王と王妃と側妃 シャスティエ
その朝、目を覚まして身体を起こすと同時に、シャスティエはむかつきに襲われて顔を顰めた。
「クリャースタ様、ご気分が? 冷たい水をお持ちしますか?」
思わず口元を抑えてまた寝台に倒れ込む間に、盥を手にすかさず枕元に現れたのは、エシュテル――最近迎えた召使だった。盥は洗顔のために水を張ったものではなく、空のもの。吐くことを、心配されているのだ。
「大丈夫。でも食欲がないの。水出しのお茶にしてちょうだい」
「かしこまりました」
枕に縋るようにして、シャスティエは短く命じる。ここ数日、食欲がなくて大したものは食べていないから吐くほどのものは胃に残っていないと思う。恐らくは貧血気味にもなっているようで気分も優れず何をするにも億劫だった。夏の暑さに中ったのだろうとは思うけれど、不愉快極まりないことだ。
「去年はこんなことはなかったのに……」
花と香草を浸して香りを移した冷水で喉を潤すと、人心地ついて起き上がる余裕もできた。侍女たちに囲まれて身支度を整えながら、それ自体もよく冷やされたガラスの器を手の中で弄んで溜息を吐く。
「今年の方が幾らか暑さは厳しいかもしれませんわ」
「そうだったかしら」
慰めるように微笑んだのは、ツィーラだ。年老いたこの侍女の穏やかな表情を見ると、反論する気も起こらない。正直に言えば、暑さだけでなく側妃として王に侍っている心労が確実に影響していると思うのだが。まあ、侍女たちに言ったところで益もない。
「何も召し上がらないのでは心配です。せめて果物だけでもいかがでしょうか?」
「そうね、もらおうかしら……」
イリーナが差し出した蒲萄も、さほど食欲をそそるものではなかった。しかし、侍女の気遣いを無碍にするのは憚られたし、何も食べないままでは良くないのも承知している。だから、シャスティエは仕方なく房から蒲萄を数粒むしり取って口に入れた。赤く色づいた果実の甘味と酸味は舌に心地良く、吐き気を催すこともなく喉を通ってくれた。
「……何だか至れり尽くせりね。子供みたい」
果汁で汚れた指先も唇もすぐに白い布で拭われた。この間、シャスティエは椅子に掛けたままであらゆる世話をされている。身支度だけならばいつものことだが、頼めば食べ物を口まで運んでさえくれそうで、居心地が悪い。体調が優れないからといって、必要以上に大事にされているような気がする。
「陛下のお妃でいらっしゃるのですもの。これくらい当然ですわ」
「ええ。私どもにもっと何でも命じてくださって良いのです」
「……そう」
ツィーラとエシュテルはそれぞれ満面の笑みを浮かべていて、心の底から言っているのが明らかだった。心中のわだかまりをどう伝えるべきか悩むうちに、イリーナも口を挟んでくる。
「今日も、本当にいらっしゃるのですか? お顔の色が悪いのですもの、お断りしても――」
「そういう訳にはいかないわ。もう一度お断りしてしまったもの。何があっても必ず行くわ」
こちらには即答できるのではっきりと告げると、イリーナは若草色の目を悲しげに伏せた。
今日は王妃からの招待を受けている。以前欠席してしまった分の、埋め合わせだ。王も呼ばれているのだという。
ミーナに合わせる顔がないと、後ろめたいと思うのは変わっていないが、今度こそ当日に欠席することなどできない。
――ただでさえ仮病だと疑われていそうだもの……。
前回、王や王妃の前に出られる姿でなかったのは事実だけど、面と向かって問い質された訳ではないけれど、王はきっと疑っているはず。ミーナだって、きっと戸惑い悲しんだだろう。夫が側妃を持ったというだけでも心を痛めているだろうに、目障りなはずのシャスティエにこれまで通りに接しようとしてくれているのだ。どう振舞おうと以前のような和やかさはもう二度と戻らないだろうが――せめて、シャスティエも何事もないかのように振舞わなければならないと思う。
「……では着付けは緩めにしておきますから。ご気分が悪い時は、仰ってくださいね?」
「ええ。お願い」
多分言うことはないだろうと思いながら、シャスティエは表向き侍女たちに頷いて見せた。
身支度を終え、気分の悪さをごまかすために――髪型や着付けを崩さない程度に――椅子にもたれてぼんやりとしていると、約束の時間になった。
「お茶やお菓子にもお気を付けてくださいませ。できるだけ陛下や王女様の後に召し上がるように」
「そうね。分かっているわ」
ミーナのもとに連れて行くのはイリーナだけだ。心配げなツィーラの忠告を、シャスティエは嫌々ながら受け入れる。毒に気を付けろ、という意味だ。ミーナが彼女に何かするなどとは思っていないが、エルジェーベトは――というかティゼンハロム侯の意を受けているであろう者たちは、何をするか分からない。王妃と王女のために側妃を排しようとしてもおかしくなかった。
――その意味でも、気は進まないけれど……。
重い足を引きずって、ともすると襲ってくる吐き気と戦いながら。シャスティエは王妃たちが待つ庭へと向かった。
「シャスティエ様! やっとお会いできたわ!」
シャスティエを見るなり、ミーナは子供のように走り寄って手を握ってきた。既に到着していた王に挨拶する暇も許されないほどの勢いだ。
今日も青い空に日差しが輝く好天に恵まれた日だった。爽やかな空気を楽しもうというのか、席は屋外の木陰に設けられていた。暑気を払うそよ風が、王妃の背に流した豊かな黒髪を遊ばせ、美しいうねりを見せている。
「いらっしゃってくださって嬉しいわ。お身体は、もう大丈夫なの?」
「もったいないお言葉ですわ、王妃様。先日は大変な失礼をしてしまい、申し訳ございませんでした。でも、すっかり良くなりましたから」
朝までは気が進まなかったのが嘘のように、ミーナの笑顔はシャスティエの目には眩しいほどに美しく、心を晴れやかにしてくれた。厚めに施した化粧が顔色の悪さを隠してくれていることを祈りつつ、自然に微笑むことさえできるほど。
けれど、何が悪かったのかミーナの笑顔は一瞬で曇ってしまう。
「……もう名前では呼んでいただけないのかしら。寂しいわ……」
悲しげに眉を下げて呟いた頼りなげな姿を見て、シャスティエは内心大いに焦る。側妃になったからには王妃や王女に対して馴れ馴れしい態度など取れないと考えていた。だからこそ名前で呼びかけるなどできないと思ったのだが――ミーナは本当に、これまで通りの関係を望んでいるのだろうか。夫を奪った存在である、シャスティエと。
――図々しいと思うけど……ミーナ様がそう望まれるなら……。
「……とてもお久しぶりですから、言葉遣いも堅苦しくなってしまったようです。お名前でお呼びすることを許していただけるなら、とても嬉しいことですわ、ミーナ様」
「許すだなんて……私からお願いしたいくらいなのに。あの……何も気になんてなさらないで、ずっと仲良くしていだたきたいの、シャスティエ様」
「ありがとうございます、ミーナ様」
――ミーナ様は私を婚家名ではお呼びにならないのね……。
「陛下。私などをこの場にお許しいただき、光栄に存じておりますわ」
軽く膝を折って王に敬意を払いながら、そのことがシャスティエの心にほんの少し引っかかった。イシュテンでは、既婚の女性に対して婚家名で呼ばないのは、その結婚を認めていないという意思表明になると聞いている。やはり内心では憤りがあるということなのだろうか。
「マリカ様ともお会いできて嬉しゅうございます。少し、大きくなられましたね?」
「うん! お服も沢山作ってもらったの!」
「今お召しになっているのも新しいものですね。とてもお似合いですわ」
しかしシャスティエは深く考えないことにした。ミーナの真意がどうあれ、所詮彼女にできることはない。それに、意味は知らずともこの方に復讐を意味する名を呼ばせることがないのは良いことと考えるべきだ。
シャスティエにできるのは、この場を朗らかに楽しんでいると装うことだけ。まだ幼いマリカのためにも、大人たちの諍いなど悟らせるようなことがあってはならない。
幸いにというか、マリカの明るさと無邪気さは演技の必要もなくシャスティエを笑顔にしてくれた。王も娘の前では表情が柔らかく、皮肉げなことを口にすることもない。側妃という立場を別にすれば、麗しい夏の日のひと時だった。
マリカは特に、犬舎から強請り取ったという犬がいかに賢く可愛らしいのかを熱弁して大人たちを微笑ませた。
「子犬の頃にご一緒に見に行ったかと思いますが……とても大きくなったのですね」
「『伏せ』も『待て』もできるの。何でも言うことを聞くのよ」
「シャスティエ様に自慢したくてずっと待っていたのよ。ねえ?」
「実は、犬は恐ろしいものではないかと心配でしたの。でも、これなら安心ですわね」
例の狩りで犬に追い回された記憶があるシャスティエにとって、躾の行き届いた猟犬は安全だと言われても信用できるものではなかった。しかしマリカの足元にまとわりついて尻尾を振る獣は、確かに幼い主人の命令を聞き分けていると見て取れた。あの時シャスティエを襲おうとした若者たちよりよほど、知性があるとさえ見える。
「『取ってこい』を見せてあげる。お父様、投げて! 遠くに!」
「仕方ないな……」
王女は牛の革でできた鞠を父に渡し、王も苦笑して娘の命令を叶えた。犬は黒い矢のように地を駆け、鞠を咥えて戻ってくる。マリカがはしゃいで強請るままに、何度も何度も。
「本当に賢いのですね」
目を細めて子供と犬を眺めるシャスティエに、また鞠を投げた王がふと話し掛ける。
「お前は犬というより猫だな」
「は……?」
意図が掴めず眉を寄せると、相手も言葉が足りないと思ったのか説明が加えられる。
「ミーナやマリカは犬だ。あからさまにはしゃいで甘えてくる」
「…………」
「対してお前は猫のような女だろう。中々馴れず気位が高い。それでいて撫でてやると、嫌な顔をしながらも喉を鳴らすのだ」
「なっ……!」
王が楽しげに語る一方、シャスティエの頬は紅潮した。喉を鳴らす、とは一体どういう意味だ。以前よりは愛想が良くなったという程度のことなら良いが――
――ミーナ様とマリカ様の前で、何ということを!
閨でのことを連想してしまうのは、気の回しすぎだろうか。王妃と王女を犬に例えるだけでも許しがたいのに、昼日中から何ということを言い出すのか。
だが、咎めようと口を開こうとした時――
「まあ、可愛らしい」
ミーナがくすくすと笑ったのでシャスティエは言葉を呑み込むしかなかった。無邪気なこの女性が、本物の猫のことだと思ったならその方が良い。
だから、言われたことの中身には触れず、あくまでも猫の話として続ける。
「……陛下が猫もお好きとは存じませんでした」
あながち場を繋ぐためだけということもない。馬はもちろん、犬も狩りに使うから分かる。けれど王が猫に構う姿は、思い浮かべようとしてもどうにも違和感があったのだ。
「厩舎の鼠避けによく飼っているからな。……お前も飼うなら猫の方だろうな。犬を遊ばせているところは想像できない」
似合わない、と暗に言ったのはさらりと流され、逆にシャスティエの方が憮然とさせられることになる。
――馬術の下手さを言われているのかしら……。
猟犬を従えて狩りに同行することはできないだろう、と。愚弄された気がして決して面白くはないけれど、とはいえ外での遊びを好まないのは事実なので、取り敢えず大人しく頷いておく。
「そうかもしれません」
「子猫を探してやろうか? 雪のような白い猫が似合いそうだ。大して世話がいる訳でもなし、気を紛らわせるのに良いのではないか」
「はあ」
シャスティエは困惑してミーナの顔色を窺った。子猫と聞いて目を輝かせて頬を染めていてとても可愛らしい……のは置いておいて、王妃の前で王から何かしら賜る話というのは良くないのではないだろうか。
ただ、一方で宝石などではなくて子猫くらいなら、とも思う。マリカの犬を見たからか、小さな動物を愛でる日々は確かに慰められるだろうと心が揺れる。
柔らかい毛並みを撫でるのを想像して口元を緩め――それでも、シャスティエは首を振った。
「お気遣いはもったいなく存じますが。生き物の世話は苦手なのです。たまに可愛がるくらいが良いですわ」
いかにも取ってつけたような理由だが、王からの贈り物が嫌だなどとは言えなかった。まして、本当の理由はミーナの前では口にできない。
――私の猫だなんて知れたら何をされるか分からないもの。
それぞれに利害や目的のある人間ならば何をしてもされても仕方ない。けれど罪のない獣を巻き込むのはあまりにも勝手だろう。
「……そうか」
王はつまらなそうに呟くと、犬の期待に満ちた視線に応えてまた鞠を投げた。その間にシャスティエは口元を手で覆って溜息を隠す。会話がひと段落ついたことで、また気分の悪さを感じてしまったのだ。
と、王がそれを見咎める。
「イルレシュ伯を案じているのか?」
「いえ……はい」
横に振りかけた首を、シャスティエは慌てて頷かせた。体調が悪いなどと言い出したらまた仮病かと疑われる。早々に退出するための口実とでも思われかねない。ミリアールトの臣下を想って憂い顔なのだと思われた方が面倒がないだろう。
「今頃はどちらにいらっしゃるでしょうか。もう戦いは始まったでしょうか」
「そうだな……あの者もバラージュも、だいぶやる気ではあったようだが」
鞠を咥えて戻ってきた犬の毛並みを、王は褒めるように掻き回した。次いで本来の主であるマリカが用意していた干し肉を与える。その微笑ましい様から目を離して、王はシャスティエに向かって笑って見せた。
「お前の進言は有用だった。こちらの有利に働くだろうから安心していれば良い」
――私を心配しているというのかしら。
猫のことを言い出したのもその一環なのだろうか、と訝しみながらシャスティエは居心地悪く身動ぎした。
王に案じられているなど質の悪い冗談だ。シャスティエとの関係は、単なる取引に過ぎないのだから。彼女はこの男を憎んで復讐しようというのだから。
ミーナのいる前で血腥い戦いのはなしをするのも、出過ぎた真似をしたと知らせるのも、絶対に必要のないことだ。
王の気遣いなど、彼女を困惑させいたたまれなくさせ、胸に澱む吐き気を一際思い出させるだけ。――つまりは一種の嫌がらせということになるのだろうか。
唇を噛んで俯いたところへ、ふわりと優しい声が落ちる。
「シャスティエ様が? どのようなことを仰ったのですか?」
「大したことではございません! 女の浅知恵でございます!」
――ああもう、ミーナ様が聞き咎められてしまった!
首を傾げて夫と彼女とを見比べるミーナに、シャスティエは声高く叫んでしまった。
そもそも彼女は政には口出ししない、と王に言っていたのだった。しかし先日グニェーフ伯の覚悟を見せられて、自身の立場を思い知らされた。戦いからは逃れられないと。イシュテンの中でさえ、地位と力を求め続けなければならないと。
そのために剣を振るってくれる忠臣に加勢するべく、シャスティエも知恵を絞ることにしたのだ。自ら道を選んだからには、何もしないで綺麗事を言うばかりではいられない。
といっても大したことではないのは本当だ。もしかしたら役に立つかもしれない、という程度のこと。功というなら実際の手配をした者たちにあるだろう。
「浅知恵ということはないだろう。兵を――」
「あの! 戦いのことなど今は不要かと存じます。それよりはもっと――楽しいことを……」
王がミーナに説明しようとするのを、シャスティエは慌てて遮った。知識をひけらかしているように思われたら耐えられない。側妃の分際で、王妃を差し置いて、王に取り入ろうとするなど浅ましい。
「マリカ様もお外で遊びたいでしょう? 折角良いお天気なのですもの、庭園を案内していただきたいですわ」
怪訝そうな王と、困った表情のミーナと。ひび割れてしまった和やかな空気を取り繕うべく、必死に微笑みを浮かべる。その間にも気持ちの悪さと戦わなければならなかったが。
「――うん! 来て、お花が綺麗なところがあるの」
助けてくれたのは、マリカだった。シャスティエの手を引いて、庭の方へと導いてくれる。
「ありがとうございます、マリカ様」
子供につられるかのように、王もミーナも席を立ち――側妃の進言云々の話は無事に流れたようだった。
木々の間を渡る風は香り良く、座っているよりも気分は幾らか良いようだった。ただ、シャスティエの心は依然として爽やかさとはほど遠い。
ミーナの笑顔が、どこか曇っているような気がしてならなかったから。