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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
11. 波紋
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暴露 シャスティエ

「クリャースタ様……。やはり、欠席なさった方が……」

「そんなことはできないわ。支度を、お願い」


 心配そうな表情の侍女たちに囲まれて、しかし、シャスティエはきっぱりと命じた。


 今夜はマズルークを退けた戦勝の宴が催されるのだ。殊勲者のひとりは彼女の臣下でもあるグニェーフ伯。女の身ゆえに公にすることはできないが、勝利をもたらした献策をしたのは彼女自身。王に近しい者ならば承知しているだろうし、何より王が必ず来いと命じたからには、欠席することなど許されない。


 ――今度こそ仮病だと思われてしまうじゃない。


 シャスティエも好んで出席したい訳ではない。ただ、そうしなければならないというだけだ。シャスティエとしては屈辱でもあるけれど、ミリアールトとイシュテンの同盟を、諸侯に知らしめる好機でもある。侍女たちも分かっているだろうに今更渋る理由が不可解だった。


「間に合わないと困るわ。早くして頂戴」


 やや声を尖らせて重ねて命じると、侍女たちは不承不承といった表情で動き始めた。髪を結われ化粧を施されながら、そのうちのひとり――エシュテルに話しかける。新参で付き合いが浅いことと、彼女の父との経緯もあって、口調は遠慮がちなものになってしまう。


「――貴女の弟君も主役なのよ。様子は知りたいでしょうに」


 エシュテルの弟、カーロイもグニェーフ伯と共に武功を立てた。彼女自身を宴に伴うことはできないが、姉として、汚名を着せられて死んだ父の子供同士として、弟の晴れの姿は気になるに違いないのだ。詳しく話して聞かせると約束した時には、嬉しそうに目を輝かせていたというのに。


「ええ、お気遣いは大変もったいなく存じます。ですが御身のことが一番ですから」

「大したことではないのに……」


 エシュテルの口調はあくまでもおっとりとして優しくて、機嫌を傾けている方が大人気ないと思わせられる。だからシャスティエはひっそりと溜息を吐いた。


 侍女たちはシャスティエの体調を案じているのだ。

 暑気あたりは長引いていて、依然として食欲のない日が続いているし吐き気も収まらない。喉を通るものも限られているから、宴席で人の熱気にあたるのも酒や料理の香りを浴びるのも、正直に言えば気が重い。大勢の前で醜態を見せるようなことがあれば、シャスティエは自分を許せないだろう。

 けれど、寝込むようなことではないのだから欠席の口実にはできない、とも思う。要は彼女自身が毅然としていれば良いだけ、侍女たちの気遣いは嬉しいと同時に過分のものだと感じられる。


「ねえ――緩すぎるわ。もっと締めても良いのよ」


 釈然としない気分のまま侍女たちに身を委ねていると、着付けの感覚がいつもと違うのに気付いて、シャスティエはつい不平を漏らした。紐を編み上げて腰を締めるのに、今日に限って大分緩い。普通なら胸が苦しくなるくらいに締め上げて、それで姿勢を保つくらいなのに。


「いいえ。苦しいとご気分に障るでしょうから」


 それさえも穏やかな微笑みで流されてしまうのだが。


「身体の線がおかしく見えてみっともないわ」

「クリャースタ様は十分に細身でいらっしゃいます」

「そういう問題ではなくて」

「お任せくださいませ」


 不満を述べたところで、ひとりで着付けをすることはできない。シャスティエの主張は容れられないまま、着々と身支度が整えられていく。宴に相応しい盛装へと。このように着飾るのは久しぶりだが、特段嬉しいということもない。王の妻として人前に出なければならない上に、装いに満足していない状態では。


「お酒は控えてくださいませ。酔ってしまっては――」

「気分が悪くなるものね。止めておいた方が良いでしょうね」

「今宵さえ無事に済めば、お休みいただけますから」

「分かっているわ」


 最後に送り出される時にいたるまで、侍女たちはシャスティエに過剰に思える気遣いをしていた。酒を飲むような気分ではないのは当たっているので頷いてはみせたものの、内心では溜息が止むことはない。


 ――どうして、こんなに世話を焼かれなければいけないのかしら。




 控えの間で顔を合わせた王は、シャスティエの機嫌にも着付けの不備にも無頓着なようで、彼女の姿を認めて軽く頷いただけだった。


「イルレシュ伯らもお前に会うのを楽しみにしているだろう」

「このような場にお招きいただき、光栄に存じます」

「ミリアールトの忠誠を見せる場でもある。お前の出席は当然だ」

「……はい」


 頷いたシャスティエの表情は曇っていただろう。王に受け答える間にも気分の悪さは絶え間なく彼女を襲っていたのだから。

 一応は妻である女の浮かない顔をどう捉えたのか、王は軽く眉を上げたが咎めることはしなかった。


「ミーナは出席しないから安心するが良い。今日は側妃(おまえ)がいれば足りるのだから」

「そう、ですか……」


 そう聞かされてなお、シャスティエは喜ぶことはできなかったが。


 ――ミーナ様……今頃どんなお気持ちで……。


 夫が側妃と並ぶ席に同席するのと、その場面を遠くから思い描くのと。どちらがより苦しいものなのだろうか。前に会った時に、王を愛している訳ではないと明言しておくべきだっただろうか。本人を目の前にそう言うことは、さすがに憚られて言えなかったのだけれど。




 側妃クリャースタ・メーシェは言うまでもなく王の歴とした妻だ。ゆえに王と隣り合った席を用意されるし、公爵に準じた扱いを受けるためにティゼンハロム侯よりも上座に位置することになる。戦勝への祝いを述べる老侯爵の目には隠そうともしない憎悪が見て取れたので、シャスティエは視線の刃に刻まれる思いをした。

 侍女の勧めを思い出して、酒を断ったのも良くなかった。


「臣の注いだ酒は信用いただけませぬか」

「酔ってお見苦しいところをお見せしたくありませんの。あまり強くないものですから」

「先のことがあるから無理もあるまい。この者は一度死にかけたのだから」


 王は()イルレシュ伯の事件を皮肉って、ますます彼女の居心地を悪くさせた。あるいは助けたつもりなのかもしれないが、どうせ義父をあてこする材料を見つけただけだろうと考える方が、シャスティエには受け入れやすかった。


 華やかな宴の間も、シャスティエの心が明るくなることはない。

 酒や料理の香りも味も、なぜか芳しく感じられないのは予想していた通り。人の熱気や騒めきに窒息させられるような思いがするのも。

 歌や音楽の出し物も、慰めにはならなかった。祖国とは違う趣を楽しもうと思っても、なぜか煩いとしか感じないのだ。

 五感が不快を訴えるのに、なぜか思考はぼんやりとして。早く横になりたいと切に思う。


 ――だからもっと締めてと言ったのに。


 侍女たちが着付けを緩くしたせいでしゃんとすることができないのだ、と。密かに恨みがましく思いながら俯いていると――


「何を(ほう)けている。臣下の前だ。笑っていろ」


 小声ではあるが王に叱責され、慌てて顔を上げる。同時に無理やりに唇に弧を描かせると、目前にいたのはカーロイ・バラージュだった。この宴の主役のひとり。――確かに、笑顔で迎えなければならない相手だった。父親との奇縁を忘れることなどできないから、心からの笑みを浮かべることはできなかったが。


「お見事な初陣だったとか。心からお祝いを申し上げます」

「イルレシュ伯の献策のお陰と存じます。あの方をイシュテンにもたらしてくださったクリャースタ・メーシェ様に御礼申し上げます」


 水路を使うという例の策は、表向きはグニェーフ伯のものということになっているのだ。けれどこの少年は事実を知らされていたはず。シャスティエを見る目にも、述べる言葉にも力がこもっているように感じられた。

 王に言い含められた筋書きを崩さないように、出過ぎることのないように。シャスティエは慎重に言葉を選ぶ。


()()()の勝利は私の喜びです。頼もしい臣下の方々がいらっしゃるのは心強いことと存じます」


 王を我が君と呼ぶ嫌悪感に一瞬間を置いてから、エシュテルの顔を思い出して付け加える。


「ご活躍はまことに嬉しく伺いました。侍女たちも戦勝の報に湧いておりました」

「ありがとうございます!」


 姉の耳にも届いている、とほのめかすと、青年は晴れやかに誇らしげに笑った。幾らか酒も入っているのか、若々しく張りのある頬が紅潮して初々しい。邪気のない明るい笑みを見れば、シャスティエの口元も綻びた。


「陛下と――クリャースタ様に勝利を捧げることができてまことに嬉しく存じます」

「小父様――イルレシュ伯も。この度は本当に、おめでとうございます」

「ミリアールトに忠誠を示す機会を与えてくださった陛下のご恩に、報いなければなりませんでしたからな」


 グニェーフ伯――今はイシュテンの爵位を授けられた老将の顔を見れば、更に声は弾む。何しろこの人はこの広間で唯一、シャスティエの絶対の味方なのだから。


 もっと間近で言葉を交わしたいと、席から腰を浮かせた時だった。急に立ち上がったことで血の巡りが変わり、シャスティエはふらついてしまう。


「どうした。立ちくらみか」


 気付けば、王の腕の中だった。


「……よろけただけです。大事ございません」


 王の熱と王の匂いが、近い。この数ヶ月で馴染んだものだが、親しむことは決してない。不安、恐れ、不快、嫌悪。気分の悪さを助長する感情が渦巻くので、早く離れようとシャスティエはそっと王の腕を押しやった。

 そこへ折り悪く吐き気がこみ上げる。こらえようと口に手を当てると、それも見咎められてしまった。


「気分が悪いならなぜ言わぬ」


 ――絶対に来いと言われたからよ!


 心中の雑言を口にすることはできず、その余裕もなく。ただじっとりと王を睨め上げていると、横からグニェーフ伯の慌てたような声が聞こえた。


「シャスティエ様! まさか――」

「大丈夫です。大したことではありませんから」


 口元から手を外し、半ば無理矢理に老臣の方へ微笑むとグニェーフ伯はひどく驚いた――いっそ恐怖とでも呼ぶべき――表情をしていた。あまりの表情に、それほど心配されているのかと申し訳なくなってしまう。


 ――元気な姿をお見せしないと……。


「本当に。何でもないのです」

「ですが……」


 幼い頃から親しんだ人だというのに、最近はこの老伯爵の慣れない姿ばかり見ている気がする。グニェーフ伯が王とシャスティエを交互に窺い言いよどむ様は、何かに怖気づいたかのようで――この人らしくなく、不審だった。


「……何でしょうか」


 王から離れることも忘れて(ただ)すと、グニェーフ伯は更に数秒迷った素振りを見せた末に首を振った。


「いえ。何も」


 そして続けられた言葉はとても低く、宴の喧騒にほとんど紛れていた。


「まだお気付きでないならその方が良い……」

「何ですって?」


 ――気付く? 何に?


 耳が拾った言葉も、祖国ミリアールトの言葉だったにも関わらず、意味が通らず訳が分からない。聞き返そうとしたシャスティエの声は、しかし、低く鋭い叫びによって遮られた。


「まさか貴様!」


 割り込んだ声の主はティゼンハロム侯。椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、シャスティエたちの席へ駆け寄ってくる。その剣幕に身じろぎすると、王の腕に庇うように抱き寄せられた。


「舅殿。王の妻に対して非礼ではないのか」

「臣めは王妃の父でございます! その私に隠しだてすることこそ礼を欠いておりましょう!」


 うんざりとした口調で叱責する王に、侯爵は頓着した様子がない。それどころか主君に対して唾を飛ばして喚き散らす。……今まで見た範囲では、形だけは王に従う姿勢を見せていた男だというのに。


「何の話だ……」


 不穏な気配に震えるシャスティエが見上げる先で、王も訝しげに眉を寄せた。シャスティエばかりでなく、この男も事態が掴めていないのだ。


「シャスティエ様は何事もないと仰った! そのお言葉で十分であろう。なぜ宴の場に水を差すことを為されるのか!?」


 ただひとり、グニェーフ伯だけはティゼンハロム侯の激昂の理由を知っているらしい。


 ――何なの……。


 シャスティエは胸の中で王と同じ言葉を呟いた。このやり取りの間に、広間の最奥、王の座での諍いに人目が集まりつつある。ティゼンハロム侯と、降ったばかりのグニェーフ伯と。新旧の臣下の口論というだけではことは済まない。実情はどうあれ、いずれも王の側につく者たちのはずなのに。このような場で対立をあからさまにするのは誰にとっても利はないのではないだろうか。


 ティゼンハロム侯も、普段ならその程度の計算はできる男のはずだった。けれど、今この時に限っては――


「隠し通す気か。ミーナの前でも同じことを言えるのか!?」

「ミーナ様……?」


 傍目も弁えずに、声高く責め立ててくる。

 悪意を剥き出しにした眼で睨まれて、慕う王妃の名を持ち出されて。その間にも気分の悪さは去ってくれなくて。シャスティエは弱々しく呟いた。


「ミーナ様に嘘なんて……」

「ならば儂の後ろには(ミーナ)がいると思って答えよ。――貴様、孕んでいるのか!?」


 静寂が、降りた。


 宴の最中のこと、広場を満たす人の口全てが閉ざされるなど本来はあり得ない。喋り声の他にも、食器が触れ合う音や歌や音楽も響いているはず。

 それらの一切が聞こえないのは、誰もが手と口を止めてこちらを注目しているからか。それとも、突きつけられた問いのあまりの鋭さに、耳が働いてくれないのか。


 とにかくティゼンハロム侯が言い出したことはシャスティエの想定の裡を超えていた。だから、すぐに答えることができなくて――その間が、余計に注目を集めてしまう。


「懐妊なんて……」


 広間の全ての人間の視線に串刺しにされる思いで、それでも否定しなければ、と思う。そのようなことは決してないのだから。彼女には何も後ろ暗いところなどないのだから。


 ――懐妊……?


 しかし、していない、と言い切ることはできなかった。


 そのひと言がここ最近の様々な違和感を説明するから。


 収まらない吐き気。やたらと世話を焼く侍女たち。酒を控えろと言われて着付けも緩く――腹や腰まわりを、締め付けることがないように。何より、最後に月のものが訪れたのはいつだったか。


「あ……」


 全てが繋がり、恐怖がシャスティエを貫いた。血が音を立てて頭から引くのが聞こえ、崩れるように王の腕に縋る。


「本当なのか?」

「やはりか!」


 王とティゼンハロム侯の声が、どこか遠くから聞こえる気がする。広間の客がどよめく声も。


 ――でも……今までもあることだったし……。


 祖国の滅亡。狩りで追われた際の怪我。毒を呑んで臥せった時。王に初めて侍った後。心身の負担は彼女の身体の暦を狂わせてきた。だから、よくあることになってしまっていたのだ。だが、身体の不調や侍女たちの態度と併せると、答えは自ずと知れる。


 視界も夢の中のことのように焦点が合わなかった。グニェーフ伯の痛ましげな顔も、成り行きを見守っていたカーロイが戸惑いから歓喜へと表情を変えるのも、全て。


「近づくな、ティゼンハロム侯。この女の腹には王子か王女が宿っている」

「王子など……っ!」


 王の腕に力が篭もり、守るように抱えられるのも気にならなかった。そのようなことはもはや瑣末事だった。

 頬を寄せさせられた王の胸が動き、大きく息を吸ったのを感じた次の瞬間、低く通る声が広間にもシャスティエにも響いた。


「聞いての通りだ! 戦勝に加えてイシュテンに慶事が訪れた。王の子のために杯を空けよ! 新しい王族の誕生を祈り、祝え!」


 杯を鳴らす音と歓声が王に応えた。一斉に酒が注がれたのだろう、酒気を鼻に感じてシャスティエはまた口元を抑える。


 王はまだ彼女を抱えたままだ。だから、高らかに告げた後の溜息も、苛立たしげな呟きもよく聞こえた。


「面倒なことをしてくれる……!」


 返す言葉もないので、シャスティエは無言で王にもたれた。憎い相手に支えを求める嫌悪感より、たった今悟った事実への恐怖が優った。彼女としてもこのような場でこのような形で知りたいことではなかったのに。けれどもう取り返すことはできないのだ。


 目を閉じて王の胸に顔を埋めてもはっきりと分かる。ティゼンハロム侯はシャスティエを睨み続けているに違いない。そしてそれだけでない。ハルミンツ侯も宴に出席していたのだ。懐妊の報は今夜のうちにも彼女の敵にくまなく伝えられるのだろう。その後に何が起きるのか。考えることさえ恐ろしい。


 ――嫌だわ……!


 心中の悲鳴は、もはやまとまりのある考えにはならない。


 ただ、早くこの場から逃げたかった。

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