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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
11. 波紋
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老臣の不安 アレクサンドル

 マズルーク軍は砦を築こうとしていた。仮に地面を掘っただけの堀は、後に水を(たた)えさせてイシュテンの騎馬を阻む防壁にしようとしていたのだろう。

 しかし、今堀を満たそうとしているのは、水ではなく赤黒い血――それも、砦の主となるべきマズルークの者たちが流した血だった。突如現れたイシュテン軍になすすべもなく踏みにじられた彼らは、異国にその屍を晒すことになったのだ。




「これほど呆気ないものとは思いもしませんでした。数ではあちらが勝っていたはずなのに」


 全身を血で染めたままの――彼はマズルークの指揮官を討った後も果敢に戦場を駆けていた――カーロイ・バラージュは、屈託なく笑ってアレクサンドルに話しかけてきた。凄惨な姿には似合わぬ、若者らしい溌剌とした微笑みだった。


「奇襲を受けた軍は脆いものだ」

「油断があったと見えます。戦いというよりは狩りのようだった」


 経験を積んだ武人を討ち取り、奇襲で浮き足立っているとはいえマズルークの兵を次々と屠った若者は、確かな腕前の持ち主ではあった。父親が厳しく仕込んだのが見て取れる。


 ――初陣の勝ち戦に水を差すのも悪いが……。


 とはいえ老人にとって若さゆえの高慢は目につくもの。それに、見込みのあるこの青年が、思い上がった末につまらない最期を迎えるのも惜しいと思えた。

 だからアレクサンドルは嫌な顔をされるのを覚悟で苦言を呈した。


「このように簡単な戦など滅多にない。普通は相応の抵抗があるし苦戦もする。真に強くあろうとするならば驕らぬことだ」

「無論、全て自分の手柄などとは思っておりません」


 しかし、老人の懸念に反してカーロイはまたにっこりと笑った。


「策を弄するよりも技を磨き兵を鍛えよ、と教えられています。劇的な勝利などとは滅多にない一方で、鍛錬は裏切らぬから、と」


 彼の師とは、聞くまでもなく汚名を負って死んだ父なのだろう。青年の表情はさすがに束の間曇り、アレクサンドルは王がバラージュという男を惜しんだ理由を知った。

 慰めるべきなのかどうか。空虚に聞こえないような言葉を探す間に、カーロイは軽く首を振り、再び誇らしげに弾んだ声を上げた。


「ただ、初陣でこれほどの戦果を上げることができた幸運を喜ぶのは許されるでしょう。……クリャースタ・メーシェ様のお陰ですね」

「そう、だな……」


 主君の名前は、たとえ復讐を意味する婚家名であっても彼の耳には特別な響きがあった。血塗られた戦場には相応しくなく、穏やかに幸せに過ごしていて欲しいと思わせる響き。愛すべき少女を思い出せば、殺し合いで沸いた血も冷める。

 夏の爽やかな風が吹き渡り、汗も血臭も怪我人の呻きも草原へ散らした。戦いの高揚が去った今、アレクサンドルの老体には疲れが重りのようにのしかかっていた。


 ――まだ鎧は脱げぬか……。


 死者の埋葬を指揮し、名のある者の首は交渉に使うべく保存する。捕虜の身元も明らかにして、武装を解かせて――それらの目処がつくまでは休息などできはしない。

 残る雑事へと自身を奮い立たせるため、彼は先に女王と会った時のことに思いを馳せた。




 最後にシャスティエに会ったのは、マズルークを討てとの命を受けた時のことだった。あの時、彼は彼女に拝謁することをも許されていた。王宮に出入りして良いとの許可はあったものの、長く体調が優れないと言われていたし、側妃になった以上男が頻繁に訪ねて良いはずもない。だから、久しぶりに女王の姿を見ることができたのは――認めるのは業腹だが――王の配慮と寛容のお陰だったのだろう。


 憎い男に侍る身の上になったのをずっと密かに案じていたのだが、女王には暴力を振るわれたような形跡はなく、加えて変わらぬ美貌を誇っていて、老臣を安心させてくれた。エシュテル――カーロイの姉も、側仕えとして馴染んでいるようだった。


 ただ、シャスティエの表情が硬いのが気に掛かった。アレクサンドルがマズルークと戦うことになったのを喜んでいないようなのも。恐らくミリアールトの者がイシュテンの争いに巻き込まれるのを厭っていたのだろう。ミリアールトの乱の鎮圧に際しての説得で、イシュテンに血を流させると宣言したのを反故にしてしまったとでも思っているのかもしれない。彼としては、とうに覚悟を決めていたことだったのだが。

 だから、案ずるには及ばないと伝えたくて彼は精一杯微笑んで見せた。幸いにというかその意図は十分に伝わったようで――女王は不安な表情を何かしらの決意で塗り替えて、口を開いたのだった。


『陛下、ご提案したいことがございます。聞いていただけますでしょうか?』


 だが、それは蛮勇とでも呼ぶべきことだった。イシュテンの男は女に意見されるのを好まない。まして王となれば。主君が叱責されると予想して、アレクサンドルは跪いた体勢から腰を浮かせた。


『兵を運ぶのに水路を使うということは可能でしょうか』

『水路だと?』

『王都を流れる河――キレンツ河と言いましたか、あれはミリアールトへ、北へと注ぐのでしょう。あれほどの大河ならば支流もあるでしょうし、マズルークの後背を突くこともできるのではないでしょうか』

『そうか……』


 予想とは裏腹に、王はシャスティエの提案を吟味する素振りを見せて彼を驚かせた。それほどに、彼女の進言が意外だったのかもしれない。確かにイシュテンは、戦馬の神を奉じる国柄もあって騎兵の速さ勇猛さは名高い。しかし一方で他の戦略戦術を軽んじているのはしばしば揶揄されている。


 虚をつかれたような王の表情は――短い付き合いながら――初めてのもの。とはいえさすがにというか理解の色が浮かぶのは早かった。


『水路か……地形を気にする必要が少ないのと、時間も短縮できるか……? しかし馬は船に怯えるのではないか?』

『家畜を船で運ぶこともあるかと存じます。できなくはないかと思いますが……』

『――家畜だと』


 イシュテンが誇る騎馬を家畜扱いされて、王が機嫌を損ねた気配がしたので、アレクサンドルは慌てて口を挟んだ。


『訓練された戦馬ならば水の上で動じることもありますまい。悪路で脚を痛めるということもないでしょうし、兵も疲れることなく戦いに臨めるかもしれませぬ。

 何より、イシュテンが水路を使うなどとはマズルークも予想しておりませんでしょう』

『ふん……』


 女王を庇おうとしたのは見えていたのだろう、王は横目で睨んできたが、言葉にして咎めることはしなかった。


『情報の吟味が必要だな』


 呟いた王の脳裏には、種々の情報や手配すべきこと、打診すべき臣下の顔がめまぐるしく渦巻いていたに違いなかった。


『マズルークの動向……陸路と水路、それぞれでの所要時間……水路はそもそも行き着けるのかどうか。そちらを採るならば船の用意が必要か。商人どもから徴用するなら金にものを言わせて……』


 シャスティエは実行する際の手順までは考えていなかったのだろう。王が目を伏せて次々と挙げることに目を丸くしていた。


『……間に合いますでしょうか。それほどのこととは……』


 思案を邪魔された王は軽く顔を顰めたが、丁寧にも口を開いて説明する労を執ってくれた。側妃への気遣いか、単に考えをまとめるためかは知れなかったが。


『幾らかはどのみちやらねばならぬことだからな。ついでに対案を練らせるのも悪くはあるまい』


 それはつまり、シャスティエの進言が認められたということだった。不安げに強ばっていた彼女の頬からは明らかに力が抜け、微笑みさえ浮かんだ。

 しかしその美しい笑みは王の目には入っていないようだった。


『イシュテンは確かに騎馬に捕らわれ過ぎているかもしれぬ。他国の者の知見を得るのは有用だな』


 誰にともなく呟かれた言葉は、王の紛れもない本心だっただろう。王は、イシュテンを更に強めるという考えに魅入られていたのだ。シャスティエの美貌さえ気にも留めないほどに。


 王の楽しげな、そして獰猛な表情を見て、イシュテンという猛獣に知恵を与えてしまったような気がしてならかった。だから、アレクサンドルとしては単純に女王の策が容れられたのを喜んで良いものかどうか答えを出すことができなかった。




「閣下のご勇名にも心服いたしました。獅子の紋章を掲げた瞬間に敵がどよめいていたではありませんか」


 カーロイは、年の割に落ち着いているようでいて、やはり初陣の興奮は大きかったらしい。浮かれた熱も冷めやらぬようで、しきりとアレクサンドルに話しかけてきている。


「我が家の紋章もかくありたいものです」


 異国の――辛うじて敵国、と考えることは自制した――若者に尊敬の目で見つめられることは、彼にはどうにも落ち着かなかった。マズルークの指揮官の叫びが今も耳に響いているのだ。祖国を裏切ったのか、と。これで彼の去就はミリアールト、イシュテンばかりかマズルークにまで知られることになるのだろうか。彼のこれまでの業績──と、言っても思い上がりにはなるまい──を知る者の中には、驚く者も多いだろう。


 ――我が女王のため、などと……弁明する機会はないだろうが。


 そもそも本来なら誰に言い訳する必要もないのだ。祖国の者たちも彼とシャスティエの選択を承知している。女王の――シャスティエの御子によってミリアールトの王家の血を繋ぐこと。(いたずら)に逆らって虐げられるよりは、寛容な統治をするであろうイシュテン王に与し、かの者が実権を握るのを助けること。

 なのに敵の言葉を非難だと捉えてしまうのは、彼自身にまだ迷いがあるからだろう。シャスティエを、美しく誇り高い女王を敵の王に差し出したのは正しかったのだろうか、と。


 内心の疑問を見せる訳にはいかないので、アレクサンドルはまた説教臭い老人を装った。


「それもまた運に過ぎなかった。私の名と紋章を知っている者がいるとは限らなかったのだから」


 そしてカーロイはあくまでも聞き分けの良い生徒だった。興奮に水を差されたのだろうに、神妙に頷いて見せたのだ。まったく、好感を持ってしまってやりづらい。


「今回のことは大変勉強になりました。勝敗は戦場でのみ決まるものではない――戦う前から勝利を引き寄せるべく策を巡らせなければならないのですね」

「……策に頼るのはイシュテンらしからぬことと思っていたが」

「確かに。けれど、いわば存分に戦うための舞台を整えるようなこと。決して軽んじて良いことではないと分かりました」


 青年の笑顔は、王のそれを思い出させた。まとう気配はこちらの方が爽やかで無邪気なものだったが。


 策を練ることを覚えたイシュテンの武人。彼は厄介な存在を生み出してしまったのか――あるいは、女王に敬意を向けてくれるなら得難い味方になるのだろうか。

 イシュテンがミリアールトの影響を受けて変わるならば、これもまたひとつの復讐になるだろうか。少しはまともな隣人――実際には主と言うべきか――になるのだろうか。


 女王と自身の選択がどのような結果に向かうのか、彼にはまだ何とも言えなかった。だから口に出したのはまたも全く別のことだ。


「帰路も船を使った方が良いだろう。戦果も、捕虜の詳細も、身代金の交渉も。王は早く知りたいだろうから」

「楽なのは良いですが馬を駆けさせることができないのはつまらないもの。ですが仕方ありませんね」


 帰路()

 つまり、彼らは往路も水路を使ったのだ。シャスティエの進言は、吟味されたばかりでなく実行に移されたのだ。


 王の命の下に、数々の情報が集められた。国境から届けられたマズルークの布陣。イシュテンからミリアールトへ、南北に流れる大河の支流の、詳細な地図。それらを検討した結果、マズルークが砦を築こうとしている丘の裏側へ、彼らの監視を逃れて至ることのできる流れが見つかったのだ。

 懸念であった船も、確保の目処が立ったということだった。というか王命によってそうさせられた。王都の物流は幾らか乱れたのかもしれないが、王は外敵を退けることを最優先としたらしかった。その決断に際しては、当然ティゼンハロム侯爵も反対したはずで――だからこそ、失敗は許されない作戦だったのだ。


 アレクサンドルとカーロイは、見事に王の期待に応えたことになる。快勝と言って良い勢いでマズルークを踏みにじり、指揮官を始めとした多くの首級を上げた。捕虜も、名のある者の首も。マズルークが取り戻そうと願うならば多額の金を積まなければならないだろう。そしてそれはそのままイシュテンの国庫を潤わせるのだ。


「陛下も――クリャースタ・メーシェ様もお喜びになるでしょう」

「うむ……」


 誇らしげなカーロイに向けて、頷く。武勲を上げることで父の汚名を雪ぐこと、そして王の信を得ることはこの若者の悲願でもあった。それを叶えるのにシャスティエの助言があったことで、彼の忠誠は彼女にも向けられることだろう。

 全て、喜ぶべきことのはずなのだが。


 ――シャスティエ様は、笑ってくださるだろうか……。


 彼の心を占めるのは、ただ一つの疑問。ミリアールトを離れて以来、決して忘れることのできない懸念。どのように振る舞い何をなせば、彼の女王の心を安らかにできるのか、という。


 手柄を立てるたびに、アレクサンドルはイシュテンに、あの狼のような王に取り込まれていく。側妃としての立場だけを考えるならば、それはシャスティエのためになるはずなのだが――しかし、ひとりの少女としてはどう思うのだろうか。幼い頃から見守ってきた彼は、王女や女王としてではない幸せも考えてしまうのだ。


 イシュテンの下で生き延びつつ、王家の血筋に食らいつく。祖国の安寧と不確かな復讐のために、仇と手を組むことを認めた時点で、彼に何を言うことも許されないのだろうが。

 ただ、早く女王の無事な姿を見たいとは思った。


 草原の風も彼の鉛の心までを吹き上げることはできなかった。

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