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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
10. 側妃について
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娘のために アンネミーケ

 かつては夫君のものであった執務室にて、アンネミーケは思案に耽っていた。

 夫君はこの部屋に寵姫たちを入れることもあった。美しい女に囲まれていた方が仕事が捗ると主張して。女たちの方でも茶を淹れたり菓子を王の口に運んだりなど他愛のない()()()を楽しんでいたようだった。その間、彼女はひとり別室で、官吏や廷臣の陳情に耳を傾けていたものだ。


 今、アンネミーケの目の前には氷の彫刻を思わせるような美しい顔立ちの青年がいる。しかしこれは彼女が夫君に倣って執務中に目を楽しませようということでは決してない。

 彼女の眼前にいるのは、北国ミリアールトから迎えた亡命者――そしてかの国の王位継承権を持つ公子でもある、レフという青年だった。


「陛下。いつまでミリアールトを捨て置かれるのですか」

「うむ……」

「女王は捕らわれ、諸侯は逆臣に牛耳られイシュテンに取り込まれている。ブレンクラーレにとっても見過ごせない事態ではないのですか」

「そうだな」


 最近割とまともなことを言い始めた公子をおざなりな相槌で流しつつ、アンネミーケの思いは遥かイシュテンに馳せられている。

 公子の主張は――いかにもっともらしくはあっても――ミリアールトの元王女であり今は女王となるべき姫を救出して欲しい、という一点に集約される。愛する姫を案じるゆえの甘ったるい考えだ。ミリアールトの者の観点として全く参考にならないということはないが、判断を左右させるほどの価値はない。


「女王さえ奪還できればグニェーフ伯に従う者も離れるはず。あの者がイシュテンに取り入ろうとしても叶わなくなる……!」

「で、あれば良いの」


 必死に訴える公子に気のない返事を返すと、相手はあからさまに頬に朱を上らせた。感情を表に出しやすく激しやすい性格は、微笑ましいほどに全く変わっていないようだ。

 公子が女王の重要性を強調するのは、囚われの姫君の価値を認めさせようとしている魂胆が底にあるのだろう。だが、この若者は姫への思慕ゆえに現実が見えていない。


 王は確かに国で唯一無二の存在ではある。とはいえそれは替えがきかないということと同義ではない。仮に王家の直系の血筋が絶えたとしても、系図を辿ってひと雫なりともその血を引く者を迎えるものだ。そうして無位だった者が玉座を得、無名だった家が新たに王家になることも歴史の上では珍しくない。もちろん、争いの果てに力づくでその結果をたぐり寄せることも。

 だから、姫君を救わなければ必ずミリアールトが滅ぶなどということはあり得ない。もちろん雪の女王の化身と名高い姫は民にも諸侯にも人気なのだろうが、死者に殉じて新王を拒むほどの愚者はそうはいないだろう。


 怒りを露にしていてなお、苛立たしいほどの美しさを誇る公子を横目で睨んで、アンネミーケは溜息を呑み込んだ。例によって、頭を冴えさせるために苦く濃く淹れさせた茶によって。


 ――ティグリス王子の乱に紛れて姫君が亡き者になれば話は楽だと言うに……。


 先にミリアールトで乱が起きた際は実際にそれを期待していたが、あの時とは既に事情が異なっている。姫君の居場所を伏せていたことを知った今、レフという公子はアンネミーケとブレンクラーレに疑念と――多少の――敵意を抱いている。

 シャスティエ姫やグニェーフ伯らの為人(ひととなり)を知るために、公子に情報を明かすことは()むを得なかったこととは思っているが、彼をミリアールト王に擁立してイシュテンを囲む戦略は、宛にしづらくなってしまった。


「陛下! 今日こそ明確なご回答をいただきたく――」

(わたし)とて手をこまねいている訳ではない。既にイシュテンのティグリス王子――現王の異母弟と結んで王を追い落とす算段をしておる」


 しかし公子からの悪意さえもアンネミーケを躊躇わせる決め手ではない。死人を取り戻すことができないのは誰しも同じ。治めるべき国と民があることに気づけば、この若者も為すべきことを為すだろう。何なら言いくるめることも十分可能だと思っている。政治の場に、個人に対する好悪の情が絡むことはあり得ないのだ。


「ならば、なぜすぐに動かれないのです!? こうしている間にもシャスティエは……苦しんでいるのに……!」

「そう。この間に懐妊などされては大事。世継ぎの不在こそイシュテン王の弱点だというのに、ティグリス王子の勝つ目がなくなってしまう」

「懐妊……そんな……」


 想像したのは姫君の涙か、あるいは懐妊の前提となる閨での姿だろうか。公子は耳まで赤くして絶句した。まことに初々しいことだと思う。


 公子に急かされるまでもなく、ティグリス王子も彼を擁するハルミンツ侯爵も、一刻も早く蜂起への援軍を差し向けるように催促してきている。今や側妃となったシャスティエ姫が懐妊する前に、という訳だ。


「憎い男の子を孕むなど痛ましいこと」


 口ではそう言いつつも、顔も知らない姫君に本気で同情しているということはない。アンネミーケだとてイシュテン王に世継ぎが生まれることの意味はよく承知している。最善手を採るならば、姫君の生死は無視してティグリス王子の乱を支援すべきだ。ミリアールトが真冬に挙兵したのは異例のこと、シャスティエ姫が懐妊する前に、ということならこの夏のうちにも事態を動かさなければならない。


 悔しげに唇を結んで俯いた公子に、アンネミーケは親身な――優しいほどの声を掛けた。


 「安心なさるが良い。間もなくティグリス王子はブレンクラーレと共に兄王に挑まれる」


 ティグリス王子を待たせるのもそろそろ限界だろう。アンネミーケも気安めで迂闊なことを口にするつもりはない。

 だが、一方で彼女の内心で好機を逃すな、と囁く声があるのだ。


 ――側妃とはいえイシュテン王の正式な妃……しかもその子はミリアールトの王家の血まで引いている……。


 駒としては非常に有用だ。ティグリス王子に貸しを作ったところで彼が死ねばそれまでになる。だが、イシュテンとミリアールト、ふたつの国の王位継承権を持った子を保護できれば。いや、子供までとは言うまい、イシュテン王の妻であるミリアールトの女王を手中にすることができれば。


 ――ブレンクラーレはその二国に介入する口実を得る!


 大層虫の良い計算であるという自覚はある。イシュテンの王宮の深くに守られているであろうシャスティエ姫を(さら)うなど、簡単なことではない。ティグリス王子も、兄の子を孕んでいるかもしれない女など始末しておきたいに違いない。


 策というよりは賭けと呼ぶべき成算の見込みの低い案だ。

 

 ――それでも、やらねば決して成せぬなら。やった方がマシ、か。


 長い長い思案と躊躇の果てに、摂政陛下アンネミーケは決意した。手をこまねいて好機を見送るよりは、無謀と分かっていても何かしら仕掛けを施しておいた方が良い。


 まだ顔を赤く染めながら彼女を睨んでいた公子に微笑みかけると、彼は露骨に警戒の色を見せた。無論アンネミーケが気にすることはなかったが。


「だが、公子はもちろん姫君の御身を第一に思われているのだろう」

「当然。彼女こそミリアールトの女王なのだから」


 ――女王? そなたが愛しているから、というだけだろう。


 アンネミーケは心中の嘲りを表情に出すことはしない。例え疑わしいと思われようと、シャスティエ姫のためだという体を取らなければならなかった。


「とはいえ姫君の立場は危ういものだ。ティグリス王子には保護を求めてはいるが、現王の子を懐妊している恐れがある以上、受け入れられるとは考えづらい。夫君と同じ運命を辿らせようとするだろう」

「そんなことは――」


 させない、と。アンネミーケは美貌の青年に言い切らせることはさせなかった。代わりに機先を制して告げる。


「だから、姫君を救う役目を公子に頼みたいのだが」

「――僕に……!?」


 あまりにも都合のよい提案に驚いたのだろうか。公子は宝石のような碧い目を大きく瞠った。


「そう。我らが必ず、などと言ったところで信じてはくれぬだろうからな。それならばご自身で行くのが最善だろう」

「行く……イシュテンへ?」

「そう」


 二度、アンネミーケは若者へ向けて頷いた。突飛なことを突然言われて飲み込めないのも無理はない。混乱しているうちに、納得させなければならないだろう。


「イシュテン王が弟と争う間に王宮に忍び入り――姫君を助けて差し上げれば良い。公子ならば姫君も信じてくれるだろう」

「でも、僕はイシュテンでは目立ちすぎる!」

「マクシミリアンは一度公子をイシュテンから無事に連れ帰ったであろう。ひとりでとは言わぬ、ブレンクラーレの者もつけよう」


 月の光を思わせる細い金の髪を示した公子の懸念を、アンネミーケはあっさりと退けた。他国の王宮から妃を拐うのだ。せめて形式だけでも親しい従弟が救出するという形をとりたかった。姫君としてもブレンクラーレの助けの手など簡単に信じることなどできないだろう。


「……イシュテンで、何をしろと? 摂政陛下ともあろうお方が闇雲に潜入を試みるはずがない」


 決意を固めたのだろう、公子の碧い目が冴えたように色を変えた気がした。それを確かめてアンネミーケは内心で笑う。ただし、表向きはあくまでも真摯に、心から姫君のことを思っているかのように。


「王宮に忍び込む手はずを整えられる者、となると確かに限られるな」

「心当たりが?」

「それは追々に。マクシミリアンはかの国で醜態を見せたようだが――」


 息子が犯した数々の失言を思い出して、アンネミーケはまた苦い茶を口に運んで心を落ち着けた。


「伴の者たちも遊んでいた訳ではない。イシュテンの有力者と顔を繋いでくれていた。言ってはなんだが姫君を邪魔に思うものはかの国には多いのだ」

「シャスティエ……!」

「ミリアールトだけではない、姫君のためにも。受けてくださるか?」


 公子は喘ぐように女王の名を呼んだ。その宝石のような瞳には、変わらずアンネミーケへの不審が見える。しかし、それ以上に強いのはこよなく愛しているらしい従姉の姫君を案じ焦る思いだった。


「――当然だ。彼女のためならばどこへでも行く」

「心から感謝申し上げる。こちらでも必要な準備は整えよう」


 公子がはっきりと頷いたのを見届けて、アンネミーケも初めて満足して微笑んだ。




 レフという公子を下がらせた後、アンネミーケは王太子妃ギーゼラを訪ねた。ここのところ体調が優れないというので公務を離れさせていたから、その見舞いだ。


「お義母様……!」

「ああ、気を遣わなくて良い。そのままにしなさい」

「お見苦しいところをお見せします……」


 寝台から起き上がろうとしたのを止めると、義理の娘は気恥かしそうに頬を赤らめた。公子や、彼によく似ているというミリアールトの姫のように冴々とした美貌ではなくても、若く健やかなこの娘は十分に愛らしく好ましい。だからアンネミーケは作った表情でなく、厳しいと評判の面に精一杯優しそうな笑みを浮かべた。


「見舞いの品は別室に置いてある。花も菓子も、好みが変わる頃だろうから」

「ありがとうございます」

「くれぐれも無理はなさらないように。何かあれば、執務中でも構わぬ、妾でもマクシミリアンでも呼びつけるが良い」

「そんな、とんでもないことですわ……」


 控えめに微笑んだギーゼラのふっくらとした手を、アンネミーケはそっと握った。何かと自身を卑下しがちなこの娘が、心おきなく夫や義母を頼ってくれるように。


「大事な身体なのだから当然のことだ。むしろ遠慮なさる方が良くない」

「お義母様……!」


 頬を染めたまま、それでも嬉しそうに王太子妃は呟いた。


 アンネミーケの息子、ブレンクラーレの王太子マクシミリアンの妻――ギーゼラは、この度めでたく懐妊したのだ。つい先日明らかになったことで、初孫への期待にさすがにアンネミーケも浮かれる自身を抑えられない。


「殿下も、とても労わってくださるのです。私は幸せな妻ですわ……」


 そして、マクシミリアンでさえも初めての我が子の誕生には常の調子を保つことができないらしい。他の女との間に私生児をもうけることがないように、厳しく監視していた甲斐があったと言えるだろうか。何にせよ、息子夫婦が仲睦まじいのは母にとっても喜ばしいことだった。

 ギーゼラの笑顔を見ながら、思う。


 ――このままミリアールトの公子のことなど忘れてくれれば良い……。


 たまたま何度か優しくされたことで、ギーゼラはあの貴公子に心を寄せているようだった。ミリアールトの元王女がイシュテン王の側妃になったと知ってからは、公子は一転して王太子妃に冷たくあたっていて――その身勝手さに、彼女は少なからず憤っていたのだ。だからといって人妻であるギーゼラに馴れ馴れしくしろ、などとも言えないのが辛いところだったが。


「常とは違う身体なのだから、何よりも安らかに過ごすようになさい。何も、心配することなどないように」

「はい、お義母様」


 レフという公子がイシュテンに向かうことを告げるのは後で良い。少なくとも、彼が出発してからだ。いかな美貌も、直接会うことがなければ次第にギーゼラの記憶から消えるだろう。この娘は夫と生まれる子のことだけを考えていれば良い。


 結局のところ、彼女が最も愛しく思うのは息子とその家族なのだ。


 シャスティエ姫の救出を公子に命じる決意をしたのは、彼らの幸せを保つためと言っても過言ではないかもしれない。

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