初夜 シャスティエ
広間でのお披露目の後、シャスティエは改めてイシュテン王宮の住人となった。
といっても与えられた離宮は以前滞在していたものとは違う、以前のものより幾らか大きい建物だった。厨房も井戸も備えているからこの建物の中だけで生活することができるのだという。仮初に貸し与えられたものではなく、今度こそシャスティエ自身の住処と言って良いだろう。
とはいえそれも瑣末なことだ。更に重要なことには、この離宮は王と王妃が住まう王宮の中心部からはやや離れた奥まったところに位置している。
つまり、新しい側妃の存在が王妃を煩わせることは最小限に抑えられるはずだった。
――ミーナ様。それでも、きっとお悩みにはなるのでしょうけど……。
無邪気な王妃のことを思うと、シャスティエの胸は痛む。
新しい離宮に落ち着く前に、彼女は王に伴われて王妃に挨拶をしていた。側妃として、王に仕えることになると。
王の無事を喜んでいた表情そのままに、あの優しい人はシャスティエも迎え入れてくれた。しかし夫を他の女と分け合うということはどれだけ理解していたのだろう。濡れたような黒い目には、不安の色も確かに浮かんでいたと思う。
ミーナは優しすぎて無邪気すぎて、絶対に傷つけてはならないと思うのに。復讐を誓う一方で、そのために存在するだけであの人を脅かす存在になってしまったのが、シャスティエには苦しくてならなかった。
離宮で暮らし始めて数日が経っている。荷物を片付け、新たに付けられた侍女や召使を把握するのにそれだけの時間が必要だった。遠征の間の埋め合わせだろう、王はミーナやマリカと過ごしているようでシャスティエを訪れることがないのは幸いだった。
だから、数日の間は人質時代とほぼ変わりなく過ごすことができた。
だが――
「とてもお綺麗ですわ、シャスティエ様」
「違うでしょう、イリーナ。今の私はクリャースタ・メーシェ」
「……クリャースタ様。出来上がりました。きっと陛下も見蕩れられると思います」
「そう、ありがとう」
この夜、シャスティエは美しく着飾って化粧を施されていた。夕方から入浴もして、髪も身体も磨き上げた上でのことだ。深夜に向けて身支度を整えるのは非常に奇妙なことにも思えたが、これが側妃になるということなのだろう。
今宵こそ、側妃として初めて王を迎えることになる。形だけでなく、本当にあの男の妻になるのだと思うと、不安と緊張でろくに口を開く気にもなれなかった。
「姫君、クリャースタ・メーシェ様。何か召し上がりますか? お顔の色が真っ白です」
「いらないわ」
イリーナと違って滑らかに婚家名でシャスティエを呼ぶのは、ツィーラという侍女だった。以前から世話になっていたけれど、この度正式にシャスティエにつけられることになった。先王時代から長く王宮にいて、側妃や寵姫に仕えたこともあるという。度重なる内乱で実家を失くし、王宮を故郷にしているような女だから信頼できると王が言っていた。
「食事もあまり進んでいらっしゃらなかったご様子です。果物か、せめて飲み物だけでも」
「いいの。大丈夫よ」
菓子や切り分けた果物、果汁や葡萄酒を示す老女に、シャスティエは頑なに首を振った。気遣いと分かってはいても、やはりそんな気分にはなれないのだ。
よほどひどい顔色をしていたのだろう、ツィーラは悲しげに眉を下げてシャスティエの顔を覗き込んだ。イリーナほど親しくはないから、髪を撫でるようなことはしない。
「陛下はあれで優しい方です。お気持ちはお察ししますが、どうかお気を楽になさってくださいませ」
「ええ。ありがとう」
気持ちが理解されているなどとは思えなかったが、それを口にすることの愚もよく分かっていたのでシャスティエはただ短く頷いた。
王は、訪れるとすぐに人払いを命じてシャスティエと二人きりにさせた。
「なかなか来ることができなかった。悪かったな」
「いえ……」
ツィーラの手配で酒肴は用意してあるが、王が手をつける気配はない。シャスティエが酌をするべきところなのか、大いに悩む。しかし王は咎める様子も気にする様子も見せないので、手を膝に置いたままで卓を囲むしかできなかった。
「ろくに話もできないままでここまで来てしまったからな。分からないことがあれば聞け」
「特にございません。この離宮のことなどは侍女に聞いております」
「そうか」
あまりにも愛想のない答えだったのかもしれない。王は軽く眉を寄せたがそれ以上の苛立ちは見せなかった。
「……側妃は実家の格に応じた手当が与えられる。お前の場合は王族の出だから公爵格ということにした。儀礼の場での扱いもそれに準じるから、リカードよりも格上ということになるな」
ありがたがれと言っているのか何かしらの皮肉なのか判じかねて、シャスティエは答えに窮する。それに、王が告げたことは広間で感じた不安をも呼び起こした。
「過分な厚遇をいただいてしまったのではないかと懸念しております。グニェーフ伯のことも……ありがたいこととは存じますが……」
「そう。今回の始末ではリカードを攻めた。あの者がイシュテンにいた方がお前も心強いだろうし、俺の手駒を増やす意味もあったが――」
「私のため、ですか」
「うむ」
思わず遮ったシャスティエに対し、王は当然のような表情で頷いた。聞いた方が戸惑うほどに、自然な動作だった。
――この男が私のことを考えていたなんて。
ティゼンハロム侯に対抗するためだろうとしか考えていなかったし、事実その意図も王は認めた。しかしそれに並べてシャスティエを気遣う言葉が飛び出したのには驚くほかない。
「これまでのことがあった以上、お前が狙われることは当然想定すべきだろう。ミリアールトを離反させるのは俺としても望むところではない。あの者にイシュテンでの基盤を与えればリカードへの牽制になる」
「そうですか……」
「リカードにとっては不満だろうが。しかし対決するならば早目にした方が良いと考えた。お前の子に王位を継がせるなら敵対は避けられぬからな。機先を制するのも良いだろう」
「私の、子」
鸚鵡返しに呟いたシャスティエに、王は軽く笑った。皮肉でも恫喝でもない微笑みが彼女に向けられるのは、初めてではなかっただろうか。驚くのと同時に、見入ってしまいそうになる自分自身を戒める。多少の厚意を示されたからといって、気を許して良い相手ではないのだ。
しかし王はシャスティエの警戒に気付いた様子はなく続けた。
「そういう話だっただろう。――この点も、改めて約束しよう。ミリアールトをもらったからにはその忠誠には必ず応える」
「大変嬉しく思います。私としては、我が子に王位をいただけるならば他に望みはございません。誠心誠意、陛下にお仕えいたします」
気を許してはならない。そう思いつつも、王が明言してくれたことは嬉しかった。だから、シャスティエはこの夜初めて王の目を見てはっきりと答えることができた。その目の色さえ今までになく穏やかで落ち着かなくさせられたが。
「妻となったからには、俺もお前を守るつもりだ。異常があればすぐに言え」
「……はい」
「ミーナが何かするなどとは思っていないが、リカードの手の者が王宮に潜んでいることもあり得る。側妃に害を加えようとするのは寡妃太后に限ったことではないだろう」
「……はい」
「引き続きアンドラーシやジュラを奥宮へ呼び入れるのを許す。グニェーフ伯──イルレシュ伯もだ。王の権威にも関わることなのだから側妃といえども侮りを許すな」
――でも、ミーナ様にはどう思われても仕方ないわ……。
きっとあの人は優しすぎるから怒ったり虐めたりするよりも困惑して不安がるのではないかという気がしたけれど。だが、もしシャスティエに憤りをぶつけたいと思ったとしても、それは正妻の当然の権利なのではないだろうか。シャスティエは甘んじて受け入れなければならないのではないだろうか。
「……はい」
そうは思っても王に口答えするなど思いもよらない。だからシャスティエは三度、曖昧に答えた。そして内心の悩みは王には見えなかったようで、彼女の夫になった男は満足したように頷いた。
その後しばらくは沈黙が降りた。王は場を繋ぐように酒に手を伸ばし、シャスティエは注ごうと身じろぎしたのを目で制されて居心地悪く椅子に留まった。
これから何が起きるか、分かってはいるのだ。夜は既に更けている。語ることがなくなれば寝台に行くものだろうし、そこでただ寝るだけなどとはあり得ない。
「――覚悟は良いか?」
王がついに酒杯を置いた。この男の方でも躊躇いがあったのかもしれない。この男に好かれるようなことを、シャスティエは何一つしてきていない。恐らく関わりたくないと思っていたことだろう。
「……はい」
「とてもそのような顔には見えないが」
衣擦れの音と共に王は立ち上がり、シャスティエの元へと歩み寄る。顎を捕らえられて見上げれば、いつもより高い位置から青灰の瞳が見下ろしていた。彼女の覚悟を測るかのように。
「大丈夫です」
「嫌なら今宵は止めておくが。心が定まってからの方が良くはないか?」
「大丈夫です」
シャスティエは頑なに繰り返した。王の執務室に忍んで行った時、抱き寄せられたのを拒んで嘲られた記憶が鮮明に蘇っていた。またあのような醜態を繰り返して不興を買うことは避けたかったのだ。
「本当に?」
顎を持ち上げられて、立てと促される。従って椅子から腰を上げると、王の身体は恐ろしいほど間近だった。腰に腕が回されて、更に引き寄せられる。ミーナはどうして王に抱かれていつも嬉しそうにしているのか分からない。馴染みのない男の、身体の硬さも匂いも熱も、ただシャスティエを緊張させて鼓動を早めさせるばかりだ。
「今度は逃げないのだな。震えているが」
王もシャスティエと同じことを思い出していたらしい。褒めてやるとでも言うかのように、あるいは試すかのように身体の線をなぞってくる。
その掌に、口調に、突然言いようのない怒りを感じる。どこに逃げられるというのか。そんなことが許されると思っているのか。
「――いくら時間をいただいても覚悟など定まるはずもございません。ならばお好きになされば良いのです」
勇気を振り絞って王の顔を睨め上げると、相手は驚いたように目を瞠り、ついで苦笑した。余裕の差が気に入らなくてシャスティエは更に声を高める。
「世継ぎのためには必要なことでしょう。私は耐えますから、幾らでも……お望みのままに……」
「自分の言っている意味が分かっているのか。今にも泣きそうに見える」
顔を寄せられて視界が滲んでいることを指摘され、悔しさに唇を噛む。それでも目を逸らすことなど思いもよらない。掠れてしまった声を再度振り絞り、できるだけ毅然として答える。
「大丈夫です」
「あくまで言い張るか」
「え?」
すると王は笑みの種類を変えた。シャスティエも見慣れた狼の笑みに。けれど浮かぶ感情はいつもの嘲りではない気がして、言い募る言葉を失ってしまう。
「――ならば望み通りにしてやる」
「え――?」
耳元で囁かれるのと同時に、足が床から浮いてシャスティエは心もとない声を上げた。抱き上げられた、と気付いた時には王の足は扉へと向かっていた。酒肴を囲んでいた居間とは続き部屋の――寝室へと。
「お前は一度、男の本気の力というものを思い知ったほうが良い」
「なに――何をするのですか」
「好きにしろと言われたからな。そうするというだけのことだ」
言われると同時に、シャスティエはふわりと身体が浮く感覚を味わった。一瞬の後に背に触れる柔らかな感触に、寝台に投げ出されたのだと知る。
「お前を可愛らしいと思うことがあるとは思わなかった」
くつくつと笑い含みに呟きながら、王はシャスティエの靴を脱がせて床に投げた。素足が夜の冷気に触れるのを、とてつもなく心細く思う。膝を曲げて足を引き寄せ、小さく縮まろうとする動きは、しかし、のしかかってくる重い身体に阻まれた。
「涙目で懇願したりなどするからだ」
下肢を身体で押さえけられて、肩を掴まれて寝台に縫い止められるよう。目の端に映る腕は太く力強く、女の身では動かせそうにない。
――いや……こわい……。
それに身体が動かせない。どうして今まで強気に噛み付くことができたのか不思議なほど、自身の弱さを思い知らされる。王が言った通りだった。シャスティエは、男と女の力の差を本当の意味では知らなかった。
「どうした? お前が望んだのはこういうことだ」
王の掌が頬を覆い、更に首筋をなぞる。揶揄う口調に憤る気力すらなくして、シャスティエは虚しく吐息を喘がせた。
――こんなことだなんて……。
この先を、望んでいるはずなどない。だがこの期に及んで嫌だなどと拒むことができないのもよく分かっている。だから、少しでもそれを先延ばしにする言葉を探して、必死に頭を巡らせる。
「まって――すこしだけ……」
舌に慣れたはずのイシュテン語の発音が、今この時に限ってはひどくたどたどしいものになってしまう。それでも、十分に聞こえ、伝わるはずだった。
だが――
「待てると思うか?」
狼が、牙を剥いて笑っていた。獲物を前に、どうして引き下がることがあるのかと。ぎらつくような青灰の目が、迫る。
「や――っ」
上げかけた悲鳴は、噛み付くような口付けに呑み込まれた。
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