳を塞ぎたくなった。


 でも、できなかった。


 懐かしい。


 とても懐かしい。


 知らないはずなのに。


 窓際の席で、カーテンが揺れた。


 白い布の向こうから、誰かがこちらを見ている。


 美しい目だった。


 青く、静かで、少し寂しそうな目。


 記者は自分の口が勝手に動くのを感じた。


「あなたの、名前は――」


 ミキの手が、記者の頬を叩いた。


 乾いた音が店に響いた。


 曲が止まる。


 窓際の席には、もう何もいなかった。


「帰りなさい」


 ミキは言った。


「記事にするなら、好きにすればいいわ。でも、名前を探そうとしちゃだめ。あの人はね、名前を思い出してほしいんじゃないの」


「じゃあ、何を」


「一緒に忘れてほしいのよ」


 外では、また雨が降り始めていた。


 記者は店を出た。


 それから彼は、記事を書いた。


 八十番通りの都市伝説。


 名前のない八十年代ポップスター。


 見える人にだけ見える窓際の席。


 消えた女性たち。


 記事は少しだけ読まれた。


 コメント欄には、いくつもの書き込みがついた。


 この曲知ってる。


 母が好きだった。


 父の車で流れていた。


 名前なんだっけ。


 思い出せない。


 思い出せそう。


 あと少しで。


 そして数日後、記事はなぜか検索に引っかからなくなった。


 動画も消えた。


 再アップロードしても、すぐに音声だけが無音になった。


 記者はその後、八十番通りへ近づかなくなった。


 ただ、雨の日だけ、ふと耳の奥であの曲が流れることがある。


 軽いシンセドラム。


 甘いベースライン。


 夜の高速道路を走るようなキーボード。


 そのたびに、彼は必死で別のことを考える。


 名前を思い出さないように。


 顔を思い出さないように。


 白いカーテンの向こうからこちらを見る、あの美しい目を思い出さないように。


 八十番通りの《マジカル・エイト》では、今も窓際の席が空いている。


 ミキは今日も、誰もいない席にコーヒーを置く。


「今日は雨よ」


 彼女は言う。


 返事はない。


 けれど、湯気が少しだけ揺れる。


 ミキはその席に向かって、いつものように微笑む。


「だから、きっと誰か来るわね」


 窓の外では、ネオンが雨に滲んでいる。


 スピーカーから、名前のない歌が流れ始める。


 誰もが知っている。


 誰も思い出せない。


 そして、誰かがまた、ドアを開ける。

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