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雪の女王は戦馬と駆ける  作者: 悠井すみれ
10. 側妃について
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忍び寄る不安 ウィルヘルミナ

 眠りから覚めた時、ウィルヘルミナはすぐ隣に温もりを感じた。


 ――ファルカス様。


 目を閉じたまま、心地良い夢に半ば浸りながら、愛しい人を抱きしめるべく手を伸ばす。――伸ばそうとして、その温もりが思ったよりも随分小さいことに気付き、彼女は驚いて目を見開いた。


「……お母様?」


 寝起きでぼやける視界に映ったのは、娘のマリカの姿だった。ウィルヘルミナが身じろぎしたので目が覚めてしまったのだろう。父親譲りの青灰の目をこすりながら、可愛らしい小さな口であくびをしている。


 ――そうだわ。昨日は雷だったから……。


 春の嵐に娘が怯えたから、同じ寝台で休むことにしたのだった。昨晩は、夫は彼女たちのところにはいなかったから。もし夫がいたなら、ウィルヘルミナも夫に甘えて守られながら眠ることができただろうけれど。


「ごめんなさい、マリカ。起こしてしまったかしら」

「良いの……」


 胸中に湧き上がった寂しさを押さえ込んで娘の絡まった髪をほぐすと、マリカはまだぼんやりとした表情でゆるゆると首を振った。寝る前にもきちんと梳いたというのに、見事なまでに絡まり、おかしな方向へはねている娘の髪と戦いながら、ウィルヘルミナは苦笑する。


「どうしてこんなに癖がついてしまったのかしら。夢の中でも走り回っていたのでしょう」

「お父様の馬に乗せてもらったの」


 手櫛で形ばかり整えて目やにを取ってやるうちに、マリカの目も覚めたらしい。いつもの無邪気な笑顔で夢の内容を教えてくれた。


「そう。良かったわね」


 対するウィルヘルミナは、娘に対して笑顔を保つのに少々苦労してしまったが。


 ――寂しがっているという訳ではないはずよ。ただ、前にあったことを夢に見ただけ。


 自分にそう言い聞かせながら、ウィルヘルミナは自身のみだしなみも軽く整えた。


「暖かくなってきたから、また遠乗りに連れて行っていただけるわ」

「うん!」


 幸いに、母の表情がぎこちないことは娘に気づかれなかったようだ。マリカは満面の笑みで頷いてウィルヘルミナの心を慰めてくれた。




 朝食を摂ると、マリカはラヨシュと二人で遊びに出かけた。

 嵐の夜の後だから、庭園には水たまりがあちこちに出きて、花も散ってしまっているだろうが、相変わらず室内でじっとしているのは性に合わないようだった。地面に落ちた花びらを集めるのが楽しいとでも考えたのだろうか。犬舎に行って子犬と戯れるつもりなのだろうか。娘は黒い子犬が気に入って、躾が済んだら引き取るのだと言い張っていた。マリカにとっては、既に自分の犬という認識らしい。

 とにかく盛大に泥が跳ねるのが容易に予想できたから、ドレスは小さくなりかけた着古したものを着せて送り出した。


 窓を開けて湿った風を頬に感じながら、ウィルヘルミナはひとり物思いに耽っていた。

 彼女が普段することと言えば、娘の相手の他は刺繍や編み物、衣装や宝石を選んだり庭園を散策したりなど、そうたくさんの選択肢がある訳でもない。そして最近は、そのどれもがさほど楽しいとは思えなくなっていた。

 娘の笑顔を見るのは変わらない別格の悦びだが、ウィルヘルミナの方が子供の明るさに合わせるのが辛いと感じてしまうこともある。だからラヨシュに遊び相手を任せておいた方が娘のためには良いような気がしていた。


「今日は何をしようかしら……」


 となるとやるべきことが見つからなくて、ウィルヘルミナはひっそりと溜息を吐いた。退屈ならば一族の貴婦人や令嬢たちを招けば良いのだが、それも今ははばかられる。何の話題になるか、分かりきっているから。


 ――シャスティエ様の悪口なんて聞きたくないわ……。


 彼女たちはあの美しく聡明な少女を悪し様に罵って、ウィルヘルミナを悲しく申し訳のない気持ちでいっぱいにさせるに決まっているのだ。侍女たちが――何度も強く頼んだらやっと止めてくれたけれど――そうだったように。


 他の者たちは誰も信じていないようだけれど、ウィルヘルミナはあの姫君が無事にミリアールトから戻ったのを心から喜んでいるのだ。王族だったというだけで、若い少女が無残に命を奪われて良いはずがない。しかも、シャスティエは夫を助けてさえくれた。軍を率いて出陣して、夫が傷一つなく帰ってきたのは彼女が反乱軍を説得してくれたお陰だと聞かされた。だから、シャスティエに感謝こそすれ、嫌ったり憎んだりするのはあり得ない。

 あり得ない――筈だった。

 けれど、それならばどうしてこうも気が塞ぐのだろう。


 ウィルヘルミナは、シャスティエと最後に会った日のことに思いを馳せた。




 それは、夫がミリアールトから帰った日でもあった。数ヶ月振りに再会した夫に、例によってウィルヘルミナは勢いよく抱きついたのだ。


『ファルカス様! よく――ご無事でお帰りくださいました!』

『相変わらず大げさな。反乱の鎮圧に行っただけだというのに。去年とは話が違うぞ』


 苦笑しつつも優しく彼女を受け止めた夫も、いつも通りに見えた。だからウィルヘルミナは嬉しくて涙ぐみそうになったと覚えている。


『でも、お怪我がないかとずっと心配しておりましたの』

『それも問題はない。――その娘のお陰だな』


 そして夫が背後を示したので、ウィルヘルミナは初めてシャスティエも控えていたと気付いたのだった。これも、夫が昨年ミリアールトから凱旋した際と同じ構図だった。

 前の時と違うのは、ウィルヘルミナがこの歳下の姫君とすっかり仲良くなっていたということ。そして、今回の遠征ではシャスティエの命までも危険に曝されていたということだった。だから、ウィルヘルミナは気恥かしさも忘れてシャスティエに微笑みかけた。


『シャスティエ様もご無事で良かった! 本当に、死んでしまいそうなほど心配だったの』

『……もったいないお言葉ですわ』


 おかしいと思ったのは、その答えを聞いた時だった。シャスティエの声はか弱く震えて今にも消え入りそうだった。しかも声だけではなく、美しい少女の顔色までもがひどく青ざめて緊張しているように見えた。


『……何があったの? もう大丈夫なのでしょう?』


 シャスティエのあまりに強ばった表情に、ウィルヘルミナは不安になって少女と夫に交互に尋ねた。まだ何か彼女の身に危ないことが起きるのかも、と思うと新年の宴でのことも蘇って恐ろしくなってしまったのだ。


『ああ。問題ない』


 夫はウィルヘルミナが期待していた通りの言葉をくれた。さらに髪も撫でてくれた。それでも完全に安心することができなかったのは、夫もどこか緊張したような硬い表情をしていたからだった。

 鼓動が早まっていく心臓を抑えて、夫を見上げてじっと待つウィルヘルミナに、夫はとても短く告げた。


『この娘を側妃として迎えることにした』

『側妃?』

『ミリアールトの臣従の証ということだ。王家の血を引き、雪の女王の姿をした者が俺の妻になるのだ。それを見ればあの国の者も心から従う気になるだろう』

『……はい』


 夫が語ったことは難しくてウィルヘルミナにはよく分からなかった。側妃という言葉も耳慣れなくてよく意味が掴めなかった。もちろん単語としても意味は知っていたけれど、彼女にとって側妃とは先王の時代を語る時だけに使う言葉で、自身の身近に登場するものとは思っていなかった。


『……その者には改めて離宮を与えることになるが、今まで通りだから良いだろう。好きな時に会えるのも変わらないし、嫌なら会わずに過ごせるように取り計らおう』

『嫌だなんて。そんなことはありませんわ』


 いまだ事態を呑み込めないまま、やっとそれだけを答えることができた。ウィルヘルミナにとってシャスティエは大切な友人だ。何があってもそれは変わらない筈だった。


『寛容なお言葉に心から感謝を申し上げます』


 シャスティエの言葉がやけに下の方から聞こえて来たので目を向けると、彼女は跪いて地につきそうなほどに低頭していた。


『ご恩を仇で返すことになってしまいましたのに。……あの、私は王妃様と張り合おうなどとは夢にも考えておりません。お目汚しにならないように、決してお目に留まることがないように引きこもっておりますから。どうかお心を煩わされることのないように、お過ごしくださいませ……』


 名前ではなく堅苦しく王妃と呼ばれて、ウィルヘルミナは眉を顰めた。友人だと思っていた相手に壁を築かれたような気分になったのだ。


『シャスティエ様。そんな冷たい言い方はなさらないで。お顔を上げて頂戴……』

『いいえ! このようなことになった以上は合わせる顔などございません』


 ウィルヘルミナも地に膝をついてシャスティエを立たせようとしたのだが、華奢な少女は意外なほどの力で頑なに彼女の手を振り払った。

 友人だと思っていた相手に拒絶され、呆然と佇むウィルヘルミナを見かねたように、夫はそっと肩を抱き寄せてくれた。


『側妃を認めたということで良いな? お前もマリカも、何も変わることはないから心配するな』

『心配なんて……』

『そのうち慣れれば以前のように親しくすることもできるだろう。――お前も、そう頑なになるな』


 夫の言葉の後半は、平伏したままのシャスティエに向けたものだった。けれどシャスティエは金の髪を地に散らしたまま微動だにしなかった。


 とにかく、そのようにしてイシュテンの王宮には王の妻が二人、住まうことになったのだ。




「ミーナ様? ご気分が優れられないのですか?」

「エルジー……」


 親しい乳姉妹の声に、ウィルヘルミナは追憶から引き戻された。心配そうに眉を顰めるエルジェーベトの姿に、きっと長い間考え込んでしまっていたのだろうと思う。


「いいえ、何も。大丈夫よ」

「私でよければお話相手を務めさせていただきますが……」

「いいえ、良いの」


 気心の知れた侍女が相手であっても楽しくおしゃべりができそうな気分ではなかった。どうせ沈んだ顔になって心配させてしまうくらいなら、放っておいてもらった方が良いと思う。


「ですが」


 断ったにも関わらず、エルジェーベトはウィルヘルミナの隣に腰を下ろした。そしてそっと手を伸ばすと、ウィルヘルミナの結っていない髪を梳いてくる。最初こそ困惑したものの、優しい手つきと間近な暖かさに気持ちも緩み、やがてウィルヘルミナはエルジェーベトの胸に頭を預けていた。何と言っても、生まれた時から共に過ごした乳姉妹なのだ。いつしか彼女は実家にいるような、幼い頃に戻ったような気分で侍女に甘えていた。


「ねえ」


 寝入る前のような蕩けた心地で、ウィルヘルミナは問いかけた。気持ちが溶けて、秘めていた思いが染み出したようだった。


「ファルカス様は、夕べはどちらでお休みだったのかしら」


 エルジェーベトの手が一瞬止まったが、すぐに一層丁寧にウィルヘルミナの豊かな黒髪を(くしけず)った。


「昨晩は表で休まれたということですわ。ミリアールトから帰ったばかりで溜まったご公務もあるとかで」

「そう……」


 ウィルヘルミナはちらりと顔を上げてエルジェーベトの表情を窺った。けれど母親のような慈しむ眼差しも微かに弧を描いた口元も、いつものエルジェーベトのもので、嘘を吐いているかを判じることはできなかった。そんなことを考えてしまうのも、最近ウィルヘルミナが気落ちしている理由の一つだ。


 ――エルジーが私に嘘を吐くかも、なんて……。


 少し前までならそんなことはあり得ない、と断言していた筈だった。でも、シャスティエが――婚家名を与えられた以上はもうそう呼んではいけないのだが、ウィルヘルミナにとってあの少女はシャスティエという名前でしかなかった――側妃になって以来、どうもエルジェーベトを始めとする周りの者たちは過剰にウィルヘルミナを気遣っているように思われる。

 シャスティエのことを悪く言うのも、そうすると彼女が喜ぶと信じている節があった。人の悪口を喜ぶような性根だと思われるなんて、ウィルヘルミナにとっては悲しいとしか思えなかったけれど。


「今日はこちらにいらっしゃると思いますわ。マリカ様が寂しがっていらっしゃるとお伝えしましょう」

「そんなこと、良いのに」


 夫が今まで通りだと言ったのは全くの嘘という訳でもなかった。ウィルヘルミナもマリカも、夫や父と過ごす時間が目に見えて減ったということもない。遠征や内乱の際はもちろん、急ぎの公務が重なったり泊りがけの狩りがあったりで数日顔を合わせないこともよくあることだったのだから。だから、今朝マリカが父の夢を見たと言っていたのも、特別意味のあることではない筈だ。きっと、意味を見出そうとしてしまったウィルヘルミナの方がおかしいのだろうと思う。


「ミーナ様は優し過ぎます。もっとお怒りになっても良いところですのに」

「どうして怒るの?」

「……お怒りにならずとも、もっと陛下にお心を打ち明けられてはいかがでしょうか。寂しいだとかひどいだとか。()()()()()へのお渡りは、さぞご不快でいらっしゃいましょう?」

「そんなこと思ってないわ……」

「ミーナ様――」


 エルジェーベトの溜息が、ウィルヘルミナの胸に重く降り積もった。自分が駄々を捏ねる子供のように思えて責められているような気分になってしまう。ウィルヘルミナはどうしてもシャスティエのことを悪く思わなければいけないのだろうか。


 確かに夫がいない夜は寂しいけれど、でもシャスティエも同じように不安や寂しさを抱えている筈だ。父がすぐ傍にいて、娘にも恵まれたウィルヘルミナと違って異国にひとりきりなのだから尚更だろう。だから、夫が彼女の元で過ごすのも当然の筈だ。

 夫もシャスティエも、ウィルヘルミナにとっては大切な存在。そのふたりがすぐ近くにいるというのに、どうして嫌な思いをすることがあるのだろう。


「シャスティエ様に会いたいわ……」


 ウィルヘルミナは独り言のように呟いた。このように訳の分からないもやもやとした気分を抱えているのは、最後に会った時のシャスティエの様子が気にかかっているからだ。まるで嫌われてしまったかのようで怖くなってしまったのだ。また優しく語らうことができたなら、こんな気持ちも消えてしまうことだろう。


「いけないかしら」


 反対されることを恐れて、ウィルヘルミナはエルジェーベトを上目遣いに見上げた。彼女がシャスティエについて語るのを、この侍女はあまり快く思っていないようだったから。


「……それも良いかもしれませんわね」


 だが、予想に反してエルジェーベトは微笑んで頷いた。


「王妃の命ということで、呼びつけてやれば良いのです。立場の違いを分からせるのも必要でしょう」

「命令とかじゃなくて」


 抗議しようとしたウィルヘルミナの唇は、エルジェーベトの指先で優しく塞がれた。


「陛下のご都合もお伺いしておきましょう。ご一緒していただけるように。王の隣には王妃がいるもの、と。見せつけてやらなければいけません」


 ――シャスティエ様に、失礼ではないのかしら。


 エルジェーベトがあまりに楽しそうで、ウィルヘルミナは逆に言いようのない不安に襲われた。けれど、それ以上にまたシャスティエに会いたかった。会って、何一つ変わっていないということを確かめたかった。だからエルジェーベトを止め切ることができなかった。


 王と王妃と側妃が集う茶会の日程は、ウィルヘルミナのあずかり知らないところで決められた。

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