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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
10. 側妃について
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二人目の妃 ファルカス

 ファルカスは幾人かの側近たちと共に酒杯を傾けていた。王都のとある娼館でのこと、名も身分も伏せたお忍びである。

 とはいえ、あえて口には出さないものの、女たちは彼の立場を知っている。陛下、などと口に出さないのは、彼の興を削がないために、というだけ。堅苦しい儀礼を逃れて羽根を伸ばす機会であると、承知しているのだろう。


「しばらくお出でいただけないものと思っておりましたわ。新しい方を囲われたと伺いましたから」


 だからこんなことを囁いてくる女もいる。側妃の存在を教えたのは、側近たちのいずれかか、あるいはその他の貴族の間でも噂になってはいるのだろうが。


「新しいのにはしばらく会っていないな。体調が優れないとか」

「無理なことをなさったのでしょう。本物の深窓の姫君ということではありませんか」

「嫌われているのだ」


 二人目に迎えた妻はしばらく伏せっているらしい。見舞いも断られたのは、それほど具合が悪いというより会いたくないということだろうと彼は解釈していたが。

 ずっと立て籠るようなら無理にでも話をしなければならないが、多少拗ねるくらいならささやかな反抗、ちょっとした我が儘でしかない。しばらく放っておけば良いだろう。……小賢しく口やかましく気に障るだけの娘だと思っていたのに大分印象が変わったのは、彼としても意外ではあった。閨で見せる表情が、思いのほかに愛らしいからだろうか。眉を顰めても口答えしても、前ほど腹立たしいとは思わなくなっていた。


「まさか」


 下手な冗談とでも取ったのか、娼婦は口元に手をあてて笑った。


「……でも、もう一人の方のご機嫌をとらなくてはならないのでは? きっと焼き餅を焼いていらっしゃいますわよ」

「あの女が嫉妬などするものか」


 彼の最初の妻――王妃であるミーナは、今夜は父親のティゼンハロム侯爵邸を訪ねている。側妃の存在に苛立つリカードによるあてつけだろうが、妻子は祖父に会えると楽しみにしていた。だからこちらもファルカスは気にしないことにしている。

 あのリカードも、娘や孫にはひたすら甘いのだ。心配する必要など何もない。


「素晴らしい奥方様ですわね。こんなに素敵な旦那様を独占しないでくださるなんて。お蔭で私共も美しい夜が過ごせます」

「確かに上客ではあるのだろうな」

「あん、そうではなくて……」


 娼婦は甘い声を上げると彼にしなだれかかってきた。胸元を大きく広げた衣装をまとい、濃い化粧を施した女は、美しさでは彼の妻のいずれにも遠く及ばない。しかし、その物怖じしない明るさと図々しさは、一人目の妻の無邪気さとも二人目の妻の矜持高さとも違って新鮮だった。特に二人目の方はこのような甘え方をするなど考えられない。


「奥様方はどちらがよりお美しいのですか? そうお口にすることなどできませんでしょう? こっそりと教えてくださいませ」


 女は程よい媚び方をよく心得ていた。下世話な好奇心も露なこのような問い掛けに、答えてやろうという気にさせるのも大したものだ。

 とはいえ期待通りのことを聞かせるつもりは彼にはなかった。


「一人目は可愛らしく二人目は美しい。種類の違う女なのだからどちらが良い悪いというものではない」

「まあ、そうですの……」


 女が拍子抜けしたように瞬いたのでファルカスは嗤った。どうせミーナの悪口を言いたがるものだと思っていたのだろう。だが、父親のリカードとの確執とは全く関係なく、彼は王妃のことを大事に考えている。新しい側妃と違って無知で無邪気だからこそ、純粋に彼を慕うのがいじらしいと思えるのだ。

 妃たちへの評に耳を傾けていたのは側近たちも同じだったらしい。方々から揶揄かいとも追従ともつかない声が上がった。


「さすが、器の大きいことでいらっしゃる」

「まことに。俺などは妻一人で手一杯ですが」

「あの姫君……口の聞き方を覚えるまでは会わぬとの仰せだったではありませぬか」

「あの御方も多少は淑やかになられましたか?」


 側妃の方への言及が多いのは、単に新参だからか王妃を快く思わない者ばかりだからか。いずれにしてもファルカスは今機嫌が良かったので、特に咎めることはしないで娼婦の腰を抱き寄せた。女の肌の熱さを楽しみ、笑いながら、答える。


「さして変わってはいない。だが前ほど気に障ることはなくなった。抱いてしまえば可愛いものだ」


 側妃となったミリアールトの元王女のことを、彼はずっと生意気で可愛げがない女だと思っていた。氷のように冷たく取り澄まして、閨を共にするとしても悦びのためにはならないだろうと。

 だが、蓋を開けてみればあの女は意外なほどにただの女だった。いや、非常に美しいからにはただの、などとは言えないか。

 とにかく。恥じらう姿も、戸惑いながら乱れる姿も声も、常のそれとはかけ離れていて新鮮だった。彼の下で――時には上で――甘い声を上げて蕩けた顔を見せるあの女には、日頃の強情さ高慢さを補って余りある可愛げが確かにあるのだ。


 思わせ振りに笑って、娼婦の腰の辺りを撫でてやると、側近たちも一斉に沸いた。しかし、その中にただひとり眉を顰めた者がいる。


「陛下……こういう場とはいえ、仮にもお妃のことをそのように軽々しく口になさらない方がよろしいかと」

「珍しく真面目なことを言うな、アンドラーシ」


 この手の話で真っ先に喜びそうな男の渋面に、ファルカスは首を傾げる。ついでに女に構う気もなくなったので娼婦は脇に避けて側近に向き合った。


「娼婦の味を比べるのとは話が違います。正式なお妃のこと、それもあの御方は王家のお生まれでいらっしゃるのですから」

「お前はあの女に随分肩入れしているな」


 彼の立場を隠す気もない発言は興醒めではあった。しかしそれ以上にアンドラーシの真剣さが不思議だった。だからファルカスは咎めるよりも話を続けることを選んだ。


「あのお美しさと気高さですから。当然です」

「まあ、そんなに?」


 女は容姿が気になるものなのか、娼婦は懲りずに口を挟み、アンドラーシも滔々といっそ歌い上げるかのように熱のこもった口調で語る。


「髪は月の光を紡いだよう、瞳は宝石を嵌めたかのよう。顔かたちが整っているだけでなく、もちろん立ち居振舞いにも気品が満ちている。ミリアールトの雪の女神も嫉妬するだろうよ」

「どこまで執心しているのだ。やはりお前に下賜すれば良かったか」

「とんでもない」


 うんざりとして皮肉ったファルカスに対し、アンドラーシは爽やかな笑顔で首を振った。


「あの方には陛下のお傍こそ相応しい。私はお二人にお仕えできるのが嬉しくてならないのです」


 ――あの女の方が王妃であるかのような言い方だな。


 不遜な臣下を叱るべきか悩んで、ファルカスは無言で酒杯を呷った。だが結局不要と判断する。父リカードに守られたミーナに比べて、側妃の後ろ楯はまだ弱い。心酔する者がいるのは悪いことではないはずだ。


「お前は最近あの女に会ったのか」


 ふと思い付いて尋ねる。アンドラーシは側妃との付き合いが長い。つい最近まで避け続け、娶ってからも数日に一度閨を共にするだけの彼よりも、よほど。だから、彼と会うのは断っても、この男なら頷くこともあるかもしれない。


「いえ。ご不調とのことですし……。イルレシュ伯も心配していたようですが」

「あの者にも会っていないのか」


 ――仮病ではなかったのか。


 側妃の不調はミーナに会いたくないがための虚言だと思っていた。次に会う時には、悲しげにしていた王妃の様子を伝えてやれば後悔して反省するだろう、と。だが、ミリアールトの忠臣にさえ会っていないとなると、本当に体調が悪いのかもしれない。

 これはさすがに様子を見に行った方が良いだろうか。顎に手をあてて考え込んだところへ、アンドラーシが付け加えた。


「そろそろご機嫌を伺われてはいかがでしょうか。召使を増やしたそうですから、回復してきてはいるということだと思いますが」


 これに、ファルカスは顔を上げて臣下の顔を凝視した。娼婦はおろか、側妃でさえも彼の頭から追いやられていた。


「例の娘のことだな」

「はい」


 先の乱で死んだバラージュの息子と娘が復讐を望んでいるとは報告を受けていた。それも、彼ではなくリカードに対して。

 原因を辿れば彼らの親の死も汚名も、責がリカードに繋がるのは間違いない。だが、直接死を命じた王ではなく、仮にも閥の長であるリカードに憎しみが向かうとはにわかには信じがたいことだった。

 人質も兼ねて、姉娘の方を側妃の傍に上げる予定だということ。娘の人柄の見極めは、今はイルレシュ伯の称号を与えたグニェーフ伯が行うことと聞いていた。あの老人が、女王と仰ぐ側妃の身に危険が及ぶことをするはずがない。ならば、姉弟の言葉は真実だと認められたということだろう。


 ――となれば、弟の待遇も考えなければならないな。


 バラージュを無能と評したのは彼の本心ではなかった。できることならリカードから離反させ、彼自身に忠誠を誓わせたかった。力不足を見抜かれてみすみす父親を死なせた上に、息子も不当に虐げたのに対して、彼としても忸怩たる思いがあるのだ。


 ――かといって急に重用する訳にもいかぬし……。


 バラージュの息子ならばよく躾けられている可能性が高い。リカードもそれは承知しているだろうから反対される恐れは少ないが――懸念すべきは、実際に馬を並べて戦うことになる側近たちの心情だ。実力の知れない者を同列に受け入れることは難しい。件の少年は、例の狩りの時にも同席していたはずだったが、あいにく他の無能どもに苛立った記憶ばかりで印象が薄いのだ。


 思案顔で黙り込んだ主君を、側近たちは()()()放っておいてくれた。つまり、発言を急かすでもなく、完全に沈黙するでもなく。それぞれに雑談しながら主への注意は怠らず、十分に考える時間を与えてくれた。


「次に何かことが起きれば――」


 そしてついにファルカスが口を開くと、全員が一斉に彼を注視した。


「お前たちを真っ先に指名する訳にはいかないかもしれない。試したい者がいる」

「御意のままに。不平など申しません」

「我らは陛下のお心を信じております」


 誰もが口々に頷く中、主が誰を念頭に置いているかよく察しているのだろう、アンドラーシが言い添えた。


「イルレシュ伯も、忠誠を示す機会を求めていらっしゃいました」

「なるほど。考慮する」


 ――あの老人も立場を弁えているのだな。


 単に降伏しただけでは決して認められることがないことを。主である側妃よりも、話が通じそうなのは朗報だった。


 忠誠を試す機会はすぐに得ることができるだろう。ティグリスと、あの異母弟を要するハルミンツ侯は側妃の誕生に焦っているに違いない。王に男子が生まれれば、不具のティグリスが王位を得る見込みは無に等しくなるのだから。




 ファルカスの予想は思いもよらない方向に外れた。数日後、リカードがある報せを携えて彼の執務室を訪れたのだ。


「マズルークからの侵攻、か……」


 国境を接する小国のひとつの名を聞いて、ファルカスは顎に手をあてた。イシュテンから見れば東よりの北方に位置する国で、ミリアールト同様長年に渡ってイシュテンと小競り合いを続けている。


「昨年ミリアールトを攻めた直後ならば厄介だったが。どうものろまなことだ」

「機を伺っていたということかと。先日の乱で統治に苦慮しているとでも思ったのでしょう」

「それはそれで愚かだな。力づくで鎮圧したにしては帰還が早すぎるだろうに」

「乱を起こしながらあっさりと剣を収めるなどとは誰も思いますまい」


 落ち着いて状況を分析していると見せかけて、義理の父子の間には冷ややかな空気が流れている。

 どうせ娼館で夜を過ごしたこともリカードは承知しているのだろう。ミーナを実家に下げさせて牽制したつもりのようだったから、ファルカスも気にしていないと態度で見せたのだ。娼婦が孕んだところで王の子と認められるはずがないのはお互い分かっているから、純粋な嫌がらせに過ぎないが。

 嫌がらせのついでに、ファルカスは義父に対して意地悪く笑って見せた。


「先の乱では犠牲が少なくて済んだ。側妃のお陰だな」

「……いずれにしても放っておく訳には参りませぬ。マズルークに対して、誰を向けるおつもりでしょうか」


 リカードはさすがに苛立ちを露にすることはなかったが、まとう空気は確実に一段険しいものになった。嫌いな相手を不快にさせることに成功したので、ファルカスは余裕を保って笑うことができる。


「さあ、どうするか……」


 この余裕も、リカードには気に入らないに違いない。ある程度以上の規模の兵を動かすには、ティゼンハロム侯爵家の協力が欠かせなかったから。このような場合には、自家の家臣を押したいリカードと側近に手柄を与えたいファルカスの間で駆け引きがあるのが常だったのだ。


 ――まずは譲歩したと見せてやろう。


「バラージュの息子はどうだ。父の汚名を雪ぐ機会を切望していることと思うが」


 真っ先に派閥の者の名を出されるとは思わなかったのだろう。リカードはゆっくりと瞬いた。


「……もったいないお気遣いですな。あの者もさぞ喜ぶことでしょう」

「俺としてもあの男を死なせたのは本意ではないのだ」

「今やあの少年は臣が後見しておりますから、我が子も同然。息子を忘れずにいてくださったこと、臣としても感謝の念に堪えませぬ」

「ほう、ではあの者は俺にとって弟になるか」


 取り込もうとしても無駄だ、と牽制する義父に、ファルカスは思ってもいないことを口にして笑ってみせた。この程度の皮肉はリカードとの間にはいつものことだ。

 失態を犯して死んだ父の代わりをしてやってると考えているならリカードも甘い。バラージュの息子はこの老人が思っているよりずっと賢い。父の死の真相を看破して一族の長に逆らう気概を見せているという。


 ――期待に応えなければならないのは俺も同じだが……。


 イシュテンでは強い者しか王足りえない。彼の器に失望したら、件の少年はファルカスの敵に与して復讐の機会を狙うだろう。

 リカードに勝る力を得るべく、彼はまず言葉での戦いを制そうとする。


「とはいえ子供ひとりに任せるのも心許ない。他に監督する者が必要だが――」

「それなりに経験を積んだ者ということになりましょうな」


 王の側近の若造どもなど認めない、と。リカードはまた牽制した。しかしそれでファルカスが苛立つことはない。むしろ内心の悦びを隠すのに苦労するほどだ。策を巡らせたつもりで、相手が彼の思い通りのことを言ってくれているのだから。


「分かっている」

「では」

「イルレシュ伯に任せるつもりだ」

「は――!?」


 強かで老獪な狸が、とうとう驚きを露にしたのでファルカスは声を立てて笑った。それが相手の冷静さを奪うことを計算しつつ。


「妥当だと思うが。あの老人も降伏して成り上がったなどと囁かれたくはあるまい」

「降伏したばかりだからこそ信用なりませぬ! マズルークはミリアールトとも国境を接しているではありませぬか。内通が――」

「だからこそ、だ。あの者は長くミリアールトの国境を守っていたとか。相手のやり方もよく分かっているだろうよ」


 酢を飲んだような表情で反論を探しているらしいリカードに対して、彼はやや声を低めた。


「それに、手札を増やすのは悪くないことだろう。敵は国の外ばかりにいるのか? あの者が本心から従ったのかどうか、早目に見極めるのは必要ではないか?」


 彼とリカードは潜在的には敵同士だ。彼はいずれ義父を退けて自ら権力を握るつもりだし、リカードの方でもそれを妨げるのに手段は選ばないだろう。

 だが、少なくともマリカが幼いうちは、そして他に敵がいる限りは彼らふたりは共に戦わなければならない。共通の敵――例えばハルミンツ侯などだ。その存在を思い出したらしく、リカードは顔を顰めて嫌悪を剥き出しにした。恐らくは、側妃に関わる者を味方に数えるという発想に対しての嫌悪だろう。


「確かに。……忠誠が本心からのものであれば、ですが」

「それを今回試そうというのだ」

「あの者が裏切った場合は――」

「その時こそ舅殿に助力を乞おう」


 いっそ朗らかに言ってやったから、彼がその可能性をごく低く見積もっているのはよく伝わっただろう。

 表情を歪めた義父を無視して、ファルカスは山と積もった書類を示した。いずれも彼とそしてリカードの承認が必要なもの、話している暇はないと問答を打ち切る姿勢を見せたのだ。


「早く済ませるぞ。国防は火急のことだし――側妃に会わねばならぬ」

「なぜこのような時にあの女と……!」


 リカードが不機嫌に唸るのを聞いて、ファルカスの機嫌は逆に上向く。


「イルレシュ伯を借りるならば一言あった方が良いだろう。あれも祖国の者の活躍は喜ぶはず」


 本当は、臣下を借りるのを女王に断りを入れようということだがそこまで口にする必要はない。


 ――バラージュの娘に会ったのならばそれなりに回復したということだろう。


 新たに書面を広げながら、彼は側妃に会うのを楽しみにしている自分に気付いた。

2015/11/11誤字を修正・一部加筆修正しました。

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