異変 シャスティエ
髪を梳いては背を撫でて、更にその下へ。そして腿の辺りを這う手の感触に、シャスティエは目を覚ました。嫌悪感に身体を震わせると、耳元に低い笑い声が響く。
「起きたか」
「……そもそも寝ておりません」
シャスティエは声を尖らせた。疲労のために意識を手放していただけで、断じて眠っていた訳ではない。すぐ隣に飢えた狼のような男がいるというのに、安らかに眠ることなどできるものか。こんな風に、いつまた手を伸ばしてくるか分からないのだ。のんきに夢を見るなどできるはずがない。
王の腕の中から逃れようと身体をよじるが、そんな抵抗はあっさりと封じられて一層強く抱きすくめられた。素肌同士が触れ合うのが厭わしい。
「そうだったか」
反抗的な口調だったというのに、王の声は笑っている。側妃になって以来、この男はシャスティエに対して幾らか優しくなった。閨を共にしたからだろうか。いくら抗っても力では決して適わないと思い知らせたからだろうか。しょせんはか弱い女だと侮られているようで、腹立たしいことこの上ない。
「もう朝ですわ。ご公務がおありなのでしょう。お戯れもほどほどになさいませ」
「情のないことを言うのだな」
全力で手を突っ張っているのに、王の力に阻まれて離れることはできなかった。それどころか頬に手を添えられて間近に顔を合わせさせられる。昨晩のことを思い出すから、王の顔など見たくないのに。
「側妃風情が陛下をお引き止めしたなどと思われたくはありません」
目を逸らして寝具を見下ろしながら――これも昨晩の痕跡が残っているから見たくなかったが――ぶっきらぼうに答えると、視界のぼやけた端で王は更に笑った。顎を持ち上げられて口付けられそうになるのを、意地で顔を背けて狙いを逸らす。昨日の今日で唇を奪われてたまるものか。渾身の力で首をよじると、王の唇はシャスティエの頬をかすめていった。
「ミーナは気にしていないようだぞ。それどころかお前に会いたいと言っている」
「そんな筈はございません。無理をなさっているに決まっています」
シャスティエは決めつけたが、王は彼女の言葉を聞き入れるつもりはないようだった。
「茶会の日取りはもう決めたのだぞ。会って、また話してやれば良い。お前が変わらず接してやればミーナも安心するだろう」
――ご夫君を奪った女と会って安心する? あり得ないわ!
ミーナをも侮っているとしか思えない王の態度を声高に罵って糾弾してやりたかった。しかし側妃の身でそのようなことは許されない。シャスティエが密かに抱いた計画のためにもそれはできない。世継ぎを授かるまでは、王に嫌われてはならないのだ。……分かっていてもなお、この有り様ではあるのだけど。それでも、これ以上あからさまに楯突いては、王も機嫌を損ねるだろう。それは決してあってはならないということくらいは彼女も弁えている。
だからシャスティエはせめて沈黙で納得していないということを示し、王に抱き寄せられるのに耐えた。王の胸に頬を寄せていれば、渋面を見られることはないから幸いだった。
王が去るとすぐ――二人が朝食を共にすることはない。あくまで男児を得るための取引であって、お互いに愛がある訳ではないから――、シャスティエは沐浴の準備を命じた。木製の浴槽に湯が張られるのを待つ間に、花の香りを移した清水を運ばせて顔を洗い、念入りに口をゆすぐ。王の手が指が唇が触れた感触を、一秒でも早く拭い去りたかった。
「クリャースタ様、本当に白くて滑らかなお肌ですわ!」
「……そう」
やっと湯が溜まったので衣服を脱ぎ捨てて浴槽に浸かると、新しく与えられた召使の少女が歓声を上げた。シャスティエには理解しがたいが、側妃とはいえ王の妻に仕えるのは名誉なことらしい。シャスティエよりも年若いと見えるこの少女は、いつも嬉しそうに彼女に接して何かと褒めちぎってくる。
「陛下もきっと夢中でいらっしゃるのだと思いますわ。王妃様と同じくらいに通ってくださっているのですもの」
「そうかしら」
――私のところへは夜に来るだけじゃない……。
肌に散る紅い痕を隠そうと、シャスティエは湯の中で自身の身体をかき抱いた。これを見て言っているのだとしたら恥ずかしすぎる。王が彼女の元に来るのは、世継ぎを得るためだけ。愛や情などあり得ないのだろうに。
王は確かに優しい。シャスティエを無駄に傷つけようとはしていないらしい。だが、その優しささえ彼女にとっては屈辱だった。
彼女はもっと、毅然として耐えようと思っていたのだ。復讐のために身体を許しても、心は決して屈しないのだと。女王の誇りを見せつけようと思っていたのに。
だが、最初の夜にシャスティエはみっともなく泣き叫んで王にしがみついていた。耐え難いほどの苦痛と屈辱を味わったのに王は余裕たっぷりで、手加減されたという事実に彼女の矜持は多いに傷つけられた。
――悔しいわ……。
シャスティエは苛立ちに任せて指を口元に運び、歯に骨の感触があるほどに強く噛んだ。すると鋭い痛みが走る。そう、彼女はちゃんと痛みを感じることができるのに。
なのに、いつしか閨で痛みに叫ぶことはなくなった。それどころか彼女の肉体は彼女の心をあっさりと裏切った。昨晩、王にどんな声を聞かせたかを考えると羞恥と自身への怒りで身体中の血が燃えた。湯の温度が上がってしまうのではないかと思うほど。
「シャスティエ様――クリャースタ様」
血が滲むほどに指に歯を立てていたのを見咎めて、イリーナが心配げな声を上げた。うっかり元の名前で呼んだので睨みつけると、小さな声で婚家名で呼び直した。日々、復讐を誓いなおすのだと決めたのだから、そちらの名前で呼んでくれなくては意味がない。
「クリャースタ様、御手を上げてくださいませ。お身体を洗わせていただきます」
側妃の名前の意味など知らない召使の少女は、ひたすら明るい声で彼女の婚家名を呼んだ。その底抜けの無邪気さも、どこか彼女の心をささくれさせたが。
と、そこへ香った爽やかな香りにシャスティエは首を傾げた。
「石鹸を変えたのかしら」
前回湯を使った時はもっと甘い香りだった気がするが、今鼻をくすぐったのは花ではなく、香草の香りのようだった。
すると、気づいてもらえて嬉しいとでも言うかのように、少女は大きく頷いた。
「はい! 今日からおろしたものですわ」
「そうなの」
「前のものと、どちらがお好みでしたでしょうか?」
「綺麗になるならどちらでも良いわ」
淡白な答えにも少女はひるんだ様子はなかった。幼い頬には変わらず明るい笑顔が浮かんでいる。
「そうですか。クリャースタ様にはこちらの方が合っているかもしれませんわね。すっきりとしていますもの」
「そう」
小鳥のさえずりのような少女のおしゃべりは、少々煩わしくもあった。けれど彼女に悪意がないことは明らかだったし、細かく泡立てられた石鹸が肌を滑る感覚は心地よかった。
だからシャスティエは目を閉じて世話をされるに身を委ねた。湯の温かさもあいまって、苛立ちも悔しさも恥ずかしさも少しは解れていくようだった。
身体を清めて食事を終えると、昼近い時間になっていた。
とはいえ後はもうほとんどやることもない。側妃の生活など変化のない退屈なものだった。ミリアールトから何冊か本を持ってくることもできたが、次に手に入る宛もないからすぐに読み切ってしまうのも惜しい。人質だった頃よりは王宮内を自由に歩くことが許されているが、王妃と鉢合わせるかもしれないと思うと与えられた離宮を離れるのもはばかられる。
だから、シャスティエはぼんやりと庭を眺めていた。季節はそろそろ春から夏に移るかどうかという頃だから、幸いにも花や若葉が目を楽しませてくれる。庭が寂しい季節になったら、刺繍などを楽しむことを真剣に覚えなくてはならないだろうか。
「……退屈なさっているご様子です。陛下や王妃様とのお茶会での衣装を選ばれてはいかがでしょうか」
目線をわずかに動かすと、ツィーラが気遣うように微笑んでいた。昨年イシュテンに連れてきた時から身近にいる、年かさの侍女だ。側妃になって、改めて正式に彼女に仕えることになった。
穏やかな物腰は信頼できると思わせるし、王宮の造りやしきたりを教えてくれるのも、下働きの少女たちを統率してくれるのもありがたい。ただ、シャスティエは今はとにかく怠かった。
「衣装ですって?」
気のない返事にも、ツィーラは辛抱強く微笑みを保った。
「はい。両陛下がご臨席されるのですから相応しいものにいたしませんと。それに、お国の衣装はどれも素晴らしいものばかり。娘たちは喜ぶでしょうし……どのような色や意匠があるのか、覚えてもらわなくてはなりません」
この老女は目下の侍女や召使のことを自身の娘のように語る、と思いながらシャスティエは一瞬考えた。
ミリアールトから持ってきたのは本だけではない。懐かしい王宮でしまわれたままになっていた衣装も運んでもらった。王女のために作らせたものだから当然質は良いものだし、王妃から賜ったドレスをこれ以上着る気にはなれない以上、そして側妃に与えられる手当にそうそう手をつけるつもりにもなれない以上、正しい判断だったと思っている。
「そうね……」
イリーナはどのようなものがあるか全て把握しているから、ツィーラの提案は意味がないと言えばない。
ただ、シャスティエが引きこもっている分、仕える者たちも退屈しているのかもしれない。主としては何か楽しみを与えてやるのも務めだろうか。若い娘たちならば、美しい絹や刺繍や宝石を眺めるのは、自身が纏うものでなくても心踊るものだろうか。
「それでは整理も兼ねて皆で並べてみれば良いわ。でも着るのは一番地味な色のもので構わないから」
「クリャースタ様」
「王妃様は可愛らしい色をお好みでしょう。同じ色を着てしまってはいけないわ」
もちろん本音は王妃と張り合っていると思われたくないということだ。ツィーラにもそれが伝わっているのだろう、何か案じるような、物言いたげな顔をしている。
哀れまれているような気がして、シャスティエの心はまた波立った。
「とにかく、皆で好きになさい。私は休ませてもらうから」
強い口調で命じると、侍女は黙って頭を下げた。
休みたかったのは本当だった。何しろ昨晩はろくに眠れなかったから。今日に限らず、王を見送った後にひとりで整えられた寝台で休むのはよくあることだった。昼夜が逆転してしまったような――夜、王に侍るためだけに生きているような日々には忸怩たるものがない訳ではないが、これもシャスティエが選んだ道だ。決して想像できていたということはないが、引き返すことができない以上は耐えなければならないだろう。
――早く懐妊すれば良いのに……。
そうすれば王に抱かれなくても済むはずだから。
そんなことを考えながらも、寝台の柔らかさが身体の疲れを受け止めて包むようで。シャスティエはすぐに眠りに落ちていた。
目を覚ますと辺りは既に薄暗くなっていた。
――今日も結局何もしなかったわ……。
眠りすぎたのか重く痛む頭を抑えながら身体を起こそうとする。――と、肌を滑る寝具がやけに不快に感じられた。絹のはずなのになめらかさはなく、なぜか引っかかりを覚える。
寝惚けた頭で訝ったのは一瞬のこと。
――痒い!?
寝台の上に半身を起こした時には、シャスティエの全身を燃えるような痒みが襲っていた。無数の小虫が皮膚の下を這うような感覚に、眠気など瞬時に吹き飛んだ。
「何、これっ――」
思わず腕を掻くとその部分だけは快感と間違えるほどの心地よさを覚える。我慢できなくてひたすら掻く手が止まらない。やがて指先にぬめりを感じたのは血が出るほどに掻いてしまったのだろうか。だが、その程度の痛みなど耐え難い痒みの前には大したことではない。否、一番の問題は、痒みでさえなく――。
「どうして……!」
それが全身に及んでいるということ。腕だけではなく、脚も背も腹も、首筋も――顔にも。そして指先に触れる腕の肌には新雪と称えられた滑らかさはなく、なぜかざらざらとしている。恐怖のあまりに涙が滲むと、涙の塩気によってか目の周りの皮膚が染みて痛んだ。
「シャスティエ様!? どうなさったのですか――」
イリーナの声だった。シャスティエの悲鳴じみた叫びに呼ばれたのだろう。他にも侍女たちが駆けつける足音がする。だが、灯りをつける気配にシャスティエはまた悲鳴を上げた。
「来ないで! 見ないで!」
そして誰かが寝台へたどり着く前に、寝具を頭から被って隠れようとした。
寝具は侍女数人がかりで引き剥がされた。痒みで力も入らないのでは抵抗もろくにできなかった。シャスティエの姿を一目見た彼女たちは絶句し、そして何も語らなかった。その沈黙がシャスティエを更に絶望させた。
「……かぶれのように見えます。掻き毟らないでしばらく我慢されれば治りますから、どうかお気を確かに」
「どうして分かるの!?」
沈黙を破ったツィーラの勇気に対して、シャスティエは八つ当たりのように怒鳴るしかできなかった。侍女たちの哀れむような恐れるような視線が怖くて仕方なかった。それほどにひどい有り様なのかと。でも、だからといって鏡を見る勇気など持っていない。
「あの」
視線を逃れて顔を背けたシャスティエに、召使のひとりが震える声を掛けた。
「ある種類の草木に触れると、……あの、そのようになることがありますわ。私、実家は田舎なものですから、皆知っていて気をつけるのですけど、たまに他の種類の葉に紛れていたりして気づかないのです」
訥々と語るのを睨むようにじっと見つめていると、少女の声は次第にか細く消えていった。碧い瞳が恐ろしいとでも言うように。ただ、俯いて黙りこくる前にその娘は治りますから、と呟いた。
だが、その言葉ですらシャスティエの心を明るくしてはくれない。
「私は草木に触れたりなどしていないわ」
娘が言ったのと同じ症状なのかも分からないのだから。
「一体どうして……」
「知らない!」
誰かが呟いて、シャスティエをこの上なく苛立たせた。そんなことは先ほどから彼女自身が一番問いたい。そして、こうしている間にも痒みは絶え間なく彼女を苛んでいるのだ。
全身をじっくりと炙られているような熱を感じる。侍女たちの目がなければ転がりまわって全身を掻きむしっていただろう。
侍女たちは主の怒りを恐れるかのように目を交わし――次に口を開いたのはイリーナだった。怖いのかシャスティエを哀れんでいるのか、若草色の瞳が涙で潤んでいる。
「シャスティエ様。石鹸を、変えたと言っていましたわね」
「……そうね」
名前を呼び間違えたのを咎める暇などなかった。シャスティエも、イリーナが言おうとしていることに気づいたのだ。更には先ほど沐浴を手伝った娘がこの場に来ていないのも。
「あの娘はどこ? 連れて来なさい!」
「は、はい――!」
既に逃げているのか、との懸念に反して、娘はすぐに連れて来られた。そしてその姿を見た瞬間に、彼女が現れなかった理由も分かった。
「クリャースタ様……なんてひどい……! でも、信じてください! 私は知らなかったんです!」
必死に訴える娘の両手もまた、シャスティエの身体と同様に赤く爛れていたのだった。
「……あの石鹸はどこから?」
ひどく疲れきったような気分で、シャスティエは尋ねた。それにも娘は激しく首を振る。
「いつもどおりに、届いたものの封を切っただけなのです。おかしなところには気づきませんでした……」
シャスティエは目を細めて娘の表情を観察した。本当のことを言っているように見える、だろうか。仮に嘘だとして、自身の肌を傷つけてまでシャスティエを陥れることができるのだろうか。このお喋りなだけに見える少女に、それほどの覚悟があるのだろうか。
「――王妃様の、嫌がらせでは?」
「あの方がそんなことをなさる筈はありません」
またも誰だか分からない呟きを言下に否定しつつ、思い浮かぶ女の姿がある。エルジェーベトだ。王妃に仕える、誰よりも王妃に忠実な女。
――あの女が?
きっとシャスティエのことを誰よりも憎んでいるに違いない。もしかすると、王妃以上に。
「陛下に、ご報告された方が……」
ツィーラが呟いたのは一連のやり取りで最も建設的なことだったかもしれない。やはりこの老女は頼りになると思う。そう、心に刻みながら、しかしシャスティエは断固として首を振った。
「こんな姿をお見せすることなんてできません。お茶会も欠席させていただきます」
そしてエルジェーベト――あの女が犯人だという直感は、限りなく真実だと思えた――もそれを狙っていたに違いない。ぎり、と唇を噛むと、痛みがほんの少しだけ痒みを散らせてくれた。
こんな姿、といった瞬間に侍女たちの間から漏れた嘆息の合間を縫うように、イリーナが懇願するように膝をついた。あるいは倒れ込んだのだろうか。
「お会いするのは無理でも、お手紙では!?」
「弱ったところを見せたくはありません」
「でも、またこのようなことがあったら――!」
答える前に、シャスティエは両手を爛れさせた娘を眺めた。この間に、服に染みが幾つもできるほど涙をぽろぽろとこぼして、祈るように両手を組んで許しを乞い続けている。その姿は哀れみを誘うものではあったけれど、シャスティエの心を動かすことはできなかった。彼女の方こそ傷つききっていたから。頬に手を触れれば痒みが燃え上がると同時にざらりとした感触がある。本当に治るものなのかどうか、不安で怖くて仕方がなかった。
その恐怖を押し隠して、できるだけ毅然とした声を出そうとする。
「その娘にはお金をあげて。手を治して、しばらくは暮らしていけるくらいの。でももうここに置くことはできない」
そんな、と叫んで娘が泣き喚いたが、シャスティエは取り合わなかった。ため息のように、誰にともなく呟く。
「それから手紙を書くわ。陛下ではなく、アレク小父様に。信頼できる者を見つけてもらいましょう。新しい召使と……料理をする者も必要かしら。アンドラーシ殿あたりに手伝っていただくのも良いかもしれない」
言い終わると、シャスティエは侍女たちから目を背けた。
「出て行って頂戴」
今はとにかくひとりになりたかった。