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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
11. 波紋
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内からの恐怖 シャスティエ

 シャスティエは王に抱えられて離宮へと戻った。ぐったりと疲れきって、自分の足で歩くということができなくなっていたのだ。


 ティゼンハロム侯とのやり取りによって懐妊が明らかにされた後、宴は一段と湧いた。王とシャスティエのもとには祝いを述べに訪れる者が後を絶たず、深夜近くまで退出することを許されなかった。その間ずっと人の熱気に蒸されるようで、誰もが笑っているのにその本心は見えなくて恐ろしくて。すぐそばのティゼンハロム侯の視線も刺さるようで。

 宴が果てる頃には飲んでもいない酒に悪酔いしたような有り様になっていた。


「大丈夫か」

「……はい。申し訳ございません」


 言葉では気遣いつつも、王の声には怒りと苛立ちが満ちているのも煩わしかった。やはり、彼女は信用されていないのだ。悪意を持って懐妊を伏せていたのだと、王は疑っている。言い返したいのはやまやまでも、今のシャスティエには言い訳を紡ぐこともままならなかった。


「知らされていたら出席などさせていなかった。なぜ黙っていた」

「……私も先ほど気付いたのです」

「バカな。自分の身体だろうが」


 ――本当なのに!


 シャスティエが心中で叫び、王が音高く舌打ちした時――目を開けているのも億劫だったから辺りはよく見えていなかったのだ――、やっと離宮にたどり着いたようだった。扉を開け放つ音に、侍女たちの悲鳴が混ざる。


「クリャースタ様! どうなさったのですか!」

「こんなにお帰りが遅いなんて……心配しておりました」


 王の腕から解放されて、女たちの柔らかい手に委ねられる。気遣う言葉も暖かく、優しい口調は王と違って威圧してくることはない。両脇から支えられるのも、髪や頬を撫でられるのも不快ではなく、むしろ安心して力を抜くことができる。

 夫婦とは名ばかり、過ごした時間は彼女たちとの方がずっとずっと長いのだ。


「…………」


 だから、やっと寛いで良いはず、なのだけど。


 ――皆、知っていたのに黙っていたのね……。


 気付いてしまえば、侍女たちが懐妊のことを悟った上でシャスティエに隠していたのは疑いようがない。ただの暑気あたりに大げさな、などと思っていたのは彼女だけだったのだ。さぞ滑稽な姿だっただろう。

 伏せられていたお陰で、ティゼンハロム侯やイシュテンの諸侯が揃う前で懐妊が知れ渡ってしまった。彼女を憎み退けようとしている者たちにまで、くまなく。

 教えてくれていればもっと上手く切り抜けることもできたはずなのに。そう思うと、何か裏切られたようでつい睨んでしまうのだ。

 彼女の視線に何かを察したのか、侍女たちがシャスティエを支える手指に微妙な緊張が感じられた。


「クリャースタ様……、あの……」

「異常があれば言えと伝えていたはずだ。よりにもよって懐妊を隠すとは」


 だが、王の目つきも言葉も、シャスティエ以上の怒りと不快を滲ませていた。懐妊のひと言で侍女たちにも事情が察せられたらしい。彼女たちの表情が一斉に強ばった。

 そしてそれを見て、王も気付いてしまった。侍女たちも、知っていたのだと。


「お前の命か。どこまで意地を張るつもりだ」


 シャスティエを睨む王を前に、侍女たちが息を呑んで身体を竦ませる。無理もない、王は祝杯を数え切れないほど空けていた。言葉や挙動に胡乱なところはないものの、頬は赤らんで傍にも分かるほどの酒気を漂わせている。そのような状態の大柄な男が怒気を漂わせているのは、とても、怖い。


 侍女たちへのわだかまりはあるが――王にまともに対することができるのは彼女くらいのものだろう。肺が空になるほどの溜息を吐いてから、シャスティエは王に向き合った。


「陛下――」

「異常、と仰いましたか!? 御子を授かったのを! 陛下の御子でもあるのに!」


 頭を下げて済ませてしまおうと思ったところを、しかし、横から進み出た小柄な影に遮られる。


「喜び(ねぎら)ってくださるのが本来というものでしょう。なぜそのようにお怒りになるのですか!」

「イリーナ、下がりなさい……!」


 若草色の瞳に決然とした色と涙を同時に浮かべて、同郷の侍女が王に食ってかかるのを、シャスティエは慌てて止めようとした。王がシャスティエではなくイリーナを見て顔を顰めているのが剣呑に思えて仕方ない。


「――申し訳ございませんでした。お叱りは如何様にも。この者には後でよく言って聞かせますから――」

「初めてのことなのです。シャスティエ様は何もお気付きではいらっしゃいませんでした! 隠していた咎は私どもにございます!」


 宴で疲れきったシャスティエの弱々しい声は、イリーナの涙混じりの怒声にかき消されてしまう。せめて、と思ってイリーナを庇って前に出ようともがいても、ツィーラとエシュテルに押し止められた。


 ――イリーナが罰せられる……!?


 不安と恐怖に息を詰めてことの成り行きを見守っていると、王と目が合う。シャスティエに視線を戻した王の青灰の目は、怒りよりも当惑の色が濃いように見えた。


「――本当に気付いていなかったのか? そのようなことがあるものなのか?」


 ――初めからそう言ってるじゃない!

 

 ややあって口を開いた王は、だいぶ気勢を削がれているように見えた。弁明が全く届いていなかったのを知らされて、シャスティエの方こそ抑えようとしていた怒りが燃え上がる。


 何か言ってやらねば、と大きく息を吸うが、言葉を発する前にまたも侍女に遮られてしまう。


「クリャースタ様はご休息が必要かと。大事なお身体ですから、今宵はお休みいただくのが良いかと存じますわ」


 今度邪魔をしたのは、新参のエシュテルだった。王とシャスティエとイリーナと。それぞれに気が立って刺々しい空気を、全く感じていないかのような穏やかな笑顔で首を傾げている。


「陛下は? 今宵はこちらでお休みになりますか……?」


 王はその問い掛けにすぐに答えることをしなかった。険しい視線を今度はエシュテルに向け――エシュテルはそれを笑顔で受け止める。


「そなたがバラージュの娘か……」

「弟がご厚情をいただきました。父の汚名を雪ぐ機会を与えてくださいましたこと、感謝の言葉もございません」


 エシュテルたちの父に汚名を追わせたのは王に他ならない。恭しく跪いた侍女に非難の色は見えなかったが、王は気まずそうに顔をふいと横に向けた。


「そなたに感謝される謂れはない」


 王はまた数秒言葉を選ぶように沈黙した。


「今日は表で休む。……大事にするが良い」


 そしてシャスティエに掛けられたのは、当初の不機嫌さに比べれば信じられないほどに――あくまでも比べれば、だが――穏やかな声だった。取って付けたようなものとはいえ、気遣いの言葉さえ添えられている。


「……はい。ありがたく存じます」


 頭ごなしに叱責されたことを許した訳では決してないが、これで終わらせるのが最善だと、さすがにシャスティエにも察することができた。




「イシュテンの殿方は女に対して曲がることはございません。気を逸らせてしまう方が早いこともありますわ」

「……覚えておくわ……」


 王が去ると、エシュテルはシャスティエの髪を解きながら教えてくれた。


 ――私には出来そうもないけれど……。


 そうと口にはしなかったのは、エシュテルは先ほど王にしたように父を宥めたことがあるのだろうか、と思ってしまったからだ。彼女の父が死んだのには、シャスティエも大いに責任があるのだ。恐らくは王も同様に考えているに違いない。だからこそあんなにもあっさりと引き下がったのだ。

 さすがは身分ある家の出だから、ということになるのだろうか。この女性が身近に仕えてくれるのはシャスティエにとって幸運だったのかもしれない。


 とにかく――


「話はまた明日。今日は休ませて頂戴」


 不安げな面持ちで見つめてくる侍女たちに、シャスティエは短く告げた。懐妊を知らせなかったことで、主が怒っているのは悟っているのだろう。明日、と言われて三人とも表情を曇らせている。

 叱るなら早い方がお互い楽になれるのだろうが。今は、とてもそんな気力がなかった。


「イリーナ」

「はい!」


 ただひとつ、この場で言っておくべきことがある。


「私のために怒ってくれてありがとう。良いことではないけれど……嬉しいわ」


 名を呼ばれて、判決を待つ罪人の面持ちで身体を強ばらせていたイリーナの、大きな目がみるみる涙で満ちる。


「シャスティエ。私たち……私……申し訳……」

「おやすみなさい。下がって良いわ」


 今にも泣き出しそうな侍女を、慰めてやりたいと思う。でも、気持ちの上でも身体の上でもこれ以上掛ける言葉を考える余裕はなかった。




 長い夜の後だから、柔らかい寝台に沈み込むのは泣きたくなるほどの安らぎだった。悪阻(つわり)――今ならそういうことだったと分かる――の悪心に悩まされ、王の理不尽な怒りに憤り、無数の敵意に曝され怯えた。ただひとりだけ、闇の中で身体を横たえる。ただそれだけのことがこの上ない贅沢に感じられる。


 だが、最高の安らぎであるはずの眠りは、訪れてくれなかった。身体は疲弊しているのに心は昂ぶっていて、目を閉じても不安と恐怖ばかりに捕らわれて。本当に休むことができないのだ。


 ――ここに、王の子がいる……!?


 下腹に手を当てて、シャスティエは身体を丸めて慄いた。侍女が細いと評した腰周りは、もちろんまだ何の変化も見せていない。掌を押し当てても、ただ滑らかで平らかな腹に触れるだけ。なのにそこには新しい命が宿っていて、彼女を、母を苦しめているというのだ。


 ――王の子……私の子……。


 シャスティエ自身の――ミリアールトの血を繋げる子だと考えるべきだ。そのためにこそ、彼女はイシュテンの王に身を任せたのだから。それでも、受身の女の身だからか、身体を変容させられたという気分が強い。王によって身体を変えられたというだけでなく、何か恐ろしいものを植え付けられたような気がしてならなかった。

 この先腹が膨らんできたら、胎動を感じたりしたら、彼女は耐えることができるのだろうか。懐妊したというそのことだけでもこんなに怖くて仕方ないのに。


 グニェーフ伯の声が耳に蘇った。


『まだお気付きでないなら、その方が良い』


 今ならあの言葉の意味が分かる。侍女たちが主に隠し事をした理由も、また。

 皆、シャスティエがこの恐怖を味わうのを少しでも遅らせようとしてくれたのだ。そして、懐妊を知ってから子の誕生までの時間が、少しでも短くなるように。

 彼女が純粋に喜ばないであろうことも、側妃の立場の不確かさも、皆よく承知していたから。


 ――ああ、でも人に知られてしまった……!


 憎しみも露なティゼンハロム侯の目や、周囲の者と何事か囁き交わしていたハルミンツ侯を思い出すと、夏だというのに肌が粟立つ。王が面倒だと言ったのはごく控えめな表現にすぎない。シャスティエの子の誕生を望む者はごく少ない。今度こそ嫌がらせ程度ではなく、遠慮なく命が狙われることになるのだ。

 自身が置かれた状況を数え上げる度に安らぎは遠ざかり、恐怖に首を絞められる思いがする。


 懐妊を、待ち望んでいたはずだった。王に侍らなくても良くなるからと。復讐のために必要だからと。

 しかし、実際にこの時を迎えてみると、安堵よりも喜びよりも恐怖が勝る。


 彼女の意志に関わりなく変容する身体と、彼女を取り囲む敵と。内と外から迫る恐怖に、シャスティエは震えることしかできなかった。




 ろくに眠れないまま朝を迎えて。やはり疲れは取れなかった。鏡の中の自身を見れば目の下には隈がはっきりと浮いていて、シャスティエは重く溜息を吐く。


「クリャースタ様、ご朝食は……」

「食べないという訳にはいかないでしょうね。果物でもあればいただくわ」


 自分だけのことだと思っていたから、吐くくらいなら何も食べていない方がマシだと思っていたのだ。腹に子が宿っているとなれば、飢えさせる訳にはいかないだろう。シャスティエにも、その程度の知識はあった。


 干した杏や無花果(いちじく)はしっとりとして濃い甘さがあり、滋味が身体に染み渡る気がした。口にものを入れれば、昨夜以来ほとんど何も食べていなかったと思い出させられる。瓜は、甘味は仄かだが水気が豊かで喉を潤してくれる。

 硬い表情の侍女たちが見つめる中、居心地の悪いひと時ではあったけれど、とにかくも食事をするということは多少なりとも彼女の神経を和らげてくれた。


「……これまでの……というか、これからのことだけど」


 だから、何となく腹を手で覆って切り出す頃には、かなり穏やかな声を出すことができたと思う。


「申し訳ございませんでした……!」

「頃合を見てお話するつもりではございました」

「最初は私どもも確信がなくて。それに――」

「私も覚悟ができているようには見えなかったでしょうしね」


 平伏する勢いで口々に詫びる侍女たちに対しても、怒り叱りつけるつもりはもうなかった。


「冷静になれば無理もないことと分かったわ。暑気あたりとでも思っていた方が、どれほど気が楽だったか……。私のためを、思ってくれたのね?」

「クリャースタ様……」


 安心させてやろうと微笑みかけたのに、侍女たちはなぜか痛ましげに顔を歪めた。


「やはり、ご懐妊を喜んではいらっしゃらないのですね……」

「それは、まあね……手放しに、という訳には」


 恐る恐るといった表情で腹を撫でようとするイリーナの手を握りながら、シャスティエは首を傾げる。イリーナばかりでなく、ツィーラもエシュテルも。年齢も出自も違う女たちが、揃って哀れむように見つめてくるのが不思議だった。この者たちは、彼女の心情を分かってくれていたのではないのだろうか。


「……分かっていたから黙っていてくれたのでしょう?」

「はい。ですが、何ておいたわしい……」


 イリーナの目に涙が浮かんでいるのを見て、シャスティエは慌てた。泣かせてしまったら、困る。少女の小柄な身体を抱きしめながら、どうにか明るい声を出そうと――良いことを探す。


「でも――そもそも私が側妃に上がったのはこのためだもの。もしも男の子なら……世継ぎの王子なら、ミリアールトにとってもイシュテンにとっても喜ばしいことでしょう?」

「はい。ですがクリャースタ様のお気持ちは……」

「多分、悪いことだけではないと思うわ」


 侍女ひとりひとりの目を交互に見ながら、シャスティエは懸命に言い募った。明らかな不調や命を狙われる恐怖を覆い隠すには、あまりに白々しいとは知りながら。


 ――でも、良いこともあるわ……!


 ひとつ思いついて、シャスティエはイリーナに頬を寄せて囁いた。


「ほら……子供が生まれるまでは王の訪れはないはずだし……それなら皆も気楽でしょう?」


 これは、疑問の余地なく()()()()のはずだった。王を見送った後、何度となく懐妊を願ってきたのだ。これほどに恐ろしいものと覚悟していた訳ではなかったが、少なくともあの男と会わずに済むならシャスティエの心は幾らか安らぐだろう。


「え?」


 しかし、侍女たちは目を見開いて顔を見合わせた。お互いにつつき合うようにして物言いたげな視線を交わすこと、しばし。代表して口を開いたのは、ツィーラだった。


「……なぜ、そのように思われるのですか」

「だって。用がないでしょう」


 眉を下げて問うてくる老女に、シャスティエはなぜか口ごもらされた。彼女には滅多にないことだったけれど、的はずれな回答を教師に対して説明させられる時のような。何かあり得ない間違いを犯したらしいと気付いて、シャスティエは恐る恐るツィーラに尋ねた。


「……王は、まだ来るのかしら」

「御子のこともクリャースタさまのことも、陛下も気にかけられるでしょう」

「私の子よ? ミーナ様ではなくて」


 好きでもない女が孕んだ、まだ生まれてもいない子だ。あの王が心を割くとは思えなかった。シャスティエについてはなおのこと、生まれるまでは会う必要もないだろうと思ったのだけど。


「今まで以上に頻繁にいらっしゃるかと思います」


 しかしツィーラはあくまでも真面目な顔で首を振ったので、この侍女は本心からそう言っているのだと思い知らされる。しかも両隣では、イリーナとエシュテルも年配者の言葉に頷いているのだ。


「そう……」


 重いため息を吐く主に、王宮に長く仕えた老女は言いづらそうに、それでもどこか慰めるように語りかける。


「……御子様の御為にも陛下のご寵愛は必要ですわ。ご懐妊中に忘れ去られた方々もいらっしゃいました。当代の陛下は他に側妃も寵姫もいらっしゃいませんが……」


 先王の時代を知るツィーラの言葉には重みがあった。シャスティエも頷かざるを得ないほど。


 ――懐妊したからといって終わりではないのね……。


 むしろここからが肝心、なのだろうか。シャスティエの子に快く王位を譲ってもらうには、確かに王の歓心を買わねばならないだろう。

 食事を採ってわずかに上向いた機嫌は、また急速に傾いていっていた。だが、駄々を捏ねている場合ではないのは理解した。

 憂鬱な気分をもう一度ため息で吐き出すと、シャスティエはエシュテルに向き直った。


「イシュテンの殿方の扱いを教えて頂戴。王にもっと気に入られなければならないようだから」


 できるかできないかなどとは、もはや言っていられない。彼女の子のため――ミリアールトの王のため。シャスティエは王を操る術を学ばなければならないようだった。

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