悪意の種 エルジェーベト
「どうして……」
王の腕の中、ミーナは悲しげに眉を寄せて俯いていた。王と――側妃を招いた茶会のはずが、当日になって当の側妃が欠席を申し入れてきたのだ。
「シャスティエ様。せっかく久しぶりにお会いできると思ったのに……」
「体調が優れないというのだから仕方あるまい。また次の機会がある」
「はい……」
慰めるようにミーナの髪を梳きながら、王の声も表情も常ほどの力や確かさはない。王は疑っているのだろう。図々しくも側妃に収まったあの女が、本当に体調が優れなくて欠席したのか。それとも仮病を使っただけなのか。エルジェーベトの思った通りだ。
――王と王妃を蔑ろにした無礼者と嫌われれば良いのよ。
ミーナも疑っている筈だ。やっと約束を取り付けたと思ったら、やはり行けないなどと言いだしたのだから。あの女に嫌われていると思ってくれれば良いと心底思う。二度と会いたいなどと言い出さないように。もっと言うならミーナの方でもあの女を嫌い憎んで欲しいものだが、この様子ではまだ時間が掛かるかもしれない。
――それにしても、昨日のうちに申し出れば良かったのに。
どうせあの女は数日前から全身かぶれさせて人前に出られない姿だったろうから。欠席を伝える役がエルジェーベトであったなら、ミーナを慰め抱きしめるのも彼女であった筈なのに。当日に言い出した方が急に体調が悪くなったという言い分に説得力があるとでも考えたのだろうか。
惨めな姿で言い訳を考えるあの女を想像するのはエルジェーベトにとっても愉しいことで、唇は昏い笑みの形に歪んだ。
あの女は犯人を誰だと考えているだろう。エルジェーベトも疑われているだろうが、どうせならミーナだと考えていてくれれば良い。嫉妬のために自慢の美貌が損なわされたと思ったら、あちらでもミーナを避けてくれるだろう。
リカードが鎮圧したばかりのミリアールトを慮るので、致死性の毒を仕込むことはできなかった。王がミリアールトの某とかいう男にイルレシュ伯の領地と称号を与えたので、旧ミリアールトの勢力はイシュテンにおいても無視できないものになってしまったのだという。王のあの女への過分の気遣いを見せ付けられるようで、エルジェーベトには面白くないことばかりだ。
あの女の専横を見るにつけても、思う。
――誰が何と言おうと彼女はいずれ必ず殺してやるわ。
それは決して譲れない、エルジェーベトの決意であり願いだった。
そのように心を決めてもなお、リカードの許しが出るまでの短い間ではあっても、ミーナに馴れ馴れしく接することなど許せない。この調子でお互いに嫌い合うように仕向けたいところだった。
「ミーナ様。残念ではありますけれども、せっかく陛下がいらしてくださったのです。嫌なことは忘れてご歓談なさればよろしいですわ」
「そう……ね」
僭越ではあったが横から声を掛けると、ミーナは王の胸から顔を上げてエルジェーベトに弱々しく微笑んだ。主の視線が向けられるのは、いついかなる時でも彼女にとっては喜びだが、王から関心を奪った今の場合はなおさらだった。他の女を抱いた腕でミーナに触れるなど汚らわしいにもほどがある。
「マリカ様も。お父様に犬をお見せするのでしょう?」
「うん。お父様、見て!」
王女に呼びかけると、父母の語らいが終わるのを待っていたマリカは可愛らしい小走りで王に駆け寄った。
その足元にまとわりついているのは、黒い毛並みの子犬だった。成長しきっていないとはいえ猟犬だから、小さな子供と比べると狼のような大きさにも思えるが。それでも顔つきは幼いし、はしゃいだように転がるように走る様から確かにまだ子供なのだと分かる。
犬舎で生まれた子犬の中でも夜のような毛皮を持ったこの一頭は王女のお気に入りになった。父の愛馬とお揃いだと言って欲しがったので、決して王女を傷つけることがないように躾させていたところだったのだ。
念願かなってその犬を犬舎から引き取ることができたのはつい最近のこと。王女の行くところはどこへもついて回る犬の賢く忠実なことは、エルジェーベトの息子のラヨシュにも劣らなかった。
そういう具合だったから、マリカは父に自慢するのを楽しみにしていたのだ。
王も狩りを好むから、犬の扱いについて娘に教えることができるのを喜ぶだろう。その光景を見ればミーナの機嫌も直るはずだった。
「まあ、マリカったらはしゃいでしまって」
「これが例の犬か。確かに影号と同じ色だな」
案の定、少女と子犬の可愛らしい組み合わせに王と王妃の口元はほころんだ。それを確認してからエルジェーベトは親子三人の前から辞した。
その後、エルジェーベトはたまには息子のラヨシュに構ってやることにした。マリカが父と過ごす間は護衛もいらないので手隙になっただろうから、今後の心構えを説いてやろうと考えたのだ。
「王女様が犬に夢中で良かったわ。あの女の離宮へなどは、行きたがったりなさっていないでしょうね?」
「はい、母様。最初の頃はあちらへ行きたいと仰ることもあってお止めするのが大変だったのですが、犬が来てからはそのようなことはなくなっています」
「そう」
母と息子とで卓を囲んでいるとはいえ、その雰囲気はさほど暖かなものではない。むしろ教師と生徒、あるいは主人と配下といった空気が近いだろうか。ラヨシュも出した茶菓に手をつけることもせず、手を膝の上で重ねて母の――エルジェーベトの顔を真っ直ぐに見上げている。
「お前が役目を果たしているのは結構なことです」
「ありがとうございます」
それでも褒めてやると、息子は子供らしい笑顔を見せた。
子供に忠誠心を求めるのは恐らく難しいことだろう。十にもならない頃からミーナを守ると思い定めていたエルジェーベトが特別なのだ。だが、息子の心はまだ弱くても、母の気を惹きたいがためにマリカの守りに熱心になるということもあるかもしれない。それなら働きを認めてやるのは良いことだろう。
「図々しくも陛下を誘惑するような女です。決してマリカ様と会わせてはなりません。これから先も、ゆめゆめマリカ様から目を離すことのないように」
「はい、母様」
「まだ幼くていらっしゃるもの。しばらくすればマリカ様もあの女のことなどお忘れになるでしょう。お相手を務めて、お気を逸らせて。お前もそれを早める助けになりなさい」
「はい」
ラヨシュが神妙な顔で頷いたので、エルジェーベトは満足して微笑んだ。すると息子は一層嬉しそうな顔で笑う。微笑み一つでこんなにも浮かれる子供を、愚かだと思うのと同時にいじらしいとも感じる。いずれにしても、これほど聞き分けよく彼女の思いのままになる駒は貴重だった。
「良い子ね。頼りにしていますよ」
「……はい!」
日頃マリカの相手をしてくれている報酬として、エルジェーベトはしばらく息子と過ごした。勉強や剣の稽古の進み具合を確かめたり、マリカの様子を聞き出したり。ラヨシュが割と優秀なようなのも、母に言われたからというだけでなく王女を大事に思っているようなのも、彼女にとっては嬉しいことだった。
正式に従者ということにできれば、ラヨシュは長くマリカと共にいられるだろう。ミーナの娘を、エルジェーベトが守るのだ。女だからと歯がゆい思いをしたことは数知れないが、子供たちの時代はもう少し安心して見守ることができそうだった。
――後は、あの女さえいなくなれば……!
理想を言うならエルジェーベトとしてはあの女が逆上して怒鳴り込んでくるのを期待していた。
覚えのないことで詰られれば、ミーナはきっと怯えただろう。王も、無残な姿で眉をつり上げた女に少なからず幻滅したに違いない。どれほど美しくても高貴な生まれでも、女が感情を露に泣き叫ぶのを男は好まないものだから。
だが、あの女は辛うじて冷静さを保ったらしい。内心どう思っているかは分からないが、少なくとも表立って王に訴えることもミーナを責めることもしなかった。
だから、大筋で思い通りになったとはいえ、歯向かわれたようでエルジェーベトには面白くない。
――もう一つ、駄目押しをしておきましょうか。
「その調子で励みなさい。私は用事がありますから」
最後に微笑みをひとつ与えて、ラヨシュの頭を撫でてやると、エルジェーベトは息子を置いて下働きの者たちのもとへ向かった。
「陛下は?」
「今夜はこちらでお休みになるとのことです」
「そう」
そして、息子にかまけていた間の報告を受ける。あの女の肌が治るまでは王があちらを訪れるのを警戒する必要はないだろう。それでも、王が妻子――イシュテン王の妻はミーナひとりに決まっている――と過ごすとの知らせは喜ばしいものだった。少なくとも王妃に仕える侍女としては。エルジェーベト個人の心情としては、苦く熱い嫉妬も呑み込まなければならなかったけれど。
「側妃様は体調が優れられないとか。王妃様のお名前でお見舞いを差し上げようと思います」
ともあれ、そのような思いは振り払い、冷静な口調を装ってエルジェーベトは命じた。すると相手ははあ、と言って首を傾げる。
「さすが王妃様はお優しくていらっしゃいます。……花など、ということになりますでしょうか」
別段ミーナが気を回した訳ではないが、エルジェーベトは訂正することはしなかった。見舞いの案だけならミーナも賛成するに決まっているから、王との語らいを邪魔するには及ばない。ミーナは何も知る必要はないのだ。
「花は以前にも贈りました。宴であちらの方が倒れた際に。ですから今回は菓子か、果物などが良いでしょう」
「かしこまりました」
「用意をしたなら私が差し上げに参ります」
「はい」
さすがに王妃に仕える者たちだけあって、見舞いの品はすぐに用意された。花や果物が不足することのない、初夏の季節だったのも幸いしたのだろう。
「大変結構です。あちらの方も感謝されることでしょう」
首尾よく食べ物を差し入れることができるようになったので、エルジェーベトはほくそ笑んだ。リカードの命令を守って毒などは入れていないし、あの女がバカ正直に口にするとは思っていない。ただ、疑い恐れれば良い。急に欠席を申し出た茶会のその日に、王妃の名で菓子や果物が贈られる。罰なのか、更なる嫌がらせなのかとせいぜい思い悩めば良いのだ。
見舞いの品はエルジェーベトが自ら届けることにした。体調不良を言い訳にした以上、あの女が出てくることはないだろうが、仕える者たちの顔色が変わる様を見るだけでも十分意趣返しになると思った。
「王妃様から、ですか……」
「ええ」
そして目論見通りに金茶の巻き毛の娘が表情を強ばらせたのを見て、エルジェーベトは喜んだ。エルジェーベトはこの娘も嫌いだから。イシュテンの者にはいない金茶の髪も若草色の瞳も、主を――あの女を思わせて目障りだ。
ミーナの茶会であの女がティゼンハロム家ゆかりの貴婦人たちに責められていた時も、この娘は怒りをこらえきれずに不穏な目の色をしていた。あの女が毒に倒れた後は、ミーナさえあからさまに睨みつけていたという。ミーナは優しすぎるから、侍女が相手であっても嫌われてしまったと悲しげにしていた。エルジェーベトにはそれが決して許せない。
「王妃様のご厚意ですから、どうぞ召し上がってくださいませね」
「…………」
「早くお元気になるのをお待ちしていらっしゃいますから」
「…………」
この娘は、今も内心煮えたぎっているのだろう。絶句して、硬い表情で菓子とエルジェーベトとを見比べている。しかし、仮にも王妃からの使いに対して疑いをはっきりと口にしたり詰ったりすることはできまい。だから、エルジェーベトは心置きなくこのミリアールト出身の侍女を嬲った。これで泣いたり怒ったりするようなら、主の躾が行き届いていないと攻撃する種にもできるだろう。
「……お心遣い、まことにありがたく――もったいなく存じ上げます」
だが、しばらくしてやっと口を開いた娘の目は、エルジェーベトをしっかりと見返していた。そこには怒りや怯えといった負の感情は――少なくとも明らかには――見えなくて、エルジェーベトは眉を寄せる。
「いえ……」
「シャスティエ様――クリャースタ様は王妃様をお慕いしていらっしゃいます。ですから、きっとお喜びになりますわ」
「そう、ですか」
――媚びているつもりなの? それとも、こちらの意気を挫いたつもりなの?
この娘が――あの女が本心からこのようなことを言っているとは思えない。それほど愚かな者たちではないということは分かっている。だから、これは恭順を示して慈悲を乞おうということか、そうでなければ何も気づいていない振りでやり過ごそうということだろう。
だが、その割に娘の目には卑屈なところがない。それも、エルジェーベトには気に入らない。返す言葉に迷ううち――扉の外から、涼しげな声が響く。
「王妃様は本当にお優しい方。私などのためにお気遣いいただいてもったいないことです」
穏やかで上品な、若い女の声だった。けれどその声は鋭い槍のように彼女の脳天を貫いた。あの女だ。声が聞こえる扉の向こうは、離宮の奥へと続いている。あの女が、すぐそこまで来ているのだ。
「見苦しい姿だから出られなくてごめんなさいね。でも、王妃様のお使いだからどうしてもお礼が言いたくて」
美しくも憎たらしい声に、エルジェーベトは怒りに震える。
――何て……白々しい!
見苦しい姿というのは、臥せっていたから身支度が整えられないという意味ではない。あの女は今、人前に出られる姿ではないはずだ。なのに、澄んだ声からも笑いさえ含んだ口調からも、そのような惨めさは感じさせない。
できることなら扉を開け放って爛れた肌を見てやりたいとさえ思う。しかし、眦決して立ちふさがる侍女は、絶対に許しはしないだろう。それが、口惜しくてならない。
扉越しにエルジェーベトが言葉を失う気配を察したのだろう、あの女は声を立てて笑った。
「失礼をしてしまったけれど……王妃様に心配していただけるなんて嬉しいわ。私、この国の誰よりもあのお方を信頼申し上げているのですもの」
その瞬間、エルジェーベトは不意に憎い泥棒猫が言おうとしていることを悟った。
――無駄だというのね、私の狙いが!
この女は毒の石鹸を贈ったのが彼女だと気付いていると暗に言っている。その上で、ミーナはあずかり知らないことだと分かっていると、疑いの種を撒こうとしても意味がないと伝えてきているのだ。
――なんて、生意気な。
エルジェーベトは金茶の髪の侍女からは見えないように拳を握って苛立ちを紛らわす。見せかけの笑顔を絶やすことのないように。だが、側妃とその侍女への怒りと憎しみは彼女の中で募っていく。
この女たちは単に彼女の企みを意に介さないと言っただけではない。図々しくも恥知らずにも、ミーナの心の裡を推し量ったつもりでいるのだ。確かにミーナは優しいが、出会って一年になるかどうかのこの者たちが、ミーナの心を分かった気になるなど到底許すことはできない。ミーナの平和な世界を脅かし、優しい心を痛めさせているのは、あの女に他ならないというのに!
「それをお聞きになれば、王妃様もきっと喜ばれることでしょう。クリャースタ様も、どうかお大事に」
「ありがとう。私からも、王妃様と王女様のご息災をお祈り申し上げています」
「お伝えいたしましょう」
言葉とは裏腹に、心では固く決意する。
――決して伝えてなどやらないわ。
にこやかな振りを保ったまま、エルジェーベトは挨拶をして側妃の離宮を辞した。彼女の黒い目と若い侍女の若草色のそれは、激しく睨み合ったままだったが。
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2016/4/30 誤字修正