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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
11. 波紋
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翌日 ファルカス

 ファルカスは寝起きが良い方だ。戦場でいつまでも眠気を引きずる訳にはいかないのだから、イシュテンの王たるもの、身体がそのようになるのは当然のこと。

 しかし今朝に限ってはいつも通りにはいかなかった。意識が覚醒した瞬間に身体の重さと喉の渇きを感じ、彼は顔を顰めた。身体を起こすとやはり少々(だる)く、昨晩過ごした酒が、まだ血の中に澱んでいるようだった。


「――水を」


 短く命じた声もひび割れていて、我がことながらうんざりする。彼自身が節度を忘れたのではなく、杯を受けなければならない状況に陥っただけだというのは、一抹の救いと言えるだろうか。

 そう思うと同時に、その状況になった原因を思い出してファルカスの機嫌は急速に傾いた。


 ――懐妊だと……。


 倒れそうな顔色の癖に、やたらと反抗的な目つきをしていた二人目の妻の姿が脳裏に浮かぶ。あの不満げな表情を思うと口元が苛立ちで攣るのが分かった。


 側妃を迎えたのは世継ぎのためだから、懐妊したこと自体は良い。

 だが、夫であり胎の子の父でもある彼に打ち明けず、よりにもよって彼の敵たちも集った宴の席で暴露したのはいただけない。従順な振りをして彼を陥れようとでもしていたのかと勘ぐってしまう。知らなかったなどと言っていたが、自身の身体のことに気付かないということが本当にあり得るのだろうか。どうもバラージュの娘に上手く言いくるめられた気がして、心から信じることができそうにない。


 とはいえ、側妃を問い詰めるとしてもまた夜の話だ。昼の間、彼は公務に勤しまなければならない。リカードがどのような顔で何を言ってくるのかと思うと、女に考えを割いている余裕はない。


 ――ハルミンツ侯も警戒せねばならぬし……。


 思考を巡らせる間にも従者の手によって身支度が整えられ、水を湛えた杯が渡される。一息に空けた杯を返す際、王の機嫌を取ろうとしたのか従者は(へつら)うような笑みを浮かべた。


「あの、まことにおめでたく存じます。お祝いを――」

「何がめでたいか」


 しかし、ファルカスの鋭い眼光を浴びてその粗忽者は舌を凍らせた。同時に衣装を掲げた手も止まったので、彼は自ら帯を留めることになった。朝から愚かな追従を聞いたお陰で、その手つきは乱暴なものになってしまう。


 ――祝うどころではないというのに……!


 これから面倒ばかりが起きると、分かりきっているのだ。世継ぎが生まれるかもしれないからと、浮かれる気にはなれなかった。




 執務室で顔を合わせたリカードは、昨晩の激昂が嘘のように平静な態度で恭しく礼を取ってきた。それを見て、ファルカスは内心で顔を顰める。この古狸のことだから、腹を括ったということなのだろう。

 口うるさく小言を言ってくるくらいならまだ可愛げがあるのだ。このように何事もなかったかのような顔をしているということは、王に隠れて謀を企んでいるに違いない。昨夜のうちに側妃とその子を始末する算段をつけていても何も不思議ではない。寡妃太后(かひたいこう)のような毒に頼る類の陰謀は、彼が得意にするところではない。身重の側妃をいかに守り通すか、厄介なことになりそうだった。


 ――だから、できる限り伏せておくべきだったのだ。


 リカードに対しての嫌悪も、側妃に対しての苛立ちも。もちろん顔に出すことはなく、いつも通りに政務にあたる。今後について対策を練るにも、まずは通常の仕事を片付けてなくてはならない。

 そして幾人かの奏上を聞き、幾つかの書面に署名して仕事に切れ間が見えた頃。リカードが先手を打って口を開いた。


「クリャースタ・メーシェ様がご懐妊とのこと、まことにおめでたく存じます」

「うむ」


 心にもないことを、などと皮肉って時間を無駄にする愚は犯さない。表面はあくまでも平静に、妃の懐妊を知った王と臣下がすべき会話をなぞる。


「今は王族の数が少なすぎる。国の未来のためにも()()か王女の誕生は歓迎すべきだろう」

「まことに」


 保つべき体面を崩さないのは相手も同じだった。王子、に強勢を置いて男子の誕生をほのめかしても、リカードは顔色を変えることはない。これで王の子への敵意を示してくれていれば、咎めることもできたのだが。

 ただ、慇懃な態度はそのままに、皮肉というか苦言めいたことを言ってくる。


「陛下もさぞやお喜びのこととは存じますが――娘のことも、お気に掛けていただきたく」

「無論。新しい妃を迎えたからと、俺が王妃を蔑ろにしたことがあったか?」


 先日娼館を訪れたことは棚に上げて、ファルカスは(うそぶ)いた。妻のミーナの耳には入っていないのだから問題ではないだろう。そもそも当てつけで娘を実家に呼び寄せ、夫から遠ざけさせたリカードの方が悪いのだ。


「とはいえ他の女が夫の子を生むとなれば妻は不安になるものでしょう」

「舅殿には経験があるのだろうな」


 複数の妻を許されるのは、イシュテンでは王ひとりだけ。しかしそれは全ての夫が妻に貞節を保つということを意味しない。妻に対して不実であるというなら、彼よりもリカードの方こそ罪が重いと、ファルカスはよく知っていた。


「臣は娘を思って申しているのみでございます」


 この程度の嫌味では、リカードの表情を動かすことはできなかったが。予想はできていても良い父親ぶった物言いは気に障る。ゆえにファルカスの次の言葉はやや尖った。


「無用の心配だ。これまでと同様、ミーナにもマリカにも寂しい思いをさせることはない」

「不遜とは存じますが、それだけでは足りませぬ。浮かれて赤子の話ばかりするようなことのないように願います。ミーナが気に病みますからな」


 前置きは形だけのこと、王に対してほぼ命じる口調の義父に、ファルカスは眉を寄せる。ミーナの名を出したのは、そうすれば彼が聞くだろうと思っているのだろう。浮かれるなというのがこの狸の本音に違いない。事実妻子には甘い自覚があるだけに、つけ込むような理屈が気に入らなかった。


「ミーナは気にしないだろう。マリカひとりで満足しているように見える」

「ですから他の女が、となると話が変わるのです」

「含蓄のある忠告だな」


 ――王妃腹以外の王の子を一番疎んでいるのはお前ではないか。


 王妃と側妃の間に嫉妬や不和は見られない。むしろお互いに過剰なほどに気遣い合っているように見える。よくある妻と愛人の諍いの図を描こうとするのは、リカードがそうであって欲しいと願っているだけだろう。娘を何も知らず何も疑わないように育てたくせに、都合が悪くなると普通の女のような反応を求める身勝手さを、内心で嗤わずにはいられない。


 ファルカスはふとあることを思い出して微笑んだ。腹黒い義父の企みを挫いてやれる、と思いついたのだ。


「側妃は子供を王妃に渡しても良いと言っていたぞ。殊勝なことではないのか。後に手元にくると分かっている子なのだ、ミーナも疎ましく思うことはないだろう」


 あの女が側妃にしてくれと訴えるために密かに忍んで来た時に言ったことだ。あの時はほとんど聞き流していたのだが、今となっては本心だったのだろうと思える。それほどにあの女はミーナのことを慕っているのだ。夫である彼のことよりも、よほど。

 これで王妃を蔑ろにしているとも脅かそうとしているとも言えまい。自身の血を引く者に王位を継がせたいのだ、などとは公言できることではないのだから。リカードのうるさい口を封じてやったと思ったのだが――


「腹を痛めた子をあっさりと手放せると? さすが、雪と氷の気性でいらっしゃる」


 リカードが侮蔑も露に吐き捨てたので、ファルカスは少々意外に思って首を傾げた。側妃の言動が気に食わないというよりは、心底嫌悪を覚えたといったような口調と表情だったのだ。


「……また赤子を育てられるのだ。ミーナも喜ぶと思うが?」

「そのようなお心持ちでは陛下にお任せなどできませんな」


 リカードはいっそ堂々と断言した。


「他の女の生んだ子を好んで育てる女などおりません」

「俺の子だぞ」

「だからこそ、でございます」

「俺に任せられぬとは? どうするつもりだ」


 ――またミーナとマリカを実家に下がらせるとでも言うのか? そのように幼稚な嫌がらせを……?


 側妃の命さえ狙っているだろう男には似つかわしくない。第一、王妃や王女を遠ざけては側妃に譲ったと取られかねない。

 義父の意図を警戒して訝るところへ、リカードは淡々と答える。また感情を窺わせない口調に戻ったのは、この男の想定通りに進めているということなのだろうか。


「どうということもございません。ただ、娘や孫の前では側妃の子の話などしないでいただきたく。そのつもりはなくとも傷つけてしまうことはございますからな」

「側妃が子を譲るつもりならば、ミーナの方でも準備が必要ではないのか」


 リカードの目に一瞬剣呑な色が走るのを、ファルカスは見逃さなかった。そんなことにはさせない、とでも言いたげな――ほとんど殺意とも言うべき鋭く昏い感情だった。


「ですから、その役は臣が務めさせていただきます」


 無論、リカードが実際口に出したのはごく穏やかかつ真っ当なことでしかなかったが。結局のところこの男は王妃の父だ。マリカの時も、こまごまとした衣類などの支度はティゼンハロム家が行ったのだ。


「自身以外の女が孕んだ時の心構え、妻として取るべき立場。クリャースタ様が本当に御子を産み捨てるおつもりならば、その手配は私どもでいたします。恐れながら、陛下には何が必要かお分かりにはなりますまい?」

「それはそうだが……」


 相槌で時間を稼ぎながら、思う。リカードはミーナに側妃への悪意を吹き込みたいのだろうか、と。あるいは側妃の子を取り込んで利用する気かもしれない。


 ――いずれにしても無駄なことだが。


 今さら悪意を教えようとしたところでミーナが変わるとは思えない。側妃を憎めと強いられれば、むしろ父親に怯えることの方がありそうだ。生まれる子の扱いにしても。結局のところ、躾や教育に関しては王であり父である彼が決めれば良いのだ。


「ならば好きにすれば良い」


 これでリカードが――表面だけでも――収まるならば安いものだ。そう計算して、ファルカスは短く頷いた。

 どうせ子が生まれるまでにはまだまだ掛かるのだ。ミーナへ説明する機会も時間も、後後十分に見つけることができるだろう。




 リカードやハルミンツ侯の動向には引き続き目を光らせるとして――夜になって側妃を訪れるのはまた別の種類の気の重さがあった。懐妊した身を気遣わなければ、とは思うものの、顔を合わせればまた険悪な空気になりそうで。

 ファルカスとしても、日中神経を使った後であの女を相手に言葉を選ぶようなことはしたくない。しかし話をしないままにもできないし、何よりリカードは今夜ミーナとマリカの元を訪れるのだという。一刻も早く王妃の心得とやらを吹き込みたくてたまらないといった様子には呆れたが、リカードと同席することを思えば側妃を尋ねた方がまだ良い夢を見ることができるそうだった。


 ということで、さほど楽しい気分でもなく側妃の離宮を訪ねたのだが――


「陛下。今日もお越しいただいて嬉しいですわ」

「うむ……」


 見上げてくる側妃の碧い目がやけに近くて、ファルカスはほんの少したじろいだ。ミーナならば駆け寄って彼を出迎えるのは常のことだったが、この女では初めてのことだと思う。いつもならばどこか警戒した目で、礼儀正しくも余所余所しく膝を折るだけだというのに。今日に限っては吐息を感じるほどの間近に寄って来ている。


 ――少し、痩せたか……?


 戸惑いながら側妃の顔を見下ろせば、顔がいつも以上に白い気がして眉を顰めさせられる。そういえば、この女は昨晩自分の足で立つこともままならないようだった。


「体調が優れないのか」


 頬に手を添えて上向かせると、女は素直に従った。彼に触れられて顔を背けることがないのも、やはり珍しいことだった。首筋の辺りはそれでも強ばっているようだったが。


「はい、悪阻ということでございます」


 答える声さえ、いつになく穏やかで従順だった。普段のように生意気な物言いならば彼も機嫌を損ねていたかもしれないが――これでは、矛先も鈍ってしまう。


「……いつからだ。黙っていたのか」

「申し訳ございません。てっきりただの暑気あたりだと……こんなに早く授かるものとは……」


 側妃は慎ましく目を伏せ、ファルカスに責める言葉を失わせた。確かにミーナがマリカを授かるまでにも数年掛かっている。懐妊を先のことだと考えていたのは、彼も同様だったのだ。


 ――この者ばかりを責めても致し方ないか……。


「そうか。……顔色が悪い。座っていろ」


 心中で諦めのような溜息を吐くと、ファルカスは側妃を長椅子へと導いた。ミーナは懐妊中に不調を訴えることは少なかったが、無理をしてはならない時期なのだという程度の認識は、彼にもさすがにある。


「……ありがとうございます」


 長椅子に掛けると、側妃は彼に(もた)れて弱々しく微笑んだ。その笑みがまた、ファルカスを絶句させる。この女が、彼に心からと思われる礼を述べたのがこの上なく新鮮だった。王族らしく礼儀を知り優雅な振る舞いをする女ではあったが、彼に対する時はほぼ必ず怒りか不機嫌か不本意さ、あるいは嘲りを滲ませていたものだったが。


『あの方は、普通に笑えば見惚れるほどに可愛らしい』


 側近のアンドラーシの声が耳に蘇る。今までは下手な冗談だと思っていたが、あの男は真実を述べていたのだろうか。

 自然と、腕が側妃を引き寄せる。


「よくやった。元気な子を生め。……身体を大事にしろ」


 昨晩も彼は同じようなことを言った。しかし、あの時はその場しのぎに口にしたに過ぎない。今こそ、喜びと(いたわ)りの思いが言葉になって出ているのだ。


「はい。頑張りますわ。陛下のためにも」


 側妃が彼に応えて身体を近づけてくる。その細い腕が触れてくるのにも、ファルカスは驚いた。閨でよほど我を忘れた時でなければ、この女が自分から彼に触れてくることはなかったのだ。腕を背に回して抱きしめるというよりは、わずかに腰の辺りに触れる程度の動きだったが。……その、おずおずと躊躇いがちな仕草がむしろいじらしいと思えた。


「リカードもハルミンツ侯も黙ってはいないだろうが。必ず、守る」

「はい。お心を大変嬉しく思います」


 顎を捉えて上向かせると、側妃は目を閉じて彼にその身を委ねてくる。


 小さく紅い唇に口付けながら、彼は初めてこの女を可愛いと思った。

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