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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
11. 波紋
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羽ばたく鷲 アンネミーケ

「何と傲慢な……」


 声と共にアンネミーケの手は震え、握り締められた紙片はくしゃりと音を立てて形を歪めた。イシュテンのティグリス王子からの書簡である。

 いつどこに兵を送れ、という――請願の形を取ってはいたが、実際は限りなく一方的な通告だった。同盟相手に送る文面とは思えない。いや、そもそもかの王子とは対等な同盟ですらないからなお悪い。王に反逆しようにも力が足りないだろうから手を貸してやろうというだけだ。なのにあの王子は、どのような策で兄王に立ち向かうかまで勝手に決めてブレンクラーレに指図してきた。

 恩を弁えない、感謝も見えない文面に、大国の政を預かる彼女の矜持は傷つけられ、肚の中では怒りが熱く煮えたぎる。


「ブレンクラーレと肩を並べたつもりか。しかもこの策、我が国の兵に何をさせようというのか……!? 思い上がりも甚だしい……!」


 ――この(わたし)を、侮ったのか……!?


 心中の呻きを、辛うじて声には出さずに留める。幾ら実権を握っているとはいえ、彼女は王でも、王族ですらもない。自身が国を背負うかのような発言は、それこそ傲慢の謗りをい受けかねないのだ。侮られたのはブレンクラーレであり、決してその王妃ではない。ティグリス王子だとてイシュテンの男、彼女をブレンクラーレの王などと勘違いしてはいないだろう。


「我らもお諌めしたのですがお聞き入れくださらず……」


 イシュテンに潜入させていた間者は、白い顔で弁解にもならないことを訴えた。彼らを苦々しく睨めつけながら、絞り出す。


「ティグリス王子はブレンクラーレの足元を見てきたと言うのだな」


 王子はイシュテン王に恩を売るなら今を置いて他にない、と(うそぶ)いたという。

 他国を攻める余裕のない、適度に弱いイシュテン王を望むのも。その条件を満たすティグリス王子を王位に就けたいのも。いずれも確かにアンネミーケの――そしてブレンクラーレの都合ではある。だが、こうも我を通して振り回される謂れなどない。むしろあちらの方こそ頭を下げて助力を乞うべきではないのか。


 ――時期を読み違えたか……それとも王子の気性か?こうも即断してみせるとは……!


 アンネミーケは武力を恃むイシュテンの気風を見下している。一時的に多少の領地を奪ったところで何の意味もない、と。どうせ兵を動かすならば未来に渡ってイシュテンを弱め、かつ王に対して影響力を持てるような絵を描いていた。……つもりだった。


 最良の機を待つはずが、冬のミリアールトでの乱以来、どうも彼女の想定を越える早さで事態が動いている気がしてならない。


「まあ、仕方ありますまい。例の姫君が男児を生めば、ティグリス王子に勝ち目はなくなるのでしょう?ならば今立つしかないではないですか」


 アンネミーケが周辺国の弱体化に心を砕く最大の理由――頼りない王太子のマクシミリアン本人が呑気に発言したので、間者たちは目を剥いて母である王妃の顔色を窺った。


「それは分かっておる」


 平静を装おうとした声は、彼女自身にさえいかにも剣呑な響きを帯びていた。お前さえしっかりしていれば、と。言ってはならない、言ってもどうしようもない言葉が口を出そうになるのを必死に抑えなければならなかった。


「だからと言って言いなりになっては今後の関係にも差し支える。ブレンクラーレを動かすのは容易いなどと……決して思われてはならないのだ」

「ですがティグリス王子が破れては今後、もないではないですか」


 マクシミリアンがにこやかに述べたのは、一面の真実ではあった。だからアンネミーケは沈黙する。


 イシュテン王の側妃になったミリアールトの姫は早くも懐妊したという。不具のティグリス王子が王位を狙えるのは、他にイシュテンの王位継承権を持つものがいないからというだけ。仮にイシュテン王が王子に恵まれれば、諸侯もそちらを正統な後継と見倣すだろう。ティグリス王子が焦るのにも理由はあるのだ。


 ミリアールトの姫の胎の子が、女児――あるいは男児にしても障碍を持つ可能性に賭けるか。

 考えるまでもなく答えは否、だ。

 数年を掛けて仕掛けたこと、ブレンクラーレとイシュテンの今後数十年を左右する計画なのだ。そのような不確かな賭けで無に帰すにはあまりに惜しい。


「どうせ動かなければならないのならば早いほうが良いでしょう」

「…………」


 マクシミリアンは決して間違ってはいない。アンネミーケ自身、時間を無駄にしていることに対して焼け付くような焦燥を覚えている。そしてティグリス王子の思惑通りに兵を向けなければならないのも、分かっている。ティグリス王子の態度が気に入らない、などとは、それこそ子供じみた意地でしかないのだ。


 だが、息子の口調があまりに軽いのが気に入らなかった。自身が王になる身だと、その言葉には国の威信が掛かっているのだと、どこまで認識しているのだろうか。


 ――鍛えてもどうにもならなかったか……。


 吐いた溜息は、敗北の証でもあった。知識を植え付けることはできても、息子の甘く柔らかい気性を変えることは彼女にはついにできていない。父親やその寵姫たちが甘やかしたのが原因なのか、父の気性を継いでしまったのか。

 とにかく、このマクシミリアンが次の王になるからには、イシュテンはティグリスを王に戴いて揺れ続けてもらわなくてはならない。


「ティグリス王子の求める通りにしよう。しかし必ず代償はいただく。勝利の暁には現王派の諸侯の領地を割譲させる」

「は」

「その話をするのは軍を派遣した際に。そなたたちが危険を犯すことはない」

「恐れ入ります」


 ティグリス王子の強気は彼我の距離を盾と考えているであろうこと、ブレンクラーレの本気を実際に目にしたことがないことも理由だろう。例え国土を削るのを嫌がったとしても、アンネミーケは軍の圧力で頷かせるつもりだった。墜死の塔の逸話の大使は軽率で愚かではあったが、発言そのものは間違ってはいない。ブレンクラーレが戴く睥睨する(シュターレンデ)(・アードラー)の神、その大きく広げた翼は、イシュテンの戦馬の王を押さえつけるだろう。

 ブレンクラーレの後ろ盾がなければ王位を維持することも難しいのだ。ティグリス王子もその程度の計算はできるだろう。できぬならば──大鷲の羽ばたきが思い知らせるまで。


「代償というならあの姫君ではいかがです? 領土よりは譲りやすいのではないでしょうか」

「王位を脅かす子を孕んでいるのだ。生かしておけるはずがなかろう」


 この期に及んで下世話な色気と好奇心を隠さない愚息の戯言を一蹴しつつ――アンネミーケは面倒なことを思い出した。


「あの公子も姫君の懐妊を知ったのか? 助け出すなどと言い出してはいないだろうな」


 イシュテンに遣わしていた、レフという貴公子のことだ。

 ミリアールトの姫と、その胎に宿っているかもしれない子は是非とも欲しい駒ではあったが、実現の可能性が低いことも十分に承知していた。元々が念には念を、程度の策だったから、アンネミーケは既に姫君の命は諦めている。あの美貌の公子――姫君を除いてはいまや唯一のミリアールトの王位継承者――は呼び戻した方が良いだろう。


 ――聞き入れそうにはないが……。


 懸念しながらの問いかけに、間者たちも曖昧な表情で答える。


「はい。その一報には確かに動揺されたようで……あの碧い目を怒りで燃やすような、凄まじい形相をなさっていたのですが――」

「何を言い出したのだ」

「ティグリス王子が立つならば助力したい、と。その、イシュテン王はあの方にとっても国と親の仇だと……」


 アンネミーケは、今度は呆れで溜息を吐いた。制止も聞かずに飛び出すような無謀ではなかったのを喜ぶべきかも知れないが、やはりあの貴公子はどこか物語のように美しい理想と幻想によって動いているように思われてならない。マクシミリアンと方向性は多少違っても、現実と自身の立場を弁えていないという点では同じだった。


 ――これだから美しい者は考えが甘い……。


 しかし、彼女自身も見通しが甘かったのを認めざるを得ない。


「ティゼンハロム侯は厄介払いをさせてやろうという案には乗らなかったのだな」

「は。胎児が男児であることへの警戒もありますが、何より娘を――王妃を脅かした姫を生かしてはおけぬ、と撥ねつけられました」

「女であっても敵に容赦はしないか。これこそイシュテンの気質なのだろうな……」


 王とミリアールトを決別させるために、と姫君を引き渡すように持ちかけていたのだが、ティゼンハロム侯は聞く耳を持たなかったという。老獪だと評判の男だからといって、必ず理が感情に勝るものではないらしい。

 結果的にあの公子から無為に手綱を外してしまったことになるのは、アンネミーケの勇み足だったのだろう。今となっては、連れ戻すにもイシュテンに留めて見張るにも、手数を割くのが惜しい事態になってしまった。


 ――暴走しないだけまだマシ、と考えるしかないか……。


 三度目に溜息をこぼしてから、アンネミーケは腹を決めた。


「ならば公子の望み通りに。イシュテン語を解す騎兵と考えれば使い道もあろう」


 忠誠の度合いと信用が置けるかどうかについてはこの際目を瞑ってあえて断言する。


「しかし決して目を離すな。あの者が姫君を見捨てるなど信じがたい。隙を見て飛び出そうとするかもしれぬ」

「心得ましてございます」


 指針を示されて、間者たちは安堵した表情を見せた。彼らとしても、あの公子の扱いには苦慮していたのだろう。ただでさえ重い任務を負った者たちに、余計な気苦労を掛けてしまったのだろうか。そう思うと、非常に珍しくも後悔がアンネミーケの胸を刺した。




 細かいことについては追って、ということで間者たちを下がらせると、その場には王妃と王太子のふたりが残された。

 アンネミーケの好みによって濃く入れられた茶に口をつけたマクシミリアンは、形の良い眉を顰めた。しかし、それが苦さによってではないことは、愚痴のように呟いたことから明らかだった。


「母上はミリアールトの姫を見捨てられるのですか。お気の毒に」

「哀れんでいないということはない。ただ無理だというだけだ」


 ――まだ言うのか。妃も懐妊中だというのに……。


 美姫と聞けば見境のない言動は、父であり彼女の夫君でもある王を思い出させて嫌になる。息子の愚かさを目の当たりにして、アンネミーケもまた顔を顰めた。


「手の届かぬ姫のことを考えても仕方なかろう。ギーゼラを幸せにしてやれば良い」

「ギーゼラを見ているからこそ、ですよ」


 妻の名を聞けば黙ると思ったのに、今日に限って愚息は食い下がってきた。


「比べればお気の毒ではないですか。守られて祝福されている彼女に対して、あの姫は誰からも命を狙われている」

「…………」


 意外と思いやりのあることを言い出したので、アンネミーケは茶器を置いて息子の顔をまじまじと見た。これは喜ぶべき変化なのだろうか、と不思議に思いながら。

 王太子妃(ギーゼラ)の懐妊を、息子は確かに喜んでいるようだった。妻を気遣う言葉も増えたし、見舞いも頻繁に行っている。更にそれに伴って他の令嬢たちへの興味は薄れたようだった。ミリアールトの姫を気に掛けたのも、美貌の噂に惹かれたというよりは、懐妊中の身を哀れんだものだったのか。


 ――しかし、まだ立場を分かっていないのだな……。


 ほんのわずか、息子を見直し――それでも彼女は苦言を呈することにした。


「姫君の子が無事に生まれればそなたの子を脅かしかねないのだぞ。哀れむ相手を間違えるでない」

「それは、そうですが……」


 言葉とは裏腹に納得していないようすのマクシミリアンに対し、アンネミーケは強引に話題を切り替えた。


「ギーゼラの体調は良いのだろうか。これから見舞っても構わないか?」

「……恐らくは。私も聞いてみるつもりですが」


 恐らくはミリアールトの姫よりも少し早く懐妊した王太子妃は、悪阻(つわり)も収まりそろそろ腹が目立ち始めている。


「そなたが行くならば妾は遠慮しよう。夫婦ふたりで過ごすが良い」

「ありがとうございます」


 妻の腹の膨らみに触れれば。そしてもう少し経って胎動を感じることができたなら。息子も会ったこともない姫より傍の妻子を気にかけるようになるだろう。いや、そうであって欲しい。

 そのように、アンネミーケは信じたいと思った。

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