奇襲 マズルークの指揮官
マズルークとイシュテンの間に明確な国境線は存在しない。河や山脈でもあれば分かりやすいのだが、単に草原が広がっているだけだ。両国の国境を預かる領主も、自身の領地の境界を正確に認識している訳ではないだろう。
歴史上、両国の間では国境についてしばしば争われてきたが、要はその時の国王の力が及ぶ範囲を争うということ。侵攻させた軍を保てれば勝ち、退けられれば負けということでしかない。
一時の勝利に留まらず、将来に渡って領土を維持し続けるにはどうしたら良いか。
――イシュテンの騎馬にも脅かされぬ拠点を築いてしまえば良い。
「早く! ファルカスが動く前に堀を仕上げるのだ!」
兵たちの動きを監督しながら彼は声を嗄らした。口を動かすばかりでなく、時には馬を降りて土砂や木材を運び兵に混じって鼓舞をする。額を伝う汗は盛夏の暑さによるものだけではない。いつ耳に届くかもしれない蹄の轟き、イシュテンの騎馬の死の影に怯え焦る中での作業なのだ。
イシュテンが昨年ミリアールトを滅ぼして以来、マズルークはずっと機会を窺っていた。かの地を統治し、領土を広げようという構えは略奪を生業とするイシュテンには珍しいもの。ゆえに、どのような帰結を見せるか、慎重に見極めようとしていたのだ。
王と諸侯が主導権を巡って争う国柄なのは周知のことだから、王が力を誇示しようとしてのことだとは分かる。しかし、一つの国を完全に押さえつけ続けるのは非常に難しい。まして支配するのが戦うことしか知らないイシュテンの獣どもとなれば。
彼らがイシュテンを見る目は、単に警戒するだけに留まらず、熱い期待に満ちていた。
イシュテンによるミリアールトの支配はいずれ破綻すると考えられたからだ。ミリアールトを従えるためか完全に滅ぼすため、イシュテンは軍を動かす必要に駆られるだろう。その時こそ、マズルークに機が生まれるのだ。
そして予想通りにミリアールトでの反乱の報を聞いて――マズルーク王とその重臣たちは歓喜した。しかも、時期も理想的だった。真冬の戦ならばミリアールトは善戦するだろうと、イシュテンの勢力をかなり削ってくれるだろうと。
乱自体は思いのほか早期に終結したが、それもイシュテンの弱気を表すものと解釈された。ミリアールトを納得させるため、相当の譲歩を示したのだろう、と。例え兵の消耗は少なかったとしても、占領地の機嫌を窺わなくてはならないのではファルカスが採れる手も限られる。王の失態を見た諸侯の手綱を握るのも難事だろうし、マズルークの侵攻に合わせて、ミリアールトで再び反乱が起きることさえ考えられる。
状況を熟考した末――マズルーク王はこれを絶好の機会と捉えた。彼は王の命を得て一軍を与えられ、イシュテンに食い込む牙城を築く役目を任されたのだ。
北国ゆえに痩せた大地にしがみついて生きる彼らだから、まだしも温暖なイシュテンの平野は何より欲しい。ファルカスが若さゆえに失策を犯すというなら歓迎するところ。イシュテンが内憂と外患を同時に抱えるこの時に、領土を奪い取ってやろう。
それが、マズルークの王と貴族の総意だった。
「閣下、南の堀はほぼ掘り終えました。次は――」
「うむ……」
報告を吟味して、彼は思案した。
軍を与えられてイシュテンへ侵攻したものの、彼の主たる役目は戦うことというよりは砦を
築くこと、だ。国境を治める領主の兵はひとまず退けた。次はイシュテンの奥地へと踏み込むより先に、その拠点となる場所を作り上げなければならない。
馬の足を止める堀を作り、生じた土砂で土手を築き、砦の基礎とする。本格的な築城には年単位での工事が必要となるが、少なくともイシュテンの本格的な攻撃に耐えるだけの陣を一分一秒でも早く固めることこそ急務だった。
「追撃は」
「ございますが、数はまばらで――イシュテン王は未だ対応を取りかねている様子」
「国境の領主の手勢だけということか」
「そのようで」
「そうか……」
考える間の時間稼ぎに、彼は四方へ視線を巡らせた。
北は小高い丘を背に、イシュテン軍が来るであろう南に対しては、とりあえず堀で守った。次は東西へ――将来建設する砦を囲むように堀を巡らせるか、高台を築くのを優先するか。
仮のものとはいえ、堀を巡らせればとりあえずイシュテンの騎兵では攻めにくくなるが。しかも、周囲は遮るものもない平原だ。前方以外を警戒する理由は薄い。東西から攻めようとしても遥か彼方からでも騎影は明らかになってしまうだろう。
丘の後背から回り込む奇襲もありえないではないが――
――この地形では我らが気付かぬように回り込むのは時間が掛かりすぎる。まずは正面の守りを固めるべきか。
心を決めると、彼は命じた。
「まずは堀を完成させる。東西に掘り進めつつ、既に掘り上げた南側は底に杭を植えるのだ」
「はっ!」
命を伝えに走り出した部下の背を見送りながら、彼は青空の下に広がる草原を見渡した。草が揺れるのは風によってだけのこと、まだイシュテン王ファルカスが遣わす戦馬の群れは見えない。
――ファルカスはいつ動く……ティゼンハロム侯爵との折衝に、どれだけ時間を割いてくれる!?
この草原は、騎馬が縦横に駆け回ることのできる戦馬の神の庭だ。まともに戦って勝ち続けることなど望めない。イシュテンの王が侵入者を見逃すなどとも期待できない。
いまだ諸侯を把握しきれていないはずのファルカスが軍の編成に手間取ることを、守りを固めるのに十分な時間が得られることを。彼は願ってやまなかった。
いかに火急のこととはいえ、日没後は作業を中断せざるを得ない。火を囲み酒を口にしても疲れは癒えず、苛立ちと焦りを隠すことができない彼に、部下たちは口々に慰めの言葉をかける。
「とはいえミリアールトのこともあるのです。ファルカスも迂闊には動けないはず」
「拓けた草原では策を弄するにも限度がありましょう」
「堀の内側に篭って、じっくりと守れば良いのです」
部下たちの顔を、彼はひとつひとつ目を細めて眺める。酒杯を手にしていても酔っているということはなく、油断しきっているのでもないと、分かってはいる。指揮官たる彼の考えが凝り固まり過ぎることがないように、均衡を取ろうとしてくれているのだ。
それぞれ述べることも決して誤りではない。イシュテンの武器は騎馬の速さと突進の質量。仮とはいえ堀を設けた段階で、ある程度攻撃をしのげる準備はできているはずなのだ。
「だが油断は禁物だ。特に深夜から夜明けにかけては警戒を怠るな」
それでも彼は部下たちを戒めた。あらゆる可能性に備えるのが指揮官の役目であるがゆえに。夜の闇や明け方の気の緩みに紛れて陣地に忍び込もうとする策もないではない。
夜間の哨戒について細々と指示を下した後、彼へやっと溜息を吐いた。ふと脳裏をよぎるのは、戦場やその他の場所で幾度か顔を合わせたことのあるミリアールトの老将の顔。あのように経験豊かな将ならば是非とも亡命を受け入れたかったが、生憎そのようなことは起きなかった。あの男は祖国に殉じて最後まで戦ったのか、それともイシュテンに膝を屈して機を伺っているのだろうか。
――あのような男ならば、どのようにイシュテンと戦っただろうか……。
その答えを知ることがもうできないのが、残念だと――彼はふと思った。
翌朝も彼は朝早くに目覚めた。今日の工程を頭に蘇らせつつ、身支度を整える。夏の暑い最中ではあるが、重い鎧に身を包むのだ。
ファルカスはまだ動いてはいないのかもしれないが、国境を預かる領主は、少数でとはいえ度々彼らを襲撃して兵を悩ませている。王の手前、抵抗を諦めたと見られたくはないのだろう。そのような相手を退けるための小規模な戦闘は、もはや日常のことだった。
「今日も晴れているな……」
暑さと汗の不快さを思って顔を顰めた時だった。ふと、陽が陰った気がした。雲を動かす風もない日だというのに。いや、太陽を遮ったのは雲ではない。
――影……? しかし何の?
彼は不審に思って影の元へ顔を向け――そして、瞠目した。
「なぜだ……いつの間に!?」
陣地の北に小高い丘があるが、それが落とす影の長さはこの間にすでに慣れている。今、陽が陰ったと思えたその理由は――
「イシュテン軍……っ!?」
彼は誰かの悲鳴を呆然として聞いた。丘の稜線に並ぶのは、武装した騎馬の一団。朝日に輝くのは鞘から抜き放たれた白刃、あるいは鎧、槍の穂先。
どこからか忽然と――敵が出現していたのだ。
「見張りは何をしていた!? みすみす回り込まれたのか!?」
「昨晩は、何も――」
「夜目とはいえ軍の移動を見逃すとは……」
そう、彼らの周囲には見晴らしの良い草原が広がっている。防御の拠点として一辺を丘に委ねたものの、将来砦を築いた際には高所から周囲を見渡すことができるようにと考えたのだ。
見張りに気付かれることなく丘の上の高所に陣取るには、相当な迂回をしなければならないはずで――だからこそ、彼はその可能性を頭から排除していたのだ。
マズルークの者たちが呆けたように見つめる中、イシュテンの騎馬の列が動いた。
丘を駆け下りてこちらへ斬り込もうとしている。そうと悟った瞬間、彼はあらゆる疑問を振り切って、声の限りに命じた。
「何をしている! 迎え撃つのだ!」
「は、は……っ」
鎧や剣が立てる耳障りな音を聞きながら、彼は焦りに歯噛みする。
既に身支度を整えた者、明け方の哨戒の番にあってまだ武装を解いていない者ももちろん、いる。しかし、夜が明けたばかりのこの時間はもっとも人の心が緩む時間だ。寝ぼけている者も少なくない。
しかも、予期せぬ方向からの奇襲だ。高所から駆け下りてくる勢いを受け止める地勢の不利も相まって、こちらの分は限りなく悪い。
「何としても食い止めよ! 押し負けると堀に落とされるぞ!」
こうなると、堀は彼らを守るものではなく退路を阻むものになってしまった。慌ただしく陣内を駆ける人の足音、引き出される馬の不満げな嘶きは、浮き足立っていかにも頼りなく聞こえる。
自身も愛馬に騎乗しつつ、彼は声を張り上げた。工事の監督の時などとは比にならない気迫だった。指揮官の姿勢が軍の士気を左右するのだ。例え事態が掴めずとも、不利な立場に晒されようと、弱気を見せることはできなかった。
だが、彼は見てしまった。
丘を駆け下り始めたイシュテン軍の、先頭の部隊が掲げる旗を。疾駆する騎馬が起こす風にたなびくそれには、彼が知っている紋章が躍っていた。
咆哮する怒れる獅子。それは、憤怒の家が掲げる紋だ。つい昨晩、彼が思い浮かべた老将が纏うはずのもの。
――なぜだ!? なぜあの男がここにいる!
彼が知るあの男は、祖国と王に心から仕える忠臣だった。間違っても、侵略者に屈してその尖兵となるような男ではなかった。
――紋章を利用した? いや、イシュテンにそこまでの知恵があるものか!
驚きは彼に言葉を失わせ、兵を鼓舞する時間を与えなかった。斜面で勢いを増した騎馬の軍団は瞬く間に迫り、武装を整える暇のなかった者たちを踏みにじる。
彼の眼前にも槍を構えた一騎が立ちはだかった。心臓を狙った一撃を逸らすことができたのは、日頃の訓練の賜物だろうか。彼の槍に痺れを残して相手の馬はすれ違う。そして互いに馬を反転させ、二撃目に備えようとした時――彼は思わず叫んでいた。
「グニェーフ伯!」
「ほう、貴殿が指揮官か」
戦場の混乱の中では奇跡的とも言えることだったが、槍を合わせた相手は知己だったのだ。兜で頭部を覆ってはいても、体格や僅かに覗く髪の色、槍の構え方などで分かる。その程度には、彼らはお互いを知っていた。
「そなた、祖国を裏切ったのか!?」
マズルーク語での叫びを、異国の老将は正しく聞き取ったらしい。もともとミリアールトとは隣同士、言語も非常によく似ている。兜の奥で、冴えた薄青の瞳が苦笑するのが見て取れた。
「おかしなことを。まるで私がマズルークの人間のような物言いだ!」
「だが……っ!」
彼はそれ以上追求することを許されなかった。叫ぶと同時に、グニェーフ伯は再び槍を構えて突進してきたのだ。今回も躱すことができたが――本気でのやり合いの中、口を動かす暇も余裕も許されない。
――ミリアールトは、見せかけでなくイシュテンに従っているのか!? 王の予想が外れている……ならばここは生きて戻ってこの次第を報告せねば……!
奇襲を受けて敗走しながら生きて主君に見える。想像しただけで屈辱に脳が灼き切れそうだった。しかし王の叱責を受けることさえ今の彼には薄い望み。イシュテンの猛攻を掻い潜って、どうにか逃げ道を探さなければならないのだ。
退路を探して頭を巡らせた彼の視界に、こちらへ駆け寄る一騎が入る。非常に忌々しいことに、鎧の様式はイシュテンのもの。マズルーク軍は抵抗らしい抵抗もできないまま、指揮官の彼を助ける者も指示を仰ぎに来る者も――少なくとも彼に見える範囲には――いなかった。
割って入ったイシュテンの騎手は、明らかに若い――少年のような声で叫ぶ。
「指揮官殿とお見受けする! 是非ともお相手を仕りたい!」
「若造が……!」
グニェーフ伯との打ち合いを邪魔する無作法に、彼は唸った。功を急いで礼儀に構わない、いかにもイシュテン的な蛮行だと怒ったのだ。相手が誰でもイシュテン語を通すのも、無知無教養を晒してまったく見苦しい。
「この者は初陣なのだ。見せ場は若者に譲るとしよう!」
だが、意外にも老伯爵はあっさりと退いた。乱入した若者に対して励ますように頷きさえする。この男の一挙一動が、彼の動揺を誘うためとでもいうかのよう。
――この者を目をかけているというのか? イシュテンの餓鬼に、なぜ!?
乱れる彼の内心には無頓着に、イシュテンの若者は嬉々とした様子で前に進み出た。
「私には何としても手柄が必要なのだ。恨みはないが首をいただく」
「小僧めが。思い通りになると思うな!」
彼もマズルーク王に信頼され、王命を受けた武人だ。勇猛で名高いイシュテンとはいえ、そうそう若者に遅れを取るつもりはなかった。
――どのみちこの者を討たねば退路もままならぬ……!
イシュテン軍はどこから現れたのか。グニェーフ伯の真意は。全て、生き延びねば突き止めることはできない。彼は必ずこの若者に勝たなければならないのだ。
「来い!」
「参る!」
二つの絶叫が重なり、二騎の馬が疾駆した。彼の槍は真っ直ぐに構えられ、馬の疾さに乗って突き出される。若者の胴を狙い、馬から叩き落とすべく。
しかしそうはならなかった。
槍が空を突いたと思った瞬間に、彼は盾を持ち上げようとした。相手が彼の槍を躱し、攻撃しようとしていると、訓練と実践によって体に染み付いていたから。
「バカな……っ」
彼の喘ぎはほとんど言葉にならなかった。相手の槍の速さの前に、彼の盾も声も間に合わなかったのだ。
バカな、と言おうとした時には、既にイシュテンの若者の槍が彼の喉を貫いていた。
彼が言おうとした言葉は喉を逆流した血によって詰まり、口から噴出したそれが彼の視界を染めた。
朝の青空に、血の赤。それが、彼が最後に見た光景となった。