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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
11. 波紋
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密命 エルジェーベト

 王妃と王女のための一角は、王宮の中でも奥まった位置にある。だから広間の宴の喧騒が聞こえてくるということはない。マズルークを退けた戦勝の祝いに、今頃男どもはさぞうるさく酔い騒いでいるのだろうが、それも遠い世界のことのようにここは静寂に包まれている。

 エルジェーベトは、これまで表のことに主たちが煩わされることがないのは良いことだと認識していた。


「はあ…………」


 しかし、今夜に限ってはこの立地も良いことばかりではない。静けさゆえに主のため息がよく聞こえてしまうから。


 ――ミーナ様。どんなお気持ちで……。


 広間の方角、夫がいる方を憂いに満ちた眼差しで見つめるミーナに、エルジェーベトは掛ける言葉が見つけられないでいる。


 窓辺に掛けて。涼しい夜風に髪を揺れさせて、月明かりに青白い頬を浮かばせて。眉を下げた悲しげな表情でも、ミーナはこの上なく美しい。普段は笑顔を見せることが多いだけに、闇に紛れて溶けてしまうのではないかというほどの儚げな様はエルジェーベトの呼吸を奪う。抱きしめて守りたいと思う一方で、それさえも細い身体を壊してしまいそうで憚られて。


 長年仕えてもまた新たな美を見い出せることに感動しつつ、それを引き出したのが憂いだということ、更にその原因が王とあの女だということが耐え難く憤ろしい。

 今日、王は王妃ではなく側妃を宴に伴った。正妻をひとりで嘆かせておいて他の女を侍らせているだけでも許し難いと思うのだが、ミーナはそんな男でも心から愛しているという。側妃(あの女)のことも、エルジェーベトの計画にも関わらずまだ嫌ってはいないようだ。


 思いのままに不実な夫や泥棒猫を罵っても、ミーナを悲しませるだけなのはもう分かっている。かといってただ話を聞いてやることも難しい。この期に及んで王や側妃を慕っているなどと聞かされると、どうしても顔が強ばってミーナを怯えさせ悲しませてしまうのだ。

 人を嫌うことがないのは主の美点ではあるけれど――あのような者たちを相手には、過ぎた好意だと思うのに。その想いを、全てエルジェーベトに向けて欲しいと思うのに。

 ミーナは優しすぎるのだ。


 ――ひと言、あの女が憎いと言ってくだされば……!


 そうしたら、リカードが何と言おうとエルジェーベトは主のためにあの女を消すだろう。あの寡妃太后(かひたいこう)がした程度のことは彼女だってしてみせる。王妃を軽んじ脅かす女に相応しい罰を与えてやろう。

 前に肌を爛れさせたのは、王を誘惑したことへの罰でもあるのだ。自慢の美貌も白い手脚も、見る影もなく汚してやりたい――


「――エルジー?」

「は? ミーナ様?」


 憎い女を苦しめる妄想に耽っていたエルジェーベトは、主の声に我に返った。いついかなる時でも優しく愛らしいその声は、いつでも駆け寄りたくなる響きのものだから。


「もう遅いでしょう。先に休んでいて頂戴」


 ミーナの微笑みは、表面は常と変わらない。しかし黒い瞳には確かに悲しげな色が浮いていて、それがエルジェーベトの胸を締め付ける。


「ですがミーナ様は……?」

「私はまだ少し起きているから。マリカも寝たし、ついていてもらわなくても大丈夫よ」


 確かにミーナは既に髪を下ろし楽な寝巻きに着替えを済ませている。後は気が向いた時に寝台に行くだけの姿。だが、放っておいたらこの方が休むことなどなさそうで、下がることなどできないと思ってしまう。


「ですが」


 ――待っていても王が来る訳では、ないのに。


 王は、今夜は側妃のもとで休むのだと既に伝えられている。宴の酔いに任せてあの女を抱こうというのだ。ミーナやマリカという妻子がありながら情欲を優先させる、男など所詮汚らわしい獣だ。ミーナが心を痛めながら焦がれ、待つ必要などどこにもないと思うのだが。


「陛下は……」


 王があの女と寝台で何をしているか。こと細かに教えてやれば、ミーナもさすがに嫉妬や嫌悪を覚えるかもしれない、と思う。しかし、どうしても口にすることはできなかった。無垢なミーナの耳に入れるには、男女のことはあまりに生々しく浅ましすぎると思ってしまうのだ。ミーナ自身も一児の母なのに、不思議なことではあるのだけれど。


 何より――


 ――父君様のことに、気付かれでもしたら。


 清らかなミーナを汚したくない、世間のことなど知らず穏やかに幸せに過ごして欲しいという願いは心からのものだ。しかし、エルジェーベトがそのために尽力するのは自分のためでもある。

 リカードとエルジェーベトの関係を知る者、察している者は多い。たかだか侍女、乳姉妹にすぎない彼女がミーナの傍に仕えてティゼンハロム侯爵家との間を取り持っているのは、この爛れた繋がりのためだ。


 誰に何と言われようと彼女の気にするところではないが、ミーナだけには知られてはならない。父の母に対する裏切りも、親しい――はずだ、誰よりも――侍女の乱行も、この優しい人には耐えられないだろう。

 エルジェーベトとしても、ミーナからの怒りや軽蔑の視線は何より怖い。主からの信頼を失うかもしれないと思うと、この方には何も知らないままでいて欲しいと願ってしまうのだ。


「ええ、ファルカス様はいらっしゃらないのでしょう。だから、考えごとでもしようと思って」

「何をお悩みなのでしょうか……」


 思い悩んで夜を過ごすなど、三十年近くミーナに仕えてこれまでになかったことだ。


 ――これも、あの者たちのせいで……!


 王とあの女を頭の中で踏みにじりながら、エルジェーベトは慌ててミーナに駆け寄った。とはいえ心中の怒りを顔に出してはならない。彼らを悪し様に言えないのがどれほど意に染まないとしても、ミーナを安らかに眠らせるためだと思って我慢しよう。あくまでも優しく穏やかに、ミーナに不安を吐き出させなくてはならない。

 しかし、エルジェーベトの悲愴な決意とは裏腹に、ミーナは可愛らしい仕草で首を傾げた。


「悩み、というのかしら」


 思いつめたというよりは、本当に何と表現したら分からない、と言った風情でひとまず安心できた。それでも先ほど消えてしまいそうだと思ったばかりなので、柔らかな温もりを抱きしめて確かめる。


「何でも、仰ってくださいませ」

「うーん……」


 夜風に冷えた身体を温めるように、二の腕の辺りをさすっているうちミーナもエルジェーベトに身体を預けて甘えてくれた。彼女を信じて打ち明けようとしてくれている兆候だ。

 そして。大好きな人が唇を耳元に寄せるのを感じて血が熱くなる。


「シャスティエ様のようになりたいと思って。どうしたら良いのかしら」


 ――ああ、そんなこと……!


「ミーナ様はそのままで十分お美しいですわ。あの方は……髪や目の色が珍しいというだけでしょう」


 それに、少しばかり若いというだけ。そのようなささやかな利点は、すぐに年月によって失われる程度のものだ。主を安心させようと微笑みながら、エルジェーベトはその豊かな黒髪を指で梳いた。


「私は、ミーナ様の髪も瞳も大好きです。ただの黒ではなくて、しっとりとして、艶があって。夜の川のように深く神秘的で――」

「ああ、違うの。見た目のことではないのよ」


 幾らでも続けられそうだった賛辞は、当のミーナによって遮られた。


「シャスティエ様のお髪も、宝石のような目もとても綺麗な色だけど。私――シャスティエ様のように色々なことが分かるようになりたいの」

「――は?」

「シャスティエ様は、凄いでしょう。何でも知っていて、とてもしっかりなさっていて。ファルカス様のお役に立てているの。……妻というのは、あの方のようでなくてはならないのかしら」

「…………」


 主が訥々と続けたのはあまりにも意外なことなので、エルジェーベトは一瞬言葉を失った。しかし、次の瞬間に激しい恐怖に襲われる。


「本を沢山読めば良いのかしら……」

「とんでもないことですわ!」


 ――ミーナ様が外のことを知るなんて……!


 激情に駆られるまま、エルジェーベトは声高く叫んでいた。知識をつけることは、ミーナの世界を脅かすことだとしか思えなかった。


 ミーナは多くを知りすぎてはならないのだ。この方を取り巻く世界は、この方が信じているほど平和ではない。共に愛する父と夫が実は反目し互いを押さえつける機を窺い合ってるなど知る必要はない。王女ひとりしかいないことへの不安も不満も侮りも、悟られてはならない。

 側妃を憎んで欲しいけれど、その本当の理由は知って欲しくない。ミリアールトとの同盟が父であるリカードを追い詰めるためのものだ、などと。


 生涯かけて守ると誓った主が、自ら危険に近づこうとしている。その焦りはエルジェーベトの声を鋭く高めさせた。ほとんど悲鳴のように、指先はミーナの腕を強く掴んで訴える。


「小賢しい女など煩がられるだけですわ! ミーナ様が真似ることではありません!」

「でも。ファルカス様はシャスティエ様のところへよくいらっしゃっているのでしょう……?」

「あの方の見た目と同じ、陛下は物珍しいと思し召しているだけです!」

「でも……私は……」


 ミーナの顔が強ばり、目には涙が溜まっていくのを見てエルジェーベトの焦りは高まる。大きな声も強い口調も、主を怯えさせるだけなのだ。そもそも、この人は頭ごなしに叱りつけられることに慣れていない。


 ――何と言えば良いの……。


「私は、このままではイヤなの……」


 声を震わせながらも、視線を揺るがせずに訴えるのも、今までのミーナにないことだった。リカードやエルジェーベトの言うことを疑わず、無心に自身の幸せを信じてきた人なのに、どうして今さら余計なことをしようとするのか。生意気なあの金髪の娘が、この人によからぬ影響を与えているというのか。


 ――これもあの女のせい……!


「ミーナ様……」


 滾る怒りを懸命に微笑みで覆い隠し、主をなだめる言葉を探そうとした時だった。


「あの……」


 背後から呼びかけられて、エルジェーベトは苛立ちも露に振り返る。


「何なの」


 大事な愛しい人を慰めようとしていた時間を邪魔されたのだ。くだらない用件ならば許さない、と力を込めて睨みつけると、呼びかけた召使は怯えたように身を竦ませた。それでも王妃を気遣う程度には頭が回ったらしい。その娘は小走りにエルジェーベトに駆け寄ると、耳元に小声で囁いた。


「侯爵様が、お呼びです。至急のことだと」

「殿様が……」


 呟きながら、ミーナの顔色を窺う。まだ泣きそうな表情をしている。慰めるどころか怖がらせてしまった。ただ、安らかに眠って欲しかっただけなのに。


「申し訳ありません、お召しですから行かなければなりませんわ」


 だが、エルジェーベトにリカードの命を撥ねつけることなど許されない。


「ミーナ様、どうかお休みになってくださいますね?」

「お父様、何かあったのかしら……」

「ご心配には及びませんわ。何事も殿様がミーナ様の良いようにしてくださいます」

「……ええ」


 とうとうミーナを笑顔にすることができなかった。それを悔やみつつ。言われた通りに休んでくれるか案じつつ。エルジェーベトは主を置いて行くことしかできなかった。




 至急の用だというだけあって、リカードは抜かりなく馬車を用意させていた。主の意を受けて逸っているのだろう、御者も馬を急かしているようだ。


 車体の振動に揺られながら、エルジェーベトは寒さのような恐怖が肌を刺すのを感じていた。


 ――宴で、何かあったのかしら。


 とはいえ、ミーナを脅かすことがあったのでは、という懸念は小さい。王も側妃も、公然と王妃を蔑ろにすることはないだろう。

 彼女が恐れているのは、リカードの機嫌だ。例え実害はないとしても、王とあの女が並ぶ姿に、そしてミリアールトの敗将が武勲を立てて賞揚される姿にあの男の矜持が傷つかないはずはないのだ。

 ミリアールトでしくじったバラージュの息子もこの度手柄を立てていたが、それも大したこととは捉えられていないだろう。そもそもこの勝利自体があの女の小賢しい献策によるものだということだから。表向きは降伏した老いぼれの策だということになっているが、とにかく此度の件ではミリアールトの勢力が増し、相対的にリカードの影が薄くなったということだ。


 掌に爪が食い込むほどに、エルジェーベトは拳を固く握り締めた。


 ――またあの女だわ……!


 怒りを沈めるために、リカードは彼女に何をするのか、あるいはさせられるのか。あの女の存在のために、彼女はいらぬ苦痛を味わわされる。それもまた、エルジェーベトがあの女を嫌いな理由なのだろう。




「あの女を殺せ」


 しかし、跪いたエルジェーベトへ、リカードはただひと言命じただけだった。挨拶を述べる間さえも待たないほどの、簡潔かつ性急な命に、エルジェーベトは思わず顔を上げた。


「は――?」

「手段は問わぬ。必要なものがあれば言え。ただし絶対にしくじるな」

「よろしいのですか……?」


 主を怒らせる類の愚問とは分かっていたが、訊かずにはいられなかった。彼女は初めからあの女を殺させて欲しいと懇願していたのだ。それを待てと命じていたのがリカードではなかったのか。ミリアールトの情勢が落ち着かないとか、国内の諸侯の不穏な動きをしているなどと言って。

 願い続けたことがあっさりと叶って、喜ぶよりも信じられないという思いが大きかった。


 見上げたリカードの表情は、怒りや憎しみに歪むのではなく思いの外平静だった。そういえば言葉も穏やかだった。感情に任せて邪魔者を消そうというよりは、なすべきことをなすのだとでも言うような。


 彼女の不審を察したのだろう、リカードはまたも短く吐き捨てた。


「あの女、孕みおった」


 今度の言葉には明らかに不快が滲んでいて、エルジェーベトはその分かりやすい感情にいっそ安堵した。しかしそれもすぐに怒りに取って代わられる。


「そんな……もう……」


 側妃が迎えられてからまだほんの数ヶ月だ。

 ミーナはマリカを授かるまでに数年掛かった。本人の耳には決して入ることのないようにエルジェーベトやリカードが心を砕いてはいたが、石女と嘲る声も側妃を勧めようとする声も多かったのだ。ミーナを軽んじ貶める者たちに対して、腸が煮える思いをしてきたのに――どうしてあの女は、こうもあっさり孕むことができたのか。


「交われば必ず孕む、獣のような腹だ」


 リカードも同じ思いを噛み締めているようだった。静かな声には深く暗い憎しみが澱んでいる。


「マリカの他に王の子はいらぬ」

「――分かっております!」


 エルジェーベトは大きく頷いた。ミーナが側妃の意味をよく分かっていないのは、今となっては幸いだった。その本当の意味――他の女が王の子を生むことの危険を知る前に、夫の裏切りをこんな形で思い知る前に、その世界を守らなくてはならない。


「必ず、腹の子ごとあの女を始末して見せますわ!」


 力強く断言すると、リカードは薄く微笑んだ。彼女の忠誠を確かめて信じてくれたのだろうか。


「ミーナには知られることのないようにせよ」

「心得ております」


 また頷いてから、ふと不安と疑問を覚える。


「ですが、王が知らせるのでは――」

「ミーナの前では懐妊など口にするな、と言っておく」


 彼女が考える程度のことはとうに考えていたのだろう、リカードはごくさらりと答えた。


「娘を悲しませるなと……しばらくは時間が稼げるだろうからその間にカタを付けよ」

「そのようにいたします……!」


 エルジェーベトは深々と頭を垂れた。誰にも見えないであろう口元は、深く弧を描いている。ミーナに掛ける言葉が見つからなくて途方に暮れたのも先ほどまでのこと。彼女は既に新しい希望を見つけていた。


 リカードの許しさえあればあの女を始末することができる。王妃を軽んじ王女を脅かす女は消えていなくなる。ミーナは悲しむかもしれないが、いずれ忘れることだろう。エルジェーベトが忘れさせてあげよう。


 ――全て、今までの通りにするのよ……!


 ミーナやマリカとの和やかな日々を保ち続けること。それこそが、エルジェーベトの唯一にして最大の夢なのだ。

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