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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
11. 波紋
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小さな違和感 ウィルヘルミナ

「陛下がお出でになりました」


 侍女が告げたのと、マリカの足元で丸まっていた黒犬が頭を上げるのはほぼ同時だった。


「お父様!」


 途端にマリカは飽き始めていた刺繍糸と針を放り出し、犬を従えて父王に駆け寄った。明るいうちから父との時間が取れるのはそうよくあることではないから、跳ねるようにしてはしゃいでいる。


「ファルカス様。お会い出来て嬉しいですわ」

「昨日来てやれなかったからな。寂しい思いをさせたか?」


 ウィルヘルミナも娘に倣い、立ち上がって夫に微笑み掛ける。マリカを抱き上げながら、夫も笑顔で応えてくれて、頬に唇を落としてくれる。たったそれだけのことで顔が赤くなるのが分かる。夫婦になって何年経っても、子供を授かっても。ウィルヘルミナは少女のように変わらず夫を慕っているのだ。


「昨日はお父様が来てくださいましたから。マリカも遊んでもらいましたの」

「それは良かった」

「お父様もいたらもっと良かったわ」

「生意気なことを」


 口を挟んだマリカを夫はくすぐり、悲鳴のような笑い声を上げさせた。夫の機嫌は良いようで、娘を見る目元も柔らかい。けれどマリカのひと言に、ウィルヘルミナは心臓がちくりと刺されたように痛むのを感じた。


 ――昨晩は……どちらにいらっしゃったのかしら……。


 父は遅くまでマリカと遊んでくれていたし、彼女も父の訪れに浮かれていたから、寂しい思いをすることも夫の居場所を気にすることもなかった。でも、王妃と王女のもとでないとしたら、王が過ごしたのは側妃のところではないのだろうか。そうだとしたら、娘の言葉は夫を責めているように聞こえたかもしれない。


 ――シャスティエ様の方へ行かれるのは嫌だと言いたいのだと、思われていないかしら……。


 マリカが自らの意思でそのようなことを言うはずがないのは、夫も分かっていると思う。だから笑っていられるのだろう。

 けれど、ならば。母であるウィルヘルミナが言わせたと思われたらどうしよう。

 不安に胸を締め付けられて見つめる妻に気付いたのか、夫は娘を構うのを止めて彼女の方を向いて苦笑した。


「舅殿は口うるさい。避けさせてもらった」

「お父様、お祖父様が怖いの?」

「俺が誰を恐れるものか。面倒なのが嫌なだけだ」


 不遜な物言いを――もちろん冗談めかして――咎めるように、夫は指先でマリカの額を軽く突いてまた娘を喜ばせた。

 抱き上げられて笑い転げるマリカは、父母が交わした視線に気付かなかったようだった。ウィルへルミナは、夫の目に宿った気遣いの色を確かに読み取ることができたと思う。


 ――ファルカス様、お父様が何を仰ったかご存じなのね。


 そしてその理由に、彼女は十分心当たりがあった。




 昨晩、父は娘と語らい孫娘と遊ぶためだけに訪れたのではない。はしゃぎ疲れて目をとろりとさせ始めたマリカを横に、父が語り続けたのは、要は側妃のことなど気にするなということだ。


『側妃は確かに美しいが、髪や目の色が物珍しいというだけだ。お前の方が遥かに可愛らしく好ましい。あのように生意気な女、すぐに王も嫌気が差すに違いない。第一、ティゼンハロムを敵に回してまで側妃に入れあげるようなことがあってはならぬ』


 父は、しつこいほどに心配するな、これまで通りだと繰り返した。その内容は乳姉妹のエルジェーベトが言い続けてきたこととほぼ同じで――逆に、ウィルヘルミナを不安にさせた。


 ウィルヘルミナには自分が無知だという自覚がある。だから物事の判断は父や夫やエルジェーベトに任せている。彼らならば、彼女やマリカを絶対に守ってくれると信じているから。彼らの方が、ウィルヘルミナよりよほど世の中を知っていて正しい決断ができるだろうから。

 ウィルヘルミナとしても、最初はシャスティエが側妃になっても今までの生活に変わりはないと思っていたのだ。親しい友人がずっと近くにいてくれるなら、嬉しいことに違いない、と。しかし、信頼する人たちが口を揃えて心配するなと言ってくると、心配するのが当然なのだろうか、と逆に思えてきてしまうのだ。彼ら彼女らを疑うのは、心苦しく申し訳ないことではあるのだけれど。


 新年の宴で無力さを思い知らされ、このままで良いのか、と悩み続けているところでもある。これまで言いつけられていた通りに、本当に何も考えないままで良いのだろうか。


 ――あの時も、シャスティエ様が助けてくださったのだわ……。


 そして今回のマズルークの侵攻に際しても、シャスティエは夫に献策したのだという。誰に聞いても詳しくは教えてくれないけれど、あの賢く美しい人は、ウィルヘルミナよりも夫の傍らに相応しいのではないだろうか。

 そう思うと、夫とシャスティエが共に過ごす姿を想像するだけで、なぜか胸が苦しくなってしまうのだ。


 ――嫌だわ……私、ファルカス様もシャスティエ様も大好きなのに……。


 以前は、大好きな人たちのことを考えるのはとても楽しいことだったのに、何が変わってしまったのだろう。父やエルジェーベトに聞いても無駄だということだけは分かる。彼らはシャスティエがどれほど優れているかとか、そのような話をあまり聞きたがらないように見えるから。

 でも、夫は違うだろう。夫はシャスティエの名を出しても顔を顰めたりしないから。それに、夫のために何をしたら良いか、教えてくれるかもしれない。




「明るい顔色で良かった。やはり、舅殿が何を言っても無駄だったな」

「ええ、私、シャスティエ様が好きですもの」


 だから、マリカを寝かしつけた後で夫婦ふたりきりになった時、ウィルヘルミナは懸命に微笑んだ。シャスティエを嫌ったりなどしないと、夫に伝えたかったのだ。最近はかつてほど頻繁に会うことはできないけれど、夫に頼めばまた来てもらうことができるだろうか。何なら、ウィルヘルミナの方からマリカを連れて行っても良い。親しくお互いの住まいを行き来することができたなら、どれほど楽しいことだろう。


「お前ならば大丈夫だろうとは思っていたが。俺は妻たちに恵まれた」


 妻たち、と。夫が複数系を使ったのでウィルヘルミナは安心した。シャスティエの方が妻に相応しいとか、ウィルヘルミナはいらないとか思われているのではないようだ。そうと分かると、髪を梳く夫の手に身を委ねることもできたし――


「あの。私、シャスティエ様のようになりたいのです。あの方のようにファルカス様のお役に立ちたいと――どうすれば、良いでしょうか」


 ずっと気に掛かっていたことも、思ったよりするりと尋ねることができた。


「何? どういう意味だ?」


 けれど夫が手を止めて視線を鋭くしたので、またも不安に襲われてしまう。あの方に比べれば、自分など取るに足りない存在ではないのかと。


「シャスティエ様は、ファルカス様に進言なさったと伺いました。あの方はとても聡明でいらっしゃるから。でも、私は――」

「何だ、そんなことか」


 震える声で言い募ると、夫は笑ってまたウィルヘルミナを撫でてくれた。髪から頬へ、首筋から腕へ背へと、いつものように、とても優しく。


「あの者こそお前の助けが必要だろう。初めてのことで戸惑っているだろうから」


 ――初めて……?


「あの者はお前を慕っているだろう? お前が話し相手になってやれば良い。きっと安心するだろう。俺などよりも、よほど」


 夫の言葉の中のひと言が、引っかかって、ウィルヘルミナは首を傾げた。でも、一度夫の機嫌を損ねかけた――と、彼女は思った――から、しつこく尋ねるのも気が咎めた。だから彼女は、シャスティエは妃としての生活に慣れていないということだろう、と解釈することにした。


 ――離宮も変わったし……シャスティエ様も何か言われているのかも……。


 ならば、ウィルヘルミナにもできることがあるのかもしれない。王宮の作りや習慣を教えるとか。ふたりして和やかにしているところを見せることができれば、父やエルジェーベトも分かってくれるかもしれない。


 ――私はシャスティエ様も好きだもの……。


 ただ、問題がひとつ。それはとても簡単すぎて、何の苦労もなくできてしまうということ。その程度で役に立とうだなんて、申し訳ないこととさえ思えた。


「それだけで、良いのでしょうか」

「妻たちが仲良くするのは俺にとっても喜ばしいことだ。先王の時代のようなことは起きて欲しくないからな」

「それは、そうですけれど……」


 あの恐ろしい寡妃太后(かひたいこう)のことを思い出して、ウィルヘルミナは身震いした。彼女がシャスティエを害するなど思いもよらないし、その逆もないと思いたい。


「では、またシャスティエ様をお呼びしても良いのですね? それとも私からお伺いした方が良いのでしょうか」


 震えた彼女を労わるように、夫が抱きしめてくれた。その腕の力強さと温もりはとても心地良くて、ウィルヘルミナは溶けてしまいそうな思いを味わう。


「しばらくは会わない方が良いかも知れぬ。まだ体調が落ち着かないと言っていたからな」


 ――まだ……? また……?


 夫の胸に甘えながら、ウィルヘルミナはまた疑問に思う。まだ、だとシャスティエはずっと体調が悪いように聞こえてしまう。茶会を欠席した後、一度は元気な姿を見せてくれたというのに。無理をさせてしまったということなのか。それとも、また、の言い間違いだろうか。前とは違う理由で床についてしまったのだろうか。


「側妃の話はこれくらいにしよう。昨日会えなかった埋め合わせがしたい」


 疑問を追求することができなかったのも、また同じだった。ただ、今度は先ほどのような懸念からではなく、唇を塞がれてしまったから。愛する人と触れ合う感覚は、恐れとは全く違う震えを彼女にもたらし――何も言えないまま、ウィルヘルミナは夫に抱えられて寝台へと運ばれた。




 そして翌朝。ウィルヘルミナは満ち足りた気分で夫の肌をなぞっていた。そのしなやかな感触も、皮膚のすぐ下に感じられる筋肉も、彼女がよく知り愛しく思うもの。幾つかある傷痕さえ位置は全て覚えているくらいだ。……ミリアールトへの遠征で、傷が増えることがなかったのは本当に幸いだった。


「ミーナ。くすぐったい」


 苦笑と共に夫が制そうとしても、止められるものではない。夫はいつも好き放題にするから、これくらいの反抗は許されるはずだと思う。


「もう少し、このままで。良いでしょう?」

「仕方ないな……」


 ほら、結局夫も本気で止めようとはしないのだ。何だかんだ言って妻には甘い人なのだ。この人がウィルヘルミナに悪いことをするなどあり得ない。


 朝、侍女たちが訪れる前のよくあるひと時だった。昨晩、夫はいつもと様子が違ったけれど、この時間は今まで何度となく過ごした朝と同じだった。異変に理由などあるはずがない、いや、異変と思うことさえ彼女の思い違いなのだろう。――だからウィルヘルミナはこのひと時を満喫しようと努めた。


 ――幸せ……。


 昨晩から感じている違和感に目を瞑って、自身に言い聞かせる。手を伸ばして、夫の身体を思い切り抱き締め、その温もりを堪能する。それはとても逞しく確かなもので、変わるはずのないものだった。


「お目覚めでしょうか。失礼いたします」

「待って、エルジー。もう少し」


 懇願に近い調子で告げたにも関わらず、エルジェーベトの答えは素っ気無かった。彼女の乳姉妹は怠惰を嫌う。急かすように身支度を促すのも、またいつものことではあるのだけれど。


「マリカ様がもうお待ちです。お父様お母様にお会いしたいと」

「……そう、では起きなくてはね」


 幸せな時間はいつまでも続くものではない。そう分かっていたとはいえ、夫から身体を離して侍女たちの世話を受けるのは寂しく――そして少し気恥ずかしい気がした。


 ――皆、何か言うかしら?


 主にエルジェーベトの手によって衣装を着付けられながら、ウィルヘルミナは周囲の者たちの表情を窺った。寝台を見れば、昨日何があったか――あるいはなかったか――一目瞭然だろうから。身体を拭われるのも、特に居心地が悪い。下肢に散った昨夜の痕跡は、いつもとの違いを教えてしまうだろうから。


 頬を染めるウィルヘルミナを余所に、でも、誰も何も言わなかった。いつものように淡々と、王と王妃それぞれに身支度を整えさせていく。きっと一々取りざたするようなことではなかったのだろう。そういう夜も、あるというだけなのだろうか。

 何だ、と拍子抜けしつつ、ウィルヘルミナは口に出して夫やエルジェーベトに尋ねなくて良かった、と心から思った。そんなことについて人に聞くのは、あまりに恥ずかしいしはしたない。


「朝食を共にしよう。マリカを待たせてしまっている」

「ええ、お腹を空かせているでしょう。早く行ってあげなくては」


 夫も、何事もないかのように笑っていた。ウィルヘルミナにとって、善悪の判断は周囲の者の反応を見て区別するものだ。信頼する夫もエルジェーベトも何も言わないのなら、それは何事もないと言うことだ。少なくともこれまでの彼女の人生ではそうだった。

 ウィルヘルミナの悩みなど、きっと取るに足りないことだ。彼女程度が気付くことなど、他の者たちも当然気付いていて、その上で取りざたしていないのだ。きっと、そうに違いない。


 だから彼女は幾つかの違和感を忘れることにした。

ムーンライトで公開している番外編集にて、今回のエピソードの「夜間」を描いた話を公開しております。ミーナの違和感とファルカスのやらかしについての詳細はそちらをどうぞ。

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